第3章 軌跡~600gの我が子×2と歩んだ道 1

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「Tは子どもが欲しいみたいなんだけど、もしかしたら私達は治療をしないと子どもが出来ないみたいなんだ。でも治療したからと言って絶対できるという保証もない。私と一緒だとTは一生子どもが出来ない人になるかもしれないし、もしそうなら私と別れて違う人と結婚すれば子供が沢山出来て幸せになれるかもって思う。だから子供が出来なければ離婚しようかと思っています。」

私は本気でそう思っていた。

「何言ってるの!Tは子どもを作るためだけになおこさんと結婚したわけではないでしょ。なおこさんが好きだから結婚したんでしょ。離婚なんて必要ない。私の妹夫婦のことは知っていると思うけど、今60歳で子どもはいないの。それでも夫婦二人で仲良く暮らしているよ。世の中には色んな人がいて、子どもが出来ない人だっているんだよ。」

お母さんの言葉は一つ一つ有難かった。心につかえていたものが取れていくのを感じた。私は不安だったのだ。

「私達不妊治療をもう少し続けてはみようと思っています。でも色々あってまだ気持ちが整理できていなくて。」

「二人が望んで二人で決めたことならそうしなさい。でもね、これだけは覚えておいて。なおこさんの体は一つなんだから。体への負担が大きかったりするのもなおこさん。だからもしも子どもが出来ない時、その治療に二人でピリオドを打つという選択もあるということをわかっておいて欲しい。辞めるという選択を持つ勇気があるなら私達は賛成です。」

お母さんの言葉にどれほど勇気づけられたことか。てっきり、孫はまだかとプレッシャーを与えられるとばかり思っていたのに。気持ちが少し前向きになれた。


もともと産婦人科の少ない町なのだ。治療する病院を選びたくても選べないという現実もあり、私達はなかなか前に進むことが出来なかった。気持ちも行ったり来たり。前向きになれる日もあれば、突然後ろ向きになって真っ逆さまに落ちていくこともある。

そんな時、ここから車で1時間ほどかかるが、インターネットで有名な産婦人科病院を見つけた。そこには、病院を受診していなくても大丈夫。気持ちを話してみませんかと書かれている病院内の相談室「こうのとり相談所」の案内があった。毎日インターネットを眺めては見てを繰り返しているうちに、少しずつ行ってみようと思えるようになった。予約をとり病院を訪ねた。また何か傷つくことを言われたらどうしようという恐怖があり、うまく話せるだろうかと不安が大きかった。

「こうのとり相談所で相談の予約をしたYですが。」と言うと、相談室の方が入口まで迎えに来てくれ「よくいらっしゃいました。どうぞこちらですよ。」と、まるで冷え切った体を毛布で包むような温かさで出迎えてくれた。気持ちが幾分リラックスできた。相談室でぽつりぽつりと話しているうちに、心の中から何かが湧き上がってきて、私は泣きながら湧き上がるものを止められず次から次と話しをしていた。「辛かったですね。」とただただ私の気持ちをそのまま受け止めてくれていると感じた。そこには「安心」があった。「次はご主人にも一緒に来てもらって、今の気持ちを話してみましょう。またいつでもいらしてください。」

その言葉通りTも一緒に相談室を訪ねた。話すたびに涙は出るが、涙が流れるたび心は軽くなる。「また治療に向き合えそうですね。私達の病院でも不妊治療をすることはできます。ただし、条件があります。私達の病院で不妊治療を始めるためには、必ず事前に夫婦揃って先生の不妊治療に関する勉強会に出席してもらい、それから不妊治療をするかどうかお二人で決めていただくことになっているんです。」と言われた。こんな病院は初めてだったが、そもそも私達には不妊治療に関する知識など皆無だ。二人で「ぜひ勉強会に行きます。」と即答だった。

それから数日後、先生の勉強会に出席した。勉強会は夜。仕事もほぼ終わってから病院に向かった。先生も仕事のあとの勉強会の講師の仕事だ。会場には沢山の夫婦が座っていた。勉強会を聞くと自分達が知らないことだらけだ。専門用語も多く、難しくも感じたがまずは真剣に聞いてみる。すると突然先生が「ふざけるな!」と怒鳴り、私はびっくりして飛び跳ねそうになった。私達より後ろの席に座っている旦那さんが大きなあくびをしてしまった様子。

「真剣に聞く気がないならここから出て行きなさい。これから先、治療をして辛い思いをするのは奥さんです。でもその気持ちを支えていくのは旦那さんです。二人が同じ気持ちでスタートできなければ不妊治療なんて続かないことなんです。私だって、仕事のあとに皆さんのために時間を作って精一杯お伝えしようと思っています。覚悟が出来ていないようならここにいてもらわないほうがいい。」そう言って怒った。たまたま怒られたのは後ろの席の人だけど、それはここにいる全ての人に当てはまる事。先生は誠実な人なのだと感じた。

「不妊治療で妊娠することが目標ではなく、そこからが始まりなのです。皆さんはなぜ子供を欲しいと思うのでしょう。ご夫婦で話し合ったことはありますか?丁度良いチャンスです。お二人で考えてみてください。」こんな結びで先生は勉強会を終わらせた。

その帰り道私達なりに話し合ってみた。私達二人+一匹の生活には十分満足してきた。私はなぜあんなにかたくなに子どもはいらないと思ってきたのか。今なら自然に子どもも悪くないと思う。ジャンボが少しずつ我が家の家族になっていったように、子どももまた少しずつ私達と家族の歴史を作り乍ら家族になっていくのだと思うと、初めて二人で「不妊治療をしても子どもを作ろう。新しい家族の歴史を作っていこう」と気持ちが一つになった。そしてTのお母さんに言われたように、不妊治療は35歳までは頑張るが、それ以降は話し合ってどうしようか決めようと区切りを決めた。

私達はこの病院で不妊治療をしていこうと決めた。だが問題は仕事との両立。片道一時間の通院なのだ。どうしても休みが多くなる。そこで上司に相談した。私達は恵まれていたのだろう。人情味あふれる私達の上司。結婚式をしない私達にそれではだめだと言って結婚披露パーティーを企画することを職場の皆に投げかけてくれた人だ。新婚旅行は行かないと言った時も、部長は自分で当てたユニバーサルスタジオジャパンのプレオープンチケットを娘さんと行かず、私達に持ってきて「これを使って思い出を作って来なさい。」と私達が旅行に行くきっかけを作ってくれ、新婚旅行らしい旅行をさせてくれた人。そして不妊治療を相談した時も、治療の日はフレックスタイムのように時間をずらして勤務出来るように配慮してもらえることになった。部長は結婚後子供が出来ず、奥さんは5度の流産を経験してやっと授かった一人娘なのだと話してくれ、仕事も大事だが治療も大切と誰よりも理解してくれたいた。本当に有難いことだった。こんなにも周りの皆に支えてもらい、理解をもらいながら治療を続けられることが。

こうして私達の新たな不妊治療がスタートした。病院の日は朝5時に家を出発して病院にいく。並んででも一番に診察してもらうためだ。病院が終わると急いでそのまま会社に出勤する。時間が遅くなれば運転しながらパンをかじり、昼の休憩はなしで働く。遅れた分を夕方にスライドさせて仕事をして夜は遅くなる。病院が連続で続く日は結構辛かった。

病院の先生は、余り口数は多くなくとっつきにくいような雰囲気を持った人だったが、私は自分の父親もこういう雰囲気の人なので、あまり気にもならない。

「不妊治療はまず、何が不妊の原因かを徹底的に調べることから始まります。それなくしては治療の方針を立てることはできません。いくつもの検査を行いますが、一度に全部は出来ないので検査を一か月はすると思っていてください。」今まで通っていた病院の先生からはこんなことを言われたことが無かったので驚いた。でもあの勉強会の日から、この先生について行ってみようと心が決まっていたので素直に従うことが出来る。

とにかく検査に気持ち良いものはない。卵管の造影検査などは、冷や汗がでて声が出なくなるような痛みで耐えられない程だ。

「検査の結果から、あなたの治療方針が決まりました。造影検査により卵管が全て詰まっていることが判りましたが、子宮の状態は良く健康です。ですが卵管が詰まっていては普通の妊娠は出来ません。体外受精をするか、子どもは諦めるかどちらかの選択しかありません。」

先生の言葉に、驚いて自然に涙が流れてしまった。そうか今までどんなに努力をしてもなんの効果もえられなかったわけだ。私の体の欠陥が原因だったんだ。ショックだった。あんなに周りの皆は順調に次々子どもが出来るのに、なんで自分だけがこんなことになるんだと思うと悲しくてしかたなかった。

「あなたは結果を聞いて悲しいと思ったかもしれないけれど、原因がはっきりわかり治療方法が確立できるということはとても幸せなことなのですよ。何回検査しても原因が見つからず、どんな治療をするか手探りでしかできない人もいるわけですから。泣いている暇はありません。ご主人とよく話し合ってどうするか決めて来て下さい。」先生は嘘もなく、かと言って変な情けもない。きちんと事実を伝えてくれた。帰りの車の中ではやっぱりショックで泣きながら運転して帰った。それから暫らく気持ちが落ち込んだままだったが、落ち着いてくると体外受精にチャレンジしようと心は決まった。


まずは卵子の採取から始まる。薬で調整し卵の数を増やし卵子を採取するのだ。ところが私の体にはもう一つ難があった。多嚢胞性卵巣症候群という病気を持っていたのだ。卵巣内に卵胞が沢山存在するものの、卵巣の表皮が固くて厚くなってしまい、排卵が難しい。確かに。私には生理が2~3ケ月来ないというのは当たり前の事だったし、まれに半年来ないこともあった。今ならその原因もこれだと理解できる。誘発剤を使うと卵巣が腫れあがることがあり、調整しながらの薬の投与だ。そんな苦労をしながら卵巣をとる手術の日が来た。手術は早朝6時から。先生の診察が始まる前に行う。私達は4時には家を出て、手術前に点滴のルート確保などを行う。手術室前には何人もこれから卵子を採取する人が並んでいる。見たこともない光景だった。やっととれた卵子。Tの精子も病院内で採取しいよいと体外受精を行う。病院の決まりで受精卵を体に戻すのは3つまで。戻した卵がいくつ受精するか、全くしないかは神のみぞしる。ここから先は普通の妊娠と何ら変わらない。こういう時は確率の一番多いことを選びたくなるのが人間だと思う。私達は受精卵を3つ戻すことに決めた。

看護師さんが受精卵一つ一つについてランクを教えてくれた。卵一つ一つのカルテのようなものだ。まるで受精卵一つ一つの人権を尊重してくれているかのようで嬉しかった。神秘的だと思った。本来なら見えない体内で、知らないうちに起きていること。それなのに私は今その見えないものを目の前で見ている。何とも不思議な気持ちになる。受精卵を体内に戻すときは、麻酔を使わない。モニターで子宮の中に受精卵が戻されていうのを先生と一緒に見ながら確認する。どうか一つでも着床しますように。次の日は大事休みをもらって一日中家でごろごろと横になっていた。立ち上がると重力で受精卵が落ちてくるような気がして立ち上がれなかった。久しぶりにジャンボとゆっくりと過ごす時間。

するとジャンボの体に異変を感じた。何となく腫れていて固いしこりのようなものがある気がする。病院を受診すると乳腺炎を起こしていることがわかった。ジャンボもお年頃。子供を産ませる気がないなら子宮をとらないと、こういう病気になるリスクは年を取る度に高くなると先生から言われ、すぐに子宮をとることを決めた。くしくもジャンボの手術日は私の妊娠判定日だった。私は一人で病院を受診することにし、Tがジャンボを動物病院に連れていくことにした。小さな個人病院のため、ジャンボに麻酔をかけるとTが助手をしてジャンボの手術台の横に付き添った。判定前Tから電話があった。

「ジャンボの手術は無事終わったよ。近くで見ていたんだけど、子宮が4つも5つもつながってずるずると出てきた。犬が子だくさんっていう意味がわかったよ。ジャンボはまだ麻酔で眠ってる。そっちはどう?」

「まだ分からない。これから呼ばれるところだよ。」

ジャンボの手術が無事に終わったと聞いて安心した。


「おめでとうございます。妊娠しています。三つ子です。」

「え?」びっくりして思わず聞き返した。予想もしていない答えだった。

「受精卵が三つとも着床できたようです。」先生のいう通り、治療方法が明確だったことは本当に幸せな事だったんだ。こんなに最短で不妊治療から抜け出せるなんて。とにかく嬉しかった。

帰り道、気が早いとは思ったけどずっと心配していた故郷の両親に電話をした。不妊治療なんて言葉も余り聞いたことが無く、体はどうなってしまうんだと私以上に不安になっていたからだ。それなのに今度は三つ子と聞いてぶったまげた。


ジャンボは痛々しい姿になっていた。Tは妊娠の報告をとにかく喜んだ。私達の苦しむ姿を見てジャンボが犠牲を払って身代わりになってくれたのではないか、ジャンボの子宮と引き換えに、私に赤ちゃんが出来たのではないかと思うしかないようなタイミングだったのだ。

それから暫らくして私の体に異変が現れた。突然お腹が大きくなりだしたのだ。暢気としかいいようのない私。「三つ子の妊娠て凄いね!もうこんなに妊娠初期からお腹が大きくなるんだな。」と思っていた。ところが日増しに大きくなる一方で何だか呼吸が苦しい。さすがに変だと思い病院を受診すると腹水が大量に溜まり呼吸を圧迫している状態だった。即入院。点滴につながれベッドと部屋のトイレの行き来しか許されない入院生活が始まった。部屋の外には一切出ることが出来ない。楽しそうな話し声が廊下や外から聞こえてくる。でも個室の私は看護師さんが来ない限り誰とも話が出来ない。孤独で身体も苦しくて、妊娠と同時に苦しみが始まった。腹水が収まると退院し、仕事に復帰した。

病院を受診すると先生から「このまま三つ子の妊娠を継続しますか?それとも減胎手術を行い双子を出産しますか?三つ子の出産と双子の出産では大きな違いがあります。双子の妊娠が二階から落ちる位の難しさだとすると、三つ子の出産は天高くから落ちる位難しいことなのです。本当はこんなことをしないでも産めることが一番いいんですがせっかく不妊治療をして授かった子どもを産むために減胎手術をする方も大勢います。ご主人とよく話し合って結論を出して下さい。但しいつまでも待てるというわけではありません。次の受診までに決めて来て下さい。希望される場合手術を行います。」

次は命についての難題。三つ子の出産、双子の出産、一生懸命イメージしてみた。どうすればいいんだろう。果たして。なかなか答えは出なかった。しかしこの先は年をとる一方。高齢出産に入ってくる。私の体はなかなか妊娠に向いていない。確実に産んで双子を育てようと思う様になり、減胎を選択することにした。

それは3人の心音を初めて聞いた日の決断となった。私はせっかく出来た子どもの命を奪うのだ。

「わかりました。それでは減胎手術の日取りを決めましょう。これはとても大事な決断です。ランダムに選ばれたお子さんにお腹の上から針をさしてお薬を入れます。するとお子さんの心臓は停止します。取り出すわけではありません。動かなくなってしまったお子さんは、溶けて二人の栄養になっていきます。残った二人のお子さんが、もう一人のお子さんの命を背負って生きていくんです。二人で三人分の人生を歩くのです。いつかお二人が大きくなってこの話を理解できるようになったら、必ずこの話をしてあげてください。お二人は、三人分の命で生きているとても大切な存在なのだと是非伝えて下さい。」

そして減胎手術は行われた。眠りの中に引き込まれていく途中で下腹部に痛みを感じたがすぐに記憶はなくなった。全くわからないうちに手術は終わっていた。その夜は二人で泣いた。私達の勝手な都合でこんなことをして良かったのか、この決断で本当に良かったのかと後悔ばかりがが押し寄せた。


次に私に起こったこと。多胎児妊娠のリスクを少しでも軽減するための子宮口を縛る施術だ。入院生活はいつも一人。でも今度は相部屋に入れるので気が楽だ。

少しずつ妊娠が続いていくとつわりもどんどんひどくなった。今まで全く気にならなかった匂いが気になって仕方ない。特にジャンボの動物臭を敏感に感じるようになり、一緒に室内にいるととにかくよく吐く。トイレに駆け込むと、私の異常な様子を心配してジャンボも一緒にトイレに駆け込む。私が吐くと便器を覗く。するとまた動物臭を感じ吐くの悪循環。一緒にいたいけどいられない。とうとう食べ物を受け付けなくなり、食べられるものはガリガリ君と氷のみ。

これでもかと思うほどトラブルばかりが起こる。自宅で初めて出血をしてしまった。体の毛が全身逆立つような恐怖。どうしよう!しかしこんな時も自分で運転して病院へいかなければならない。入院は免れたが、相当気を付けて過ごすようにと注意を受けた。そこそこ責任感の強い私は、産休に入る前に後輩に仕事を覚えてもらわなければと連日この体でついつい頑張って仕事をしてしまった。それが原因だったのかと反省をした。

私の思い描いていた妊娠生活とは全く違うものだった。周りの皆は赤やんの物を買い物に行ったり、ランチしたり、お母さんに時々おかずを作ってきてもらったり、周りの時間さえも幸せにほんわり包まれてゆったりと時間が流れていたようにも思う。自分達で生きていく選択をした。今までは何もなかったし全て順調だった。泣き言を言いたくても甘えたくても頼れる人は誰もいない。今になって初めて両親の有難さを心から感じる大バカ者の私だ。


2004年

今までずっと封印してきた出産の写真。やっと見れるようになった。ずっと見るのが怖かった。でもあなた達は真っ直ぐに生きてきた。これはあなた達を出産した時のお話です。大事な命の話です。ここから、12年間、今や200冊にもなる私の育児日記が始まりました。これからも書き続けます。私が母である限り。


妊娠をきっかけに波乱の幕開けの一年だった。つわりが終わったかと思うと今度は食欲。疲れやすく、仕事を終えて帰ってきて食事を作ると眠くてたまらなくなる。双子の産休は通常妊娠より大分長い。5月31日が予定日の二人。仕事も早く引き継ぎ終わらなければと少々焦りもあった。お腹にはぽこぽこと炭酸がはじけるような程の胎動があった。その頃から、少し疲れたと思うとお腹がコンクリートのように固くなると感じることがあった。そして、ついにまた出血を起こしてしまった。今度は入院だった。産休より更に1ケ月早く、入院のためお休みをとるような形で私は会社に行けなくなった。遠い故郷に戻っての出産は全く考えていなかったし、自分達の住む町に戻っての出産も考えていなかった。出会ったこの病院で、信頼できる先生のもと出産をしたかった。でもひとたび入院すると、病院が遠いのでひたすら一人で過ごすしかない。


入院して暫らくするとTのお母さんが付き添いに来てくれた。その日は日曜日で、Tも病院に来ると久しぶりに賑やかに過ごした。夜、Tは月曜日から仕事なので帰宅。ジャンボもこんな時は一緒に病院に来てひたすら車の中で留守番をしていてくれる。お母さんはそのまま病室の簡易ベッドで今晩も泊り、付き添ってくれることになった。久しぶりに話をしながら夕飯を食べ気持ちもリラックスし、安心して眠りについた。

真夜中12時。Tからのメールだった。

「2月3日、12時。ジャンボの誕生日。もうすぐ寝ようと思っていたんだけど、丁度誕生日を迎えたので大好きなヨーグルトをあげて二人で誕生日のお祝いをしています。」と写真が届いた。会いたいジャンボ。可愛いジャンボ。寂しい思いをさせてごめんね。誕生日おめでとう。心でそう思っていた瞬間。自分の身体に一体何が起こっているのか理解が出来なかった。足の間を突然温かいものが大量に流れだし止まる気配がない。

「あああああぁぁあ」私は突然大声を出した。隣で眠っていたお母さんが驚いてベッドから飛び起きた。

「どうしたの?なおこさん。」

「お母さん、何が起こっているのか分からない。お母さん布団を取って。何か温かいものが大量に出てきたの。血が出たの?何が起こったの?怖いよ~。」私は完全にパニックに陥り、叫ぶことしかできなかった。破水だった。まだチョロチョロとは出ているが、ほぼ勢いよく出た瞬間にほとんどの羊水が出てしまったようだ。そうわかると今度は、全身がガクガクと震えだし、体を止めようと思っても全く自由に体のコントロールは出来ず勝手に震えて止まらない。お母さんはナースコールで看護師さんを呼び、それから私の体をぎゅっと抱きしめて震えを抑えようとしてくれた。お母さんにしがみついた。先生も駆けつけ、状況の説明をされた。

「23週に入ったところで破水です。このまま出産するとお子さんの命は保証できません。母体搬送で未熟児を助けられる病院まで搬送し、出来る限りお腹の中に居られるようにしなければなりません。一人が破水したということは、もう一人も一緒に生まれてこなければなりません。この病院には未熟児を助けられる医療はないとご説明していましたね。多胎児妊娠にはこのようなリスクは常にあります。以前にご説明した通り、このような事態に陥った場合、対応できる病院へ搬送するしかありません。ですが、今受け入れられる体制が整わないようです。明日の朝8時に救急車で搬送してもらうよう手配してあります。今夜は少しでも体を休めて下さい。」

看護師さんは手際良く点滴を用意しつけてくれ、慌ただしく処置が行われた。その間も体の震えは止まらず、先生の説明も聞いているような聞けていないような。不安と恐怖ばかりに心が支配されていった。Tに連絡をした。それから、私は故郷の両親の声が聴きたかった。ありえない時間だったけど声が聴きたかった。

「あぁ...なおこか。何だ?こんな時間に。」お父さんだった。

「お父さん、まだ23週なのに破水してしまった。どうしよう。」声を出した瞬間に大声で泣いてしまった。お父さん、お母さん、怖いよ。助けて。どうか神様、子どもの命を助けて。声にならない声。

こんな時いつも父さんは、黙って聞いていてくれる。

「なおこ。起こってしまったことはもうどうしようもない。どんなことがあっても受け入れていくしかない。」お父さんの独り言のようにも聞こえた。たった一言、お父さんは私にそう言った。大声で泣いたせいか、少し気持ちが落ち着き、私は朝方少しうとうとすることが出来た。


8時、診察前の忙しい時間帯だったと思うが先生が救急搬送口まで来てくれ、「大丈夫」そう一言言って、強く手を握って送り出してくれた。救急車で新しい病院に着くと、慌ただしく検査やら聞き取りやら始まり、私は緊張と恐怖で身体が固まりがちがちになっていた。

この病院が出来てから、未熟児を助けられる確率が高くなり県の出生率が格段に上がったという病院だ。そこに更に出産をして安全に治療を受けられるべく周産期センターを設立し、母体から出てきた瞬間に助けられるようになったのだ。私は、検査などが終わると病室へ移動し疲れもあってか暫らく眠ることが出来た。起きると、頭以外は動かしてはいけないということが判った。陣痛抑制剤をマックスで点滴しているせいか、頭がぼーっとして微熱がある。傍らには心配そうに除きこむTのお母さんの顔があった。

「気分はどうだい。ここは、前の病院と違って部屋には一緒に泊まって付き添えないけど、遠くから付添に来ている人が泊まれる小さな部屋があって予約してきたから。私がTの替わりになおこさんに付き添うから。遠慮なく何でも言って。」

この病院も家からは車で1時間20分ほどかかる場所。一人でいるのは心細かった。本当にありがたかった。一日寝たきり。食事は寝たまま口の中に入れてもらう。排尿、排便はしたくなると看護師さんを呼んで準備してもらいベッドの上でそのまま行う。お風呂も入れない。横たわった体の一部をふいてもらうだけだ。一日時計だけをみて過ごす。さっきからまだ5分しかたっていない。寝てばかりいると体のあちこちが疲れて痛くなる。余り動かされないが、少しずつ角度を変えて寝返りをする。寝ながらの食事は噛んだ後喉を通っても落ちていかない気がして途中に残っているような違和感がある。食欲もどんどん落ちていく。ベッドに横たわって考えることといえば、これから先の不安なことばかり。そんな時、お母さんはずっと傍にいて、「なおこさん。体が疲れるでしょう。マッサージを少しすると楽になるかもしれない。」と言って、私の足やら腕やらを時間をかけて何分でもマッサージし続けてくれる。「辛いでしょうに。」そう呟きながら献身的に体をさすってくれる。私が眠ると傍で静かに本を読んでいた。時々は、今読んでいる本のあらすじを教えてくれ、どんなところが面白いと思ったのかなどを話してくれる。「私がいないほうが休めるならそう言ってね。」本当に優しいお母さんなのだ。神様はちゃんと私に与えるプログラムを考えて出会わせているのかなとお母さんといるとそう思う。自分の母親が、姑とうまくいかず常に泣いている姿、怯えている姿しか見たことがなかったから、結婚した先で相手の両親と暮らすのは、絶対ありえないことだった。でもそんな私に神様は、姑さんは意地悪な人だけではない。素晴らしい家族なのだと気付かせるためにこんな出会いをプログラムしてくれたのではないかと思う。私は素直にお母さんに甘えた。絶望的な気持ちになっていて、もうすべてが終わりだと思っていたけど、でもまだあきらめるのは早い。お母さんが傍で本を読んでいたことがヒントになりあることをひらめいた。私はTに連絡をして病院に今まで子どものためにと買い集めたお気に入りの絵本を沢山持ってきてもらった。そして、声を出しながら絵本を読み、お腹の中の子ども達に読み聞かせをしてあげようと思いついた。思い描いた妊娠生活とは違うものになったけど、まだ妊娠生活は終わったわけじゃない。私は何回でも、何冊でも、いつまででも絵本を読み続けた。そうすると不思議と気持ちが落ち着き、楽しくなってくる。先生が往診で見せてくれたエコーには、羊水がなくても元気そうにしている子どもの姿が映り、もう少しこのままでと祈りながら過ごす毎日だった。そんな日々が10日ほど続いた。朝一番の部屋への往診の後、私の周りはにわかに賑やかになった。ただ事でなないことが起こっていると感じた。主治医が部屋まで来てお話があった。

「とうとう、頭が出てきています。子宮口を縫う手術をしていますが、それを突き破り頭が出そうになっています。子供が生まれたいと思っている時というのは、子宮口を縫ってあろうが関係ないのです。突き破ってでも出てくる強さがあるのです。ですが、普通分娩は出来ません。破水して10日も頑張っていますから、胎児の体への負担が大きすぎ命の危険があります。緊急手術をして帝王切開で出します。」何にも心の準備も出来ないまま周りはバタバタと気ぜわしくなり、点滴のルート確保や手術準備が始まった。半べそをかいた状態で次々と書類へのサインを求められる。私はまな板の鯉と同じだ。とにかく何も頭には入らないがサインをしていくしかない。見慣れた看護師さんの顔を見ると思わず弱音が出る。

「今日は13日の金曜日なんだよ。何か悪いことが起こってしまいそうな気がする。怖いよ。」

「何言ってるの!今日はバレンタインイブだよ。パパへの最高の愛のプレゼントになるじゃん。」そう言って気持ちを和まそうとしてくれた。


部屋に別の看護師さんが入ってきたかと思うと

「あなたのお産に立ち会うことになりました助産師のNです。よろしくお願いします。今日は素晴らしいお産にしましょうね。」と挨拶された。

「こんな状態なのにいいお産になんかになるんですか?怖くてたまらないです。」そういうとまた涙が流れてきた。

「どんなお産でも一つ一つそれは素晴らしいお産になるんですよ。お母さん、今あなたに出来ることは大きく深呼吸してこれから小さく産まれて呼吸が苦しい赤ちゃんの為に酸素を少しでも多く送ってあげることです。さぁ落ち着いて。深呼吸して。」

助産師さんの心は私に届いた。そっか、私にとっては一生に一度きりの経験。どんなお産でも世界に一つしかない私だけのお産。助産師さんが言ってくれたように深呼吸して素晴らしいお産にしよう。涙はもう流れていなかった。心が決まった。今日が二人の誕生日。手術室に入る直前、病院に駆け付けたTと会えた。Tは泣きそうな顔をしていた。何か言いかけたけど、手術室のドアは閉まった。


健康体の私は手術自体も生まれて初めての経験。健康で産まれるということは改めて幸せな事なのだと思う。私は、実は麻酔に弱い人なのだと初めて知った。麻酔が効いてくると吐き気がこみあげてくる。私は麻酔科の先生の手を掴んで離さなかった。どこかに行かれたらこの動かない体で吐きたくても吐く入れ物を取ることも出来ない。先生にしがみついているしかない。

お腹を切る感覚は全く分からなかったが、お腹の中から内臓をぐいぐいと取り出されているような感覚が下腹部にあった。すると小さく一声

「おぎゃ。」と短い泣き声がはっきりと聞こえた。びっくりした。

「泣きましたよ。凄いですね。普通こんな状態では泣けないと思うのですが、よっぽど生まれたかったんですね。」周りで話している先生の声が聞こえた。

呼吸の出来ない二人はすぐに保育器に入れられ、肺を膨らますサーファクタントが投与された。どうか助かりますように。24週と5日で生まれた600gの我が子達。


目を覚ますと病室に一人きり。Tはたった一人で、産まれた子どもたちについて主治医からどのような状態なのか説明を受けていた。超早産児、超低出生体重児、呼吸窮迫症候群、慢性肺疾患、新生児遷延性肺高血圧症、動脈管開存症、脳室内出血、感染症、未熟児網膜症、くる病、未熟児貧血、反回神経麻痺 黄疸....いくつもの病名、長い長い説明。多分私がその場で全ての説明を2人分×2回も繰り返して聞いていたら、気を失っていたかもしれない。Tは出産したばかりの私に余計な負担をかけないように明るく振舞っていたのではないかと思う。顔には相当疲労感があったから。


私が2人に会えたのはそれから2日後の事だった。幾つものドアの向こう側。沢山並ぶ保育器の中に2人は並んでいた。こわごわ覗き込むと、体は赤紫色。まるで中の血管が透けて見えるような。何本もの点滴が繋がれ、頭は私の拳ほどの大きさ。腕は私の親指程の太さだ。「これが私の赤ちゃん?」想像をはるかに超える姿だった。2人の出生体重は600g。ゴールデンのジャンボの出生体重は500g。犬の赤ちゃんと何ら変らない体重なのだ。初めて見る二人の姿に私の心の中には嬉しいという言葉が思い浮かんでこなかった。どうしよう。こんなことになってしまってどうしよう。これからどう生きていけばいいのか。浮かんで来たのはそんな気持ちだった。そっと触れてみるが、壊れそうで触ることも怖い。破水して産まれた一人は、いきなり外の世界に出てきた衝撃で脳室内に出血をしており、これ以上出血が広がらないように、眠くなるお薬を入れて動かないようにしている。私のせいだ。この目の前の事実にどんな責任を取ればいいのか。私が母親としての自覚が足りなかったせいだ。もっとあの時仕事をセーブしていれば。もっとあの時....もうあの時なんか戻っては来ない。


産後私の体は少しずつ元気に回復していく。でもこの世の中に誕生したばかりの2人には次々と困難ばかりが立ちふさがる。脳室内出血が奇跡的にも障害の出る部位に広がる前に止まり、ほっとしたのもつかの間。間もなく2人とも動脈管開存症による心臓手術を行うことになった。薬では動脈管が閉じず、手術を行わなければ命が無い。こんな薄くて小さな体のどこを切るのか。手術の説明を受けるたび目の前が暗くなる。


手術室から戻ってきた二人は、体が見えなくなるほどのガーゼで傷口を覆われNICUに戻ってきた。ごめんなさい。苦しいでしょう。こんな思いさせて。こんなに小さく生んでしまってごめんなさい。二人を見るたび心が痛くて痛くてたまらなくなる。

入院中毎日NICUに通った。「抱っこしてあげてください。」最初にそう言われた時は、抱っこすることが出来なかった。点滴がいっぱいくっついていてどうすればいいのか分からず「いいです。」と断った。でも慣れてくると体に触れるようになり看護師さんの真似をしてお世話が出来るようになった。新生児用のおむつでも大きすぎる二人のおむつは生理用ナプキン。少しお尻を持ち上げて新しいナプキンを敷き替えてあげるのだ。その内、保育器の傍で絵本を読んであげたり、看護師さんに腕の中にのっけてもらうと抱っこも出来るようになった。何て小さい。抱っこをするとそのことを更に実感する。腕の間からするりと落ちてしまうそうな大きさで慌てて両腕をきゅっと締めて抱っこする。空いた時間は、搾乳の練習だ。これから毎日自宅で搾乳し、母乳を届けなければならない。

手の前に自分の指を差し出すと、二人は私の指をぎゅっと力強く握る。「私は生きているよ。これからも生きていく。」そう言っているかのようだ。こんなに小さな身体なのに。


赤ちゃんが生まれると病院に訪ねて行って赤ちゃんを見せてもらったり、出産の話をしたりするのは職場の中の常識みたいなところがあった。当然こんな遠い病院なのに職場の人の中には「行ってもいい?」という人がいた。普段なら「勿論!」と喜んで承諾していたことだが、こんな精神状態では誰にも会えないし会いたくない。自分の子供を見られるのも怖い。全てお断りしていた。ところが一人だけ強引に訪ねてきた人がいた。嬉しいとは思えなかった。顔が引きつった。そしてその人が放った一言に心が凍り付いた。「もしかしてこれから障害を背負って生きていかなきゃならないかもだけど、がんばて行こうね。」障害って....?そっか2人は障害を背負って生きていくのか。声も出なかった。

「せっかく来てもらったけど今日は会えないの。帰って欲しい。」なるべく冷静に。それだけいうのが精いっぱいだった。思いもよらない言葉だった。心にナイフが突き刺さった。



私には退院の日が来た。久しぶりに家に帰るとジャンボは大喜びで私を迎えてくれた。子供の準備など何一つやっていなかった。これから、家に帰ってくる日の為に準備しなくちゃ。たとえ赤ちゃんが家に居なくても休めない。時間時間で真夜中にも起きて搾乳をした。その度ジャンボも必ず起き、私の足元にどかっと横になって終わるのを待っている。ジャンボのお蔭で眠さに耐えられない時も頑張れた。いつもいつも傍にいるのは見えている体だけじゃなく、心にも寄り添ってくれた。私が悲しくてしょうがなくなり泣くと、私の顔を耐えきれなくなる程なめまくるのだ。

病院には一週間に一度冷凍した母乳を届けた。病院の主治医からの提案で交換日記をつけることになった。一週間ずつで交換する日記。毎日担当した看護師さんが今日あった出来事を書いてくれる。私達が分からない事、聞いてみたいことも自由に書け、返事をもらったり、心配な時は電話をしてもいいことになった。様子が知れることは何より嬉しかった。家に帰ってからはひたすら搾乳をする生活。でも何か二人の為にやれることをしなくちゃ。と頑張り屋の私はつい気合を入れて頑張ってしまう。裁縫が好きな私は、子ども達と一緒に読もうと布絵本を手縫いしたり、将来これで字を覚えようとまだまだ先の事なのに布カルタを作ったり。二人の記念樹を植えたり。子供は傍にいないけど、楽しいことを考えて毎日を過ごしたかった。つかの間の心穏やかな時間だった。

生まれて2ケ月。ミルクの量が増えたり呼吸の練習をしたり、体重も少しずつ増えてきたり、順調なのだとばかり思っていた。先生から電話があり、未熟児網膜症の症状が出始めていると連絡があった。一気に不安のどん底に突き落とされた。病院の家族面談室で休憩した時の事。本棚にあった「500gで生まれた我が子」という本を手に取って読んだ。未熟児網膜症を発症し失明した女の子と家族の物語だった。なるべく考えないようにしてきた。あの時の私には余りにも衝撃的な本で、最後まで読まずにやめた。それが今度は自分達の問題として目の前に立ちふさがっている。その夜あまりよく眠れなかった。頭からそのことが離れなくなり、いつなんどきでも考えてしまう。

そして私は搾乳などもあり疲労しているところに、一心不乱に縫物をしたり、心労が重なったりしてついに帯状疱疹になってしまった。ジュクジュクチクチクと帯状に痛みが走る。水疱瘡のウィルスが原因の帯状疱疹を患った私の母乳を飲ませるのは自殺行為。体の痛みに耐えながら搾乳し、絞ったらすぐに全て捨てることになった。少しずつ母乳の量も増えてきていた中、もう余り十分はストックもない。更には、面会謝絶。Tのみ面会は許され、毎週末一人で行って写真やビデオでの撮影をしてきてくれるようになった。何とも情けない。

そんな中、ついに恐れていた日が来た。二人とも未熟児網膜症の手術を行うことが決まった。視力を残すために勝手に伸びて網膜を剥がそうとする毛細血管をレーザーで何千本も焼き切る。二人がこんな辛いことに耐える時、病院にさえ行かれない私。一度で焼き切ることが出来ず、二度の手術。手術したからと言って100パーセント完治というわけではない。これからずっと網膜剥離との恐怖と闘っていかなければならない。考え出すといてもたってもいられなくなるのだ。叫びまくってこの真っ暗闇の恐怖を突き破って現実の悪夢を破壊してしまいたい衝動にかられる。かと思うとどこまでもどこまでも絶望の沼底に引きずり込まれていくような、もう二度と這い上がってくることが出来なくなるような打ちのめされた気持ちになる。


そんな中にも二人は力強いほどの生命力でこの逆境の中を生き抜いていた。動かなかった二人は、体を計測するのを嫌がり暴れまくり計測に時間がかかる程保育器の中でよく動くようになったり。一日のわずかな時間から呼吸器を外し自発呼吸の練習が始まったり。保育器から出ても体温が下がらなくなり、コットに移床出来たり、十二指腸まで入っていたミルクのチューブは抜け、胃へのチューブになり、今度は哺乳瓶の乳首を加える練習、少しずつ飲む練習。沐浴の練習が始まり、カンガルーケアが出来るようになりと本当に一つ一つ全ての事が二人には超えるべき大きな困難なのだ。出来ることが増える喜び。しかし、気持ちがひとたび落ちると、2人がおっぱいを飲むことさえ命がけで練習しなければならない事が悲しくなってしまったり。気持ちが不安定に揺れ動く。


出産から約4ケ月の入院。体重が2000gになった頃、地元の病院のNICUへの転院が決まった。二人は、救急車に乗って主治医の先生が付き添い、転院先の病院まで搬送してくれることになった。


6月11日私達は病院の中から、外ばかりを見て救急車がつくのを今か今かと待っていた。私達の心配をよそに、救急車の車の揺れに爆睡し元気に到着した。思いもかけず、主治医から「これは、私達とYさんの交換日記です。最後のページに私の思いを残しました。退院おめでとうございます。」とずっと病院で交換し続けていた日記を手渡された。二人は素晴らしい出逢いを私達に運んできてくれる。

「転院おめでとうございます。只今お送りしている救急車の中です。こんなことを言っては笑われるかもしれませんが、ご両親と同じように僕も毎日どきどきしていました。特に最初の頃はたった数時間で状態が変わっていくので本当にはらはらでした。安心してみていられるようになったのは実は僕も最近になってからです。でもこうして2人の寝顔をみていると何やらこちらも幸せになりますね。

早く産まれたお子さんたちの特にお母さんは、どうしてこんなに早く産まれてしまったのだろう。あれがいけなかったのか。これが悪かったのか。私のせいだなど罪悪感に苦しまれる方が多いようです。その罪悪感は僕はいけないとは思いません。ただそれで自分を責め続けてしまってはいけないと思うのです。子供達に僕が出来る事、これは残念ながら限られています。僕らはお子さんたちが生きていくための手助けをすることはできても、生きていく力を生み出していくことはできないと僕は思うのです。もし、その生きる力を生み出すことが出来ると思っている医者がいたとしたら、それは僕はただの医者のおごりだと思うのです。でもその生きていく力を生み出すことが出来る人がいます。それがご両親であり、ご両親お二人の愛情と、1滴でも多くの母乳やミルクなのです。だから、今ご両親の目の前にいるお子さんたち二人は、決して我々の力ではなく、ご両親のお力と何よりも本人達それぞれの生命力の賜物なのです。ですから、自信を持ってお二人を育てて下さい。とても仲の良いご両親に囲まれてお二人は幸せだと思います。お二人がどんどん大きくなり、笑ったりいろいろなことが出来るようになる姿をみるのは、我々にとって何よりも代えがたい贈り物です。お二人の成長を陰ながら祈っております。」

揺れる救急車の中で書かれたその手紙は、先生の誠実さが伝わってくる手紙で、先生が救急車で帰ってしまった後だったけれど、私達は深々と頭を下げた。


次の日からは、転院した先のNICUでの日々が始まった。毎日病院に通い、二人の沐浴を済ませミルクをあげたり母乳を飲む練習をする。上手に飲めるようになってくると日増しに体重が増えていく。一人が泣けばもう一人も泣いて、NICUで大合唱。家に帰ってくる日がどんどん近くなってくる。病院から帰ると自宅に帰ってくる日の為の準備をする。毎日が忙しいけど幸せな気持ちで過ぎていった。


7月9日

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