第1章 青蒼色の蕾

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入社して一年半が過ぎ、突然の辞令で私は社長第三秘書となった。何が何だかわからないまま、突然の辞令により生活が一変したのだ。何故私にそんな辞令がおりたのか不思議でならなかったし、驚くばかりだった。経験のない仕事、独特の世界。今まで大勢の仲間たちの中で賑やかに仕事をしていた毎日から、秘書の先輩二人と私、時々社長というメンバーでの仕事が始まった。高校卒業したて。田舎者の貧乏育ち。こんな世界は無縁の世界だったし、先輩との遊びにもついていけない程気おくれしていた。第一秘書は帰国子女。英語は堪能。美人でスレンダー。てきぱきと仕事をこなす無駄のない人だった。社長からの信頼も厚く、旦那さんは副社長。第二秘書は小柄でお嬢様風な人。積極的な感じではないが、淡々と言われた仕事をこなす堅実な感じの人だった。

私は二人の先輩にとても可愛がられた。田舎臭い私に、先輩秘書は改造大作戦と言って、いきつけの洋服屋さんに私を連れて行き、流行りの洋服をコーディネートし一式買ってくれた。まるで着せ替え人形のように、それからも色んなお店に連れて行き、洋服選びをするのだった。私の誕生日には、経営するリゾートホテルの一番最上階の高い部屋に宿泊させてくれた。四人だけの忘年会は高級旅館への宿泊。先輩秘書について、仕事もプライベートも何もかも知らない世界へ導かれていった。

先輩秘書はその頃ディスコ通いにハマっていて、毎週金曜日は必ず私も引き連れディスコに行くのが日課だった。お酒に酔い、音楽に酔い、時には知らない誰かと陽気に踊る。しっとりチークを踊る。ぎこちない私も麻薬のようにこの雰囲気に酔いしれるようになった。

前の部署の仲間とは仕事のシフトが合わなくなり、遊ぶことができなくなった。突然遊ぶ仲間も遊びの内容も180度変わってしまった。この大きな環境の変化は少しずつ私の中でストレスが蓄積されていく結果となっていることにその時は気がつかなかった。


「なお、寂しいよう!たまには遊ぼう。」

と、同じ寮のアパートの階下にいる前の部署の友達が誘ってくれた。時々だけど、夜友達の部屋で眠るまで話をする時間が作れることがわかった。私の部屋には秘密があるから人を部屋にあげることは出来なかった。たまたま私は相部屋。友達の部屋は一人分空いていて、気兼ねなく遊びにいくことが出来た。そのことを理由に自然に私の部屋には、行けないという友達の中での暗黙のルールみたいなものが出来ていた。階下の友達の部屋に自分の布団を運び、時々一緒に眠るまで話をしてそのまま眠るようになった。

ある日、私は友達から思いがけないことを聞いた。私が真夜中になると突然起き上がり、ドアを開けて玄関を出てアパートの外階段に続く廊下の手すりまで歩いて行くと言うのだ。最初はたまたま寝ぼけているのだろうと思っていたけど、それが頻繁に起こるというのだ。しかし、私にはさっぱり記憶がない。私は廊下に立つと何をするでもなくただどこかを見つめ、話しかけても反応がない。部屋に戻るよう身体を促して動かすと素直に従って戻りまた眠りにつくと言うのだ。最初は私を騙すつもりなんだろうと笑い飛ばしていたが、次の日の朝、私の足の裏は汚れていた。裸足で汚れた廊下にいた証拠が残っていたからだ。びっくりして急に怖くなった。自分が知らないうちに起こる出来事が薄気味悪く、自分のしたことなのに自分には記憶がないことにも底知れぬ恐怖を感じた。心配で病院を受診した。医者からは、ストレスが引き起こしているものだとの診断結果だった。


社長秘書になって苦しかったことは守秘義務だ。気軽に社長室でのことは話せなかった。私は悩んだり苦しいと思うことがあっても、ここの仕事仲間以外にどのように話せばいいのかわからず、悩みを吐き出すところを見付けられず、いつしか胸の中にどんどんため込んでいたのだ。

そんなある日、衝撃的な出来事が起こった。その日は定時を少し過ぎたあたりに退社した。しかし、夜会社に忘れ物をしたことに気付き社長室まで取りに向かった。ドアを開けるとまだ誰かが仕事をしているようで部屋中の電気はついていた。しかし、人気がない。先輩の名前を呼んでみるが返事がない。どこかの部署にでも行っているのかなと思い、忘れ物だけをとって帰ろうとした時、部屋についている浴槽からチョロチョロと水の出る音が聞こえた。部屋の中には浴室がついていたが、普段は誰も使うことはなかった。不思議に思って覗いてみた。すると足が見え、驚いてドアを開けると、浴槽にかぶさるように顔を水面につけた先輩秘書が倒れていた。私は驚きのあまり、腰に力が入らなくなり後ろに転んでしまった。足ががくがく震え、本当は立つこともやっとだったのだが、先輩を助けなきゃと思う一心でもう一度浴槽を覗いた。湯船からはお湯が溢れてチョロチョロと流れていた。先輩は、手首を刃物で切り浴槽の中に手を入れていたため血が止まらずお湯が赤く染まっていたのだ。

「冷静になれ。冷静になれ。」と呟きながら、恐る恐る手首を浴槽から抜き先輩の名前を呼んでみた。意識は朦朧としているようだった。私はすぐに電話口に走り、社長に電話で連絡をとり状況を報告した。社長はすぐに駆けつけてくれた。車の手配をし、極秘で社長自ら病院へ連れていった。


しばらくの間、先輩秘書が出社することはなかった。何が先輩秘書をそこまで追いつめてしまったのだろうとずっと思いを巡らしながら、先輩の穴埋めに必死で余裕なく毎日を過ごしていた。

やっと出社した日。手首には痛々しく包帯が巻かれていた。美しい先輩が疲れた顔をしていた。目にいっぱい涙をため、私にその理由を告白してくれた。


「あなたが私を助けてくれたのね。ありがとう。私ね、主人以外の人に恋をしていたの。デイスコで知り合ったあの人のこと、あなたもわかるでしょう?手首を切る少し前、私あの人と旅行に行ったの。主人に嘘を言って。幸せな時間だった。結婚してるのにこんな気持ちになるなんて、自分でも信じられなかった。好きだったの。でも、旅行に行った後、心が痛くて苦しくて。主人はただただ優しくて。主人を裏切った自分が許せなくなった。自分は何てことをしてしまったんだろうって。主人は私には勿体ない位いい人なの。でも私達には子どもが出来なかった。主人は仕事に夢中で、まだ考えられなかった。そうやって結婚して長い時間を二人で過ごしてきた。何もかも順調で上手くいっていると感じていたけれど、私の心の中はどこか寂しくて、主人との間にすれ違いを感じていたのかもしれない。私、わからなくなったの。あの人は私に真っ直ぐで、ストレートな直球ばかりを心の中に投げ込んでくる。どんどん私の心の中に入ってきたの。それを恋と勘違いしたのか、私は本当に好きだったのか、主人への猛烈な罪悪感と、何が何だかわからなくなって気が付いたら手首を切ってた。私ね、主人に何もかも話したの。別れを覚悟していたから。でも、主人はやり直そうってこんな私に言ってくれた。私の事を責めなかった。気持ちが落ち着いて私には主人しかいないって思った。私を許してくれた主人ともう一度頑張ってみようって思うの。あなたのこと驚かせて、心配かけてごめんね。」

ただ聞くことしかできない私だったが、先輩の苦しい気持ちは理解できた。二人で泣きながら話をした。完璧だった私の先輩。でも本当はもろくてガラスのような心を持ってて、自分の心さえもガラスの欠片で傷つけてしまうような人だった。


私は少しずつ気持ちを固めていた。ここは私のいる世界ではない。ちゃんと自分の気持ちを話し、またもと居た部署への異動願いを出そうと。私は真面目にこつこつと地道に働いているほうが、自分の性分にあっていると感じていた。

元いた部署へ戻ることが出来たのは、それから数か月後だった。少しずつ私の夢遊病も消え、また元の生活が戻ってきた。職場の皆は温かく迎え入れてくれた。でもどうやらわたしは、元の部署に戻ると仕事に夢中になりすぎるようだ。前にも増して、一生懸命働いた。楽しかった。直接お客様に接する仕事には、常にやりがいを感じた。思い切り仕事ができる。私は自由。そして、沢山の仲間とする仕事。ここが私のいる場所だったんだと改めて思った。


ある日、突然会社の同僚が私の部屋を訪ねて来た。腕の中には真っ黒で毛がふわふわの猫。捨てられていた猫を拾ったのだが飼いきれず、動物好きの私のところに連れてきたのだ。

「ねぇ。ここは会社の寮だしアパートなんだよ。いくらなんでも飼えないよ。」

しかし、今にも部屋の中に入ってきそうになる同僚に断りきれず、同僚はそれをいいことに半ば強引に猫を置いていってしまった。

「本当に私の家には何でこんなに居候ばかり集まってくるんだろう・・・。」溜息が出た。

人間の居候は、ここのところ帰ってこないこともあり、私は私の時間を持てるようにもなっていた。

また一つ秘密が増えてしまった。今度は猫と私の共同生活。相部屋だった同僚は、彼と同棲するため

つい先日この部屋を出て行ったばかりだ。

もともと動物好きな私。放り出せるはずもなく...。甘え上手で人懐こい猫で、一緒の生活も悪くはなかった。にゃん太と名前を付けた。仕事で不在にする時間が長かったり、不規則だったためアパートの中に猫だけという生活になることも多かった。寂しがり屋の猫で、家に帰ってくると私の傍をかたときも離れない。帰ってくると、暇な時間を持て余すのか、注目行動なのか、ティッシュの箱からそこら中に紙を引き出し部屋中にまき散らかしてあったり、棚の上から物をいくつも落としてあったり、大変な事態になっていることもしばしばあった。でも私が泣くと、もういいよという位顔を舐めたり、嬉しそうにすると一緒に楽しそうな顔をしたり、この空間の中で心を通わせられる唯一の存在だった。こんな小さな身体なのに、新しい相棒は私の心を癒し、いつも励ましてくれるたくましい存在になっていった。


仕事にのめり込みすぎ、自分の身体の異変には気付きもしなかった。会社で突然の激しい身体の痛み。同僚に付き添われ病院を受診した。仕事を完全に休み、休養をとるようにとの医師からの指示だった。私は暫らくの間仕事に行くことが出来なくなった。(私の中では、大丈夫との思いが強かったのに。)部屋にこもって過ごす毎日は苦しかった。高台に建つホテルは、私のアパートの寮から真正面に見える。近いのに、遠い。仕事に早く戻りたかった。そうだ。病院も真面目に通って一日でも早く良くなって仕事復帰しようと自分を奮い立たせた。通院のためにお金が必要になり、銀行へ引き落としに行った。ところが、通帳に残高がない。目を疑った。それほど沢山貯金があったわけではない。しかしそのわずかな貯金さえも全くなくなっていた。何度も見直したが、結果は変わらない。通帳には、最近何度かに分けて引き落としをされていて残金はゼロになったことが記帳されていた。気が動転していたのと精神的にもあまり良い状態になかった私は、ただおろおろするばかりだった。

帰ると年下の彼が部屋の中にいた。ここのところは、寮の私の部屋にいない日もあり、私にはどうでもいいことだったけど昔から行動はいつも不透明で、何か悪いことでもしているんじゃないかと不信感ばかりがつのる人だ。

「なんか元気ないけどどうしたの?具合悪いの?」

「病院に行くお金が無くなったから、今日銀行にお金おろしに行ったの。そしたら私おろした記憶がないのに通帳の残高がゼロになってた。誰かにお金を盗まれたみたいなの。明日警察に行く。」

「待てよ。冷静になれよ。俺も一緒に犯人を捜すよ。だからもう少し落ち着け。」

彼はそう言って私を止めた。そうだ。まずは冷静に考えようと自分にも言い聞かせた。その夜、私はベッドに横になりながら、冷静に今日の出来事を考えてみた。彼はふらりと夕方から部屋を出て行ったきり、戻ってきていない。最近のよくある行動だ。私達の関係は初めから冷めていたし、私は仕事に夢中だったし、彼には関係なく会社で出来た友達と遊ぶことも楽しんできた。彼が帰ってこないとむしろほっとする。私は殆ど彼の保護者状態だ。いつになったらここから前に進めるんだろうという思いが常に頭の中にはあったが、居座る彼を強制的に追い出すことも出来なかった。


そうだ...

通帳と印鑑があれば、私じゃなくてもお金は簡単におろせる。通帳と印鑑のありかを知っているのは、唯一この部屋に出入りしている彼しかいない!彼のせいで友達でさえもほとんどこの部屋に入れたことがないんだから。犯人は彼しかいない!彼への疑惑が確信へと変わった。

怒りと情けなさ、悲しさで夜は眠れるはずもなく、彼が帰ってくるのをひたすら待ち続けた。

翌日帰ってきた彼をすぐさま問い詰めた。そんなわけないと誤魔化していた彼もとうとう最後に、無免許で知り合いのバイクに乗り、バイクをぶつけて壊してしまい修理代の請求をされ、金に困り果ててこれだけ、これだけと数回に渡りおろし使ったと自白した。もう怒る気力も無いほどに悲しくて情けなくてたまらなかった。

私は殆ど日中、いや一日中彼が何をしているのか知らない。どんな人と知り合って、どんなことをして過ごして、何を思っているのか。ここは彼の雨宿りのような場所だったし、私達はただの同居人同然だったから、私は彼のことには一切干渉もしなかったししたくもなかった。同居してから約二年、彼もどこかに時々いる場所を見つけた様子もあった。

「本当にごめん。金は何とかする。」とだけ言って、またフラっとどこかへ出て行ってしまった。


仕事もできなくなり、身体の調子も悪く、お金も一銭もない。絶望だった。にゃん太を抱きしめて泣いた。にゃん太がいてくれるだけでも心強かった。何もする気が起きなかった。この先どうしたらいいのか。同僚が仕事帰りに差し入れを持ってきてくれた。それ以外は誰とも会わず、寝ながらこれからのことをずっと考えていた。そして、初めて両親に本当のことを話そうと思った。高校を卒業してからもずっと自分は一人で生きてきたようなつもりでいた。でもいつでも大きな受け皿で両親は私を見守ってきてくれたのだと思った。彼と私は歪んだ愛情で結ばれた関係だったのだろう。何故、彼を放りだせなかったのか、これ程まで恋愛感情もないままに一緒にいてしまったのか?彼も家族の中で孤独だったのかもしれない。私達はどこかで似たもの同士だったんだ。普段殆ど電話もしたことのない両親に電話をかけた。今自分に起こっている事、これからの不安、堰を切るように涙が溢れ、気持ちが溢れ、初めて両親に心の底からの正直な気持ちを話した。声が出ない程泣いた。父はただ黙って耳を傾けてくれた。本当に信じられる家族という存在。私がどんなに恐ろしい程荒れ狂っても、全てを許し私を信じ受け入れ続けてきてくれた家族という存在に初めて気が付いた。


私は会社を辞めて田舎で休養しようと心が決まった。迷いはなかった。決心が決まるとお世話になった社長に退職したいと申し出た。社長は最後に一言

「お前はこの選択で幸せになれるか?」と聞いた。私は社長の目を真っ直ぐ見て「はい。」と答えた。

「そうか。それならいいんだ。」私の肩をぽんとたたいた。


職場の皆は最後まで温かく、私のために盛大な送別会を企画してくれた。初めて出会った職場がここで本当に良かったと心から思った。社会人としてのマナーだけではなく、仕事の達成感も充実感もやりがいも、仲間の温かさとチームワークの大切さも全部ここで教えてもらった。厳しい研修も皆で乗り越えてきたことが今では最高の思い出。皆と過ごせる最後の時間を噛みしめながら夜を過ごした。


会社での諸手続きが終わると、父が車で迎えに来てくれた。トラックの荷台に荷物を山積みにしアパートを後にした。にゃん太は初めての車に大興奮で、車の運転をする父の肩に登り前を向いている。

急に寂しさが襲ってきて涙が流れたが、父はただ黙って運転をし続けた。今まで突っ張って生きて来た私だったのに。ただ黙って傍にいてくれるのは、父なりの最高で最大の優しさ。父は寡黙で不器用で頑固なのは昔から知っている。私の頑固さも父親譲りだから。私には全てを失っても、最高の家族がいたのに私は長い間、こんなことにも気が付けなかったんだ。


彼はとうとう私が会社を辞めて実家に帰るまでの間、一度もアパートに現れることはなかった。もうお金などどうでも良かった。これで彼と完全に別れられるなら。もう何もいらなかった。私は全てのことから再出発がしたかった。外れなかった重い足かせを今、自分の力で断ち切ったようなせいせいした気持ちだった。


青蒼色の蕾のような私の恋。青は蒼へと移ろい、花びらは波うち恋の喜びも苦しみもこの花びらのようにひらひらと。そして恋は私という人を形作っていった。





















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