24歳ニートの僕が、謎にインドネシアに行って社長になるまでの話。後編
補足だが、インドネシアは当時完全なバブル期で、日系企業の進出企業が多く(日系企業に限ったことではないが)、ビルやオフィス、飲食店などの新しい建物がどんどん建っていた。
それなのに、僕が知っている限り日系の内装会社は3社ほどしかなかったのだ。
駐在している人は、インドネシア語はもちろん英語が苦手な人も多いので、
少し高くても「日本人にお願いしたい」「日本人がいないと信用できない」という考えがあることはわかっていた。
それは僕自身が店舗を作った時に、
細かいニュアンスや専門用語が伝わらず、意思疎通に苦労したことと、
そもそも
・言ったことをやらない
・納期に遅れる
といったことが頻発することに苦労したという経験があったからだ。
いざ営業代行をやってみると、見事に思惑通り、やはり日本人ニーズは高かった。
内装のことについては完全に素人だったので「内装のこと知らねーじゃんこいつ」と、思われていただろうが「できます、やります!」と言ってたら、誰もが知っている超大手企業から受注が取れてしまったこともあった。
「こんなの本当にできんのかよ?」なんて思いつつ、会社に戻って明るく報告したところ、案の定「こんな期間じゃできない!」「こんな材料ムリ!」と「無理」のオンパレード。
ご機嫌とったり、お願い攻撃連発したりしてなんとか乗り切りながら、4,5ヶ月で数百万のお金を稼いでいった。
■ラーメン屋オープン!そして思いついた、次なるビジネスモデル
その頃パートナーのアントンくんはというと、事業も順調で、ラーメンのゲームを作っていた。そんな時、たまたまバリ島の知人から連絡が来た。
騙されて開店資金も足りなくなっちゃって困っている。今は自家製麺を作って製麺屋として生計を立てているんだけど、麺の販路をジャカルタで広げるとか、何かできないかな?
という内容だった。
アントンに相談すると
という話で盛り上がり、なんと本当にラーメン屋をオープンすることになった。
このラーメン屋がのちのち大きな事業展開のキッカケとなる。
ラーメン屋をオープンしてからというもの、研究という名目でラーメンを食べまくり、
もともと大きめの体格だったアントンがさらに巨大化し、お腹も目立つようになってきた。
それを見て
と思った。
華僑にデブコンプレックスがあるとしたら、マーケットは大きい。
インドネシアは完全に車社会で、どこに行くにも車だから歩きもしないし、インドネシアの食べ物は油ものが多い。
ジムにでも行けばよいのだが、そう簡単にジム通いは続かないはず。
そうアントンに聞いてみると、
・・・・・・なるほど。
サロン立ち上げの経験もあるし、そうと決まればすぐ情報収集。
ジャカルタにはある日系サロンは、以前僕が作った脱毛サロンのみだった。
当然のことながら痩身サロンはなし。
最近日本で流行っているマツゲエクステもやってみたらどうか、と思いつく。
巷の噂では、どうやらこの国の景気はこれから非常によくなるらしい。
人口が多く、若い人も多い。所得が増えると、美容にお金を掛ける人が増えるはず。
・・・・・・いける!
しかし、誰もが考え付く方程式を作ってみたはいいものの、肝心のお金がなかった。
ジャカルタでの店舗型商売は、日本以上に初期投資がかかる。
なんと言っても家賃の2,3年分を先に支払うのが当たり前の世界なのだ。
■大切なのは考えることよりも、覚悟を決めること。大人が本気で遊べば、それがビジネスになる。
何かをするとき、まず方法・やり方を考える人が大多数かもしれないが、
僕が思うに、もっと大事なのは「決める」「やる」という【覚悟】だ。
方法ややり方は、きっと覚悟の後からついてくる。
この方程式通りに覚悟を決めると、協力してくれる人が現れ、一緒にやってくれる人が集まり、資金も僕の要望する条件で集まった。
あと人材と場所を探して、準備するだけ。
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