父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(8)

前話: 父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(7)
次話: 父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(9)


手術まで二週間余。

呼吸器外科の外来診療ではいくつかの飲み薬を処方されたよ。痰を出しやすくするゼオチン錠とムコソルバン錠、胸に貼って気道を広げるホクナリンテープという貼り薬。それに、特殊な容器に入れて吸入するスピリーバというカプセル。調剤薬局ではカプセルを容器に入れるやり方や吸い方の説明を聞いた。

風邪薬くらいしか飲んだことのない父さんにとって、説明書を読んだり、扱い方を教えてもらったりしなければならない薬は面倒くさいものだった。どれが何に効く薬なのか、いつ、どれを、何錠飲めばいいのか、よくわからなくなってしまう。薬の名前など、とても覚えられないし。

だから、お薬手帳を初めてつくった。

薬を小分けする小さなビニール袋を買い、仕訳して入れて、飲み忘れや飲み間違えをしないようにした。

そんなことをしていたら、亡くなった父のことを思い出したんだ。

長らく肝臓を患っていた父は、晩年、五種類以上の薬を常時服用していた。毎月の定期検診から帰ると、それぞれの薬を几帳面にハサミで切り離し、食前・食後の区別をして、飲むべき数を間仕切りのある専用のボックスに保管していた。酒は飲めない。相当な下戸。禁断症状に苦しみながら、タバコもきっぱりとやめた。肝臓には人一倍気をつかった。

「そんなに神経質になって薬飲んどったら、かえって寿命を縮めるんとちがうか。」

言ってみても、マニアックな父は聞かなかった。

今になって父の気持ちがわかるような気がするよ。父が食前食後に飲んでいた薬はほんとうに大切なものだったんだ。そのひとつひとつが命をつなぐ薬だった。命に直接かかわることなんだから、本能的に神経質になっていたんだ。

父さんも肺がんとは無関係なことに動揺するときがあった。

たとえば、目の充血。ふっと鏡を見たときに、目が真っ赤になっているとドキリとする。それにちょっとした目眩やジンマシン。前々からある腰痛さえもが肺がんの影響ではないかと勘ぐってしまう。内心、気持ちが弱くなっていることは否めない。そんなときには、おどおどして下を向いて歩いていないか自戒して、意識して胸を張って歩いた。

そして、呼吸器内科の先生に話をした。そうすると、たった一言で解決する。

「それは関係ないですね」

父さんがやるべきことはまだまだたくさんあった。

看護師から、

「コーチ2を買って持ってきてください。院内のコンビニに売っています。」

インセンティブ・スパイロメーター、コーチ2。

呼吸訓練器のことだった。不思議な形をしていた。肺がんにならなければ目にすることはなかっただろうと思う。


マウスピースを取り付けて、一定の速さで吸いながら筒の中にある黄色いピストンをゆっくりと持ち上げる。吐いて持ち上げるのではなく、大きく吸い込む。深呼吸を促し、息をしっかり吸うことで肺を広げる効果がある。手術前後に使い、肺の隅々まで空気をいき渡らせる。肺胞を膨らませることによって、術後の合併症の予防や呼吸機能の回復に役立てる。

合併症予防に効果があると聞くと切実になる。

意識して大きく息を吸うことが命をつなぐことになるんだ。

「腹式呼吸と口すぼめ呼吸の練習をしますね。そのあとで、咳、痰の出し方の練習。それと呼吸体操もします。たいへんですけれど、がんばりましょうね。」

看護師から、小一時間、呼吸の指導を受けた。

腹を膨らませながら鼻から大きく息を吸って、軽く止め、腹をへこませながら吐く。口をすぼめて、口笛を吹くようにしてゆっくりと息を吐く。そうすることによって口元に抵抗が加わり、つぶれやすくなった細い気管支を広げたままの状態に保ち、腹筋を使って息を外へと吐き出すことができるようになる。うまく吐ければ、うまく息を吸える。そうなれば息切れがやわらぐ。

「吸うときの二倍の時間をかけて、口をすぼめて息を吐き出してください。簡単なことなんだけれども、結構、きついですよ。がんばって。」

息を吸ったり、吐いたりしているだけなのに汗ばんでくる。

手術後は非常に合併症が起きやすい状態になる。100人に1人が合併症を起こすと外科医は言っていた。予防するためには、人工呼吸器が外れた直後から、なるべく深く大きな呼吸をしなければならない。

これが肺がんになった父さんの現実だった。

父さんは、このときになって、ようやく肺がんになった自分を素直に受け入れることができたような気がしたよ。もうほんとうに逃げられないと心の底から実感したんだ。

呼吸訓練を無心になってやりきらなければならない。

母さんが言っていた、そこそこの幸せをとりにいくために。

続きのストーリーはこちら!

父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(9)

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。