ヨガに出会うまでの旅<ヒストリー>

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もし、ヨガに出会えていなかったら、私はろくでもない人間になっていたと思います。


「夢も希望も全く見えず、音や匂いすらもとうとうかすれてきました。

わたしの命のともしびが消えかけてきたのです。

わたしの心の深い暗い闇から、つめたくって音もしない、匂いもない、

わたしは意を決してこの身を、命すら明け渡す決心で肚をくくる覚悟をしたのです… … …」



エピソード1

横浜でやんちゃだった頃

やんちゃ過ぎた少年時代

〜ウィンドサーフィンに出逢うまで〜

(二度の中退の話…)


小学生時分は運動と読書好きの父親のおかげで体育と作文が好きな子どもでしたが基本的にはボーっとするのも好きでした。

活発な面もあり、見様見まねで学校の砂場でバク転、前転、側転、なんでもできました。習い事は塾と書道なのに、なぜかお呼びがかかり水泳や陸上の大会に出たりもしていました。

自分でいうのもあれですが、元祖ジャニーズ系でした。

ジュノンボーイなんてまだない時代です(笑)

お気に入りの大好きな歌は“アイル・ビー・ゼア”ジャクソン5です。




中学生になり入学した学校が当時神奈川で一番ワルと評判の学校で、

入学式中に上級生から因縁つけられて、いわゆる「メンタン切られ」たり。

その上級生のイニシャルはH・Y。今でもおぼえています。

とにかく荒んだ生徒が多い学校でした。当時の部活は県内唯一のフィギュアスケート部。お気に入りの想い出は“ジャネット・リンがお気に入りだった”ことです。


2年生で市内の別の学校へ転校しました。

ワルサ100倍のとこからの転校生という事ですぐに私は上級生らから目をつけられましたが、ハッタリをかましてデカイ態度で臨んだところ、見事退散してくれました(ホっ)。

その後、卒業まで番を張ることになりました。

自慢ですが、他校の女生徒からも人気で、“ビーバップハイスクール”を地でいってました(苦笑)。

そのころの友達M・I君のおかげでスピリチュアルにも目覚め、体外離脱を何度も体験するように。他に、心霊現象も毎日のように観ました。

チャネリング、サイキックな能力も開花し、同じくして、暴走族にも参加。

国内最大のチームだった“○○○○エンペラー”の横浜支部幹部として、再三の補導で幾度か両親と共に家裁へ行ったのは、今思えば本当に親不孝な息子でした。


その後もやんちゃな氣質はあいかわらずで、翌年入学した某美容学校もわずか2ヵ月で退学。親からの大ひんしゅくをかってしまいました。(当然ですよね)

その後は、友人のすすめで東京ディズニーランドを作る建設作業員としてIHI等で研修。まだ赤土とダンプ、重機入り混じる中、アドベンチャートンネル等を建設する部署で作業にあたりました。



そして、そのころ人生を決定的にした一件がおきたのです。

非行仲間だったS・S君がとある一件のことで急にいちゃもんつけてきました。

「亀、つきあい悪いんだよ!」と言い放ち、顔を拳でおもいっきりなぐられたのです。

とっさのことで一瞬ひるみましたが、気をとりなおしなぐり返そうか思ったけど、急に心の声がしてきてアホくさくなったので、「じゃあな!」とだけ言ってその場を後にしました。この時の自分の心の声を今でもハッキリおぼえています。

「こんな事してたらだめだ。別の世界で生きよう!」って。


その後、外資系大手の企業に奇跡の就職決定。

在職中三度の全社トップセールスの売り上げを叩き出しました。18、19才の頃です。

休日になんとなくウィンドサーフィンをはじめてみました。



3回目のウィンドスクール中コーチから衝撃の「ひと言」がありました。

「男のくせにおまえバランス感覚悪いな!」って。

この一声が私の負けず嫌いの炎を一氣に燃え上がらせてくれました。

その晩、いきつけの居酒屋A太郎で

「○○○さん、おれ、わるいっすけど世界行きますから!

プロウィンドサーファーになって世界でたたかいますから!!!」

と公言してしまったのです。

同席の友人らは、「むりでしょ~~」とか

「でかいこと言わないほうがいいよー」とか、

ネガティブ系のそんな言葉だらけでしたが、

わたしにはすでにハッキリとその時“世界”でたたかう自分が

ありありとハッキリみえたのです。


それからすぐに会社に辞職願出して、毎日横浜の鶴見から湘南に通いました。

365日24時間、海とウィンドサーフィン漬けの生活に入りました。

夜はまかない付きの湘南のとあるカフェバーでバイトして、

昼間は一日中海にでて練習を続けるという日々が始まりました。

ウィンドサーフィンはなんせ道具が多いスポーツなのでお金がかかります。


ボードにセイル、ウェットスーツ等々、それに車も。

ほんとうにお金がかかるスポーツなんです。

試合や合宿、遠征でお金が必要な時は今でいう読者モデルや、

新宿でホストクラブのバイトしたりもして資金を捻出してました。

まだバブル経済前夜って頃でした。



エピソード2

プロウィンドサーファー時代

〜草レースからわずか数年で世界へ〜

湘南や地方への遠征で、アマチュアとして数々の実績をつくり、わたしはプロのウィンドサーファーとしてついにデビューしました。ほろ苦い下積み時代の苦労が報われた瞬間を味わいました。

同時にその頃、湘南でウィンドサーフィンスクールの校長兼インストラクターもしてました。徐々に認知度も上がり、毎日多くの人が受講しに来てくれました。

地方の方や海外からも。わたしが海外へ行った時でも現地でお声がかかるほど大人気でした。

その当時、時の運(命)をしっかりつかんでいた私は、やることなす事すべてに自然に上手くいきました。


気力・体力・知力のどれをとってもなにも怖いものなんてありませんでした。

練習の成果が徐々に着実につながりだしてきました。

全種目出来るプロは日本ではまだ少なく、テレビやマスコミへの露出も増え、

わたしを支援してくれるいくつものスポンサー企業からはとても感謝され喜んでくれました。

ここまでこれたのは自分のあくなき挑戦と膨大で緻密な練習・研究、そして、後援会、スポンサー企業、友人、メンバーさんたち全員のおかげです。

世界でたたかう環境と運にめぐまれたことは今でも誇りですし、感謝しています。







しかし、すべて順調だったわけではありません。

もともと呼吸が浅く、すぐに疲れてしまう性分のうえ、せっかちで些細な事にもイライラしっぱなしな面は相変わらずのままでした。

それと、線が細い少年だったわたしはとにかく筋肉をつけるのもひどく大変でした。


一日6食の食事法を実践して、合間にもプロティンアミノ酸や各サプリ等々、ありとあらゆるトレーニングを試し、筋肉つけて体重増やして試合に臨む生活でした。徐々に筋肉もつき、MAXで85キロの体重になって、体脂肪は3%でした。

見た目はたしかにボディビルダー並みまで仕上げましたが、いかんせん脂肪をそぎ落としすぎて体が冷えきってしまい、冬の海に入るのがつらくなってしまったのです。

ですので、翌年からは脂肪を落とし過ぎず、体脂肪を8~12%でのコンディション作りに代えていくことにしました。


しかし、悩みや状態を外的要因のせいにしてしまう癖は治らず、呼吸も浅いままでした。そんな状態を打破してくれるのはいつなのか想いをめぐらせている時のことです。

偶然、アメリカ遠征を終え、わたしはインディアンの酋長主宰の瞑想合宿に参加する機会を得ました。

各自の大きなリュックに寝袋や食料を詰め込んで、

全米中を歩いて横断する歩行瞑想のキャンプです。


見ること、出くわす事、カルチャーショックの連続でリーダーの酋長の半端ないスピリチュアルパワー炸裂の瞬間にも何度も遭遇しました。

ある日、朝からサークル(円陣)組んである儀式をしてた時です。

無風で、とおくの煙もまっすぐ上に昇る状態でした。


しかしです。

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