第3章 軌跡~600gの我が子×2と歩んだ道 1

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ついに待ち望んでいた日が来た。Tの両親も新潟から駆けつけてくれ全員で自宅に来る2人を迎えることになった。

どきどきしながら車に乗せ自宅に着くと、真夏だというのにいきなり空から恐ろしい勢いでヒョウが降ってきた。こんなおめでたい日だというのに。雨降って地固まるという言葉は知っているが、ヒョウが降っては破壊をもたらす。何とも波乱の幕開けの予感がする。

ジャンボはいきなり入ってきた新米二人に戸惑いまくり。今まで独占していた私達の腕の中には赤ん坊がいて、どたばたと落ち着きなく私達の後をついてくる。匂いを嗅ぐ。

赤ちゃんイコール夜泣きのイメージがあった私達は、今日からいよいよ寝不足の日々がやって来ると覚悟をしていた。ところがこの2人、よくミルクを飲み、よく眠る。結局記憶の中には夜泣きの経験は全くない。とんでもなく親孝行娘達だった。何だか拍子抜けした。

私は子供が小さく産まれたことで、かたくなに会社の友達と会うことをずっと拒んでいた。皆が連れてくる赤ちゃんを見たらショックで立ち直れなくなるのではないかと怖かった。

「ずっとなおの赤ちゃんのことを皆待っていたよ。そろそろ会ってもいい?」

「うん。」すると大勢の会社の仲間が自宅を訪ねて来てくれ、二人を代わる代わる抱っこして可愛がってくれた。友達は皆待っていてくれた。私の心が元気になるまでじっと待っていてくれた。仲間の温かさを感じ、こんな私を受け入れてくれていることに感謝した。

それから時々会社の皆は遊びに来るようになり、ある時は子守や食事の準備を手伝ってくれたり、ある時は妊婦さんが沐浴を習いにきたり、ある時は同年代の赤ちゃんを連れて遊びにくるようになった。

Tのお母さんは時々来ては長く泊まり、育児を手伝ってくれた。ところが、一つ大きな問題があった。Tの両親は動物が嫌いなのだ。「全く。犬なんて何の役にも立たないんだから」とジャンボを責める。24時間一緒にいると、この態度に気を使っているうちストレスが溜まりまくって来る。ジャンボは日中は外に出されるようになり、夕方になると家に入り家族と過ごすという生活スタイルに変わった。決して2人にいたずらすることもなく、そっと傍で横になっていることが多かった。


病院受診も多く、一人で大量の荷物と二人のベビーカーを押していかなければならないのは本当に大変だった。そんな時、お母さんが来て必ず手伝ってくれた。その間Tのお父さんは、新潟の実家で留守番しながら実家での仕事をしていてくれる。Tのお父さんが食事の準備などある程度一人でできるお蔭で私は随分お母さんに助けてもらうことが出来た。

今年は東北の両親には生まれた赤ちゃんをすぐに見せることも出来ず、お盆の帰省は諦めた。2人が長距離の旅に耐えられるのか心配も大きかったからだ。それでも、電話で様子を話すと両親は楽しそうに2人の話に耳を傾けた。

秋になると初めて熱を出したりすることが多くなった。12月。40度の高熱で一人が入院となった。風邪だとばかり思っていた熱の原因は川崎病だった。入院すること2週間。Tのお母さんが来てくれ、自宅ではTとお母さんが一人の世話を見て、私はひたすら病院に泊まって付き添う日々が続いた。クリスマス前日退院となり、初めてのクリスマス、初めてのお正月を家族で迎えることが出来た。


2005年


生涯の中でも忘れられない1年になった。長い長い苦しみの始まり。


くしくもその日は父の誕生日だった。前日から天気は崩れ、大雪の予感。母はいつもと変わらない様子で、お世話になったご近所さんにあげるお菓子作りをしていた。そして、その時が来た。母は突然口から泡を吹き、白目を剝きだして倒れた。傍に居たのは父だった。すぐに救急車で地元の病院に搬送されたが手の施しようがなく、大きな病院へ移動することになった。どんどん時間だけが経過する。脳出血は時間が経てば経つほど重症化していく。


夕方私はジャンボと散歩をしていた。Tのお母さんが手伝いに来てくれていた。2人とも離乳食を食べるようになり大忙し。少し離乳食の冷凍ストックを作っておこうと小分けパックにしたおかゆを大量に冷凍しておいた。これで暫らく楽が出来るなどと考え乍ら自宅に戻ると、ただ事ではない様子でTが玄関前で待っていた。

「どうしたの?」

「お前のお母さんが倒れたって今連絡があった。」

「え!?本当?」

すぐさま妹達に電話した。母の脳出血は大量で、頭蓋骨を開いての手術が行われていた。

「ずっと手術室の中に入ったまま出てこないの。手術終わっったらまた電話するよ。」

若い頃からずっと高血圧で、時々体調がすぐれないと休むことも多かった母。いつかはこうなる日が来ると恐れていた。血圧は常に180近くあり、いつどうなってもおかしくない状況だったから。あんなに孫の誕生を喜んでくれ、早く会って抱っこしてもらおうと思っていたのに。私は突然のことに声をあげて泣いた。するとハイハイが出来るようになった二人の娘は私のところにハイハイで来たかと思うと顔を覗き込み、二人の目にもみるみる涙が溜まり大声で泣き始めた。子供には私の心が鏡のように映るのか。

横になっても一睡もできず、ひたすら電話だけを待ち続けた。夜中12時過ぎ

「やっとさっきお母さんの手術終わったよ。とりあえずやれることはやったって。まだお母さん意識ない。兄弟3人とお父さんで交代で仮眠とりながら付き添ってる。」命だけは助かった。


次の日早く、新幹線に乗って母の病院に向かった。母の兄弟、父の兄弟、私の家族、大勢の人が来ていた。母は危なかったのだと思った。病室に入ると、まだ意識の無い母は頭を丸刈りにされ、頭蓋骨を開けて手術した傷跡が生々しく残っていた。顔も腫れあがっているように感じる。変わり果てた姿に声も出なかった。意識はないものの、無意識に動く方の手足が動いたりする。その日は弟と私が病院のソファーで仮眠をとりながら付き添いをした。社会人になってから殆ど弟と話す事などなかった。しかし私は弟から衝撃的な事実を聞かされた。

「去年、11月位にじいちゃんが脳梗塞で入院したんだ。母ちゃんはじいちゃんの看病もしなきゃならなくなって、シイタケの仕事ももうじいちゃんとばあちゃんは年寄りすぎて出来なくなってきてて、母ちゃんが看病に行けばますます仕事出来なくなって、借金の返済が滞り始めたんだ。俺、父ちゃんと母ちゃんに農協に呼ばれて行ったら、連帯保証人のところに名前を書かされて父ちゃんの連帯保証人になってしまったんだ。Eの家族はまだ知らないんだ。言えないよ。」

え!?何それ。借金があることは知っていたが、そんな緊迫した状況だとは知らなかった。


次の日は私と父で付き添った。

「俺と結婚したばっかりに、苦労を掛けて母さんがこんな姿になってしまった。」そう言って父は涙を浮かべた。私は思い切って聞いてみた。

「お父さん、Sがお父さんの連帯保証人になったって昨日私に言ったんだけど、本当?借金はあとどれぐらいあるの?」

「.......。」

「お母さんがこんなことになってもまだ本当の事を話してくれないの?何にも知らないのにいきなり不幸が襲い掛かってくるなんて嫌だよ。せめて本当の事を知りたい。」

「仕事もうまく回らなくなってきているところに、町の合併で農協も市の農協と合併することになって、合併前に債務整理をすることになったんだ。借金が滞り始めていたから返済を強く求められ、Sにお願いするしかなかった。」父はぽつりぽつりと話してくれた。


故郷に心配を残したまま、子どもを放置するわけにもいかず家に帰った。帰ると、こっちはこっちで、通院の嵐。定期的に二人の整形外科、新生児科、眼科、リハビリ科と多くの科を受診しなければならない。

手術から一週間、母がやっと目を開け少し食事をすることが出来たと連絡があった。妹達が母の看病と父を一人にしないようにしていてくれ、母が目を開けるとやっと父はその日ぐっすりと眠ったようだ。

そんな矢先、突然ジャンボが大量に嘔吐し足が震え歩けなくなった。昨日まで何の変化もなく元気だったのに。その上子ども二人はロタウィルス。私も感染し点滴を入れてもらっての看病。一人で嘔吐、下痢をする子どもを連れてジャンボを病院に連れていくことが出来ず、ジャンボの実家のKさんに相談をした。すると「困った時はお互い様じゃない。」そう言ってジャンボを病院まで連れて行ってくれた。

それからの毎日は、二人の子育てに追われながらジャンボの看病の日々。ジャンボはよく訓練された犬。決して家の中でおしっこはしなかった。それなのに座りながら失禁していた。そしてそれはジャンボの中の罪悪感になり、こんな状況なのに私の顔を見て、悪いことをしてしまったというような様子で反省する様子を見せる。

「ジャンボ、こんな時はいいんだよ。気にしなくて。掃除すれば済むことなんだから。言葉が通じたらいいのにね。苦しいでしょう。どうしてこんなことになったんだろうね。」

日増しに症状が悪化していく。病院の先生が検査をしてくれたが、何かの中毒症状ぽいけど...というだけで原因は最後まで分からなかった。私達は毎日の看病日誌を付けジャンボの看病を続けた。玄関にしかいられない時は交代で玄関で寝た。点滴の間隔が近くなり、水は飲めるが餌はドッグフード1粒という時も頻繁になった。


突然嘔吐して体調を崩してから約一か月と1週間。

3月1日

ほんの少ししか食べていないはずなのに嘔吐し震えだす。胃液しか出てこないような状況で口には泡が。ぶるぶると震え、毛布をかけて体をさすって温めてやる。病院へ駆けつけ点滴。Tもこの1ケ月、夕方ジャンボを病院に連れて行ってくれたり、昼休みにも自宅にジャンボの様子を見に帰って来る日々。

3月2日

点滴の効果か。朝からよく眠れている。食欲もあり、すごい勢いでご飯を平らげる。夕方先生から今日も受診してくださいと言われており、Tが連れて行ってくれることになっていた。Tの車の音が聞こえると、突然元気だったころのジャンボに戻ったかのように、窓枠に手をかけ二本足で立ってTが帰ってきたことを喜んで千切れる程しっぽを振り、玄関まで元気に走り迎えに行き私は驚いてしまった。

そのまま車に乗せられ病院へ出発した。


電話が鳴った。Tからだった。

「なお、今ジャンボが天国に行ったよ。」Tは私が取り乱さないように一生懸命冷静さを保っていたのかもしれない。

「うそでしょう?うそだ。そんなことあるわけないもん。だって、今日は一日すごく元気だったんだよ。」そう言いながら、涙が次から次へと溢れてきて止まらない。


帰ってきたジャンボはまるで眠っているかのようだった。でも名前を呼んでも全く反応しない。本当に天国に行ってしまったんだ。触るとまだほんのり体温が残っていて温かかった。2月3日にジャンボの5歳のお誕生日をお祝いしたばかりなのに。ジャンボ。可愛いジャンボ。苦しかったのに、育児もあり十分なお世話もしてあげられなかった。心優しくて、故郷の母さんが倒れてから毎晩泣く私を自分も具合が悪いのに心配して励まそうとしてくれた。私の方が助けられ支えられていたんだ。

悲しすぎて二人ではこの悲しさを背負いきれなかった。ジャンボの実家のKさんにジャンボの死を連絡した。家族全員で来てくれ、何時間もジャンボの体をさすって、なでて、全員で泣いて、沢山の思い出話をして皆で悲しみを分け合う様に過ごした。きっと全部聞こえていたよね。ジャンボ。

私達はその夜、固くなったジャンボの体を触りながら、一緒に寝た。まだ魂は私の傍にいると感じた。

最後の点滴を終え、先に車に乗せてから会計を済ませにTが病院の中に戻るとジャンボは一人車の中で息絶えた。誰にもその瞬間を見せずに一人でいったのだ。それはジャンボの優しさだったのか。


3月3日

新潟からTの母が駆けつけてくれた。それは、私が悲しみの余り育児が出来なくなったからだ。片時もジャンボの傍を離れられない。明日には火葬をしてジャンボの体はなくなってしまう。今日通夜をしようと決めた。

ジャンボが運んでくれた縁。近所の犬好きのお友達、ジャンボの兄弟会の皆、一緒に庭作りをした会社の仲間、総勢27人+ゴールデン5匹が通夜に来てくれた。ジャンボは心優しくおとなしい犬だったので、近所の子供達も来て線香をあげてくれた。ダンボールで作った棺の中は、来てくれた人が入れてくれたお花でいっぱいになった。

動物嫌いだったTのお母さんも「こんなに大勢の人が通夜に来てくれる犬なんて初めてみたよ。いい犬だったんだね。」と最後に言ってくれた。きっとジャンボにも聞こえている。


3月4日

その日の朝は雪が降って道路が真っ白になった。ジャンボが大好きな雪。喜んで雪の中を駆け回って天国に走っていけるね。庭のあちこちに残っている吐いたりおしっこしたり苦しんだ痕跡もみんな白く消し去ってくれた。火葬場までは、車にジャンボを乗せてよく散歩で行ったジャンボの好きだった場所をゆっくりと周り乍ら向かった。

初めての出来事は、サイドブレーキにう○こだったよね。私達は泣きながら笑った。

火葬場にはジャンボの実家のKさん家族と、兄弟会の人が来て立ち会ってくれた。待っている間、Kさんがジャンボが生まれた日の思い出を話してくれた。ぴょん吉にジャンボが天国まで迷わず行けるように迎えにきてね。皆で泣きながら骨を拾った。

ジャンボは骨になって家に帰ってきた。頭蓋骨はそのままなでるといつものジャンボの頭のラインの形。手にはまだその記憶が完全に残っていて、骨になったとは思えない。何もする気が起きない。子供にミルクを与える事さえ、おむつを替える事さえ。

「気が済むまでジャンボの事を考えて過ごしなさい。私が二人は見てるから。」私の余りの姿を見てTのお母さんがそう言ってくれた。私は冬の寒風の中、具合が悪くなってから丁寧に掃除してやれなかったゲージを一心不乱に洗い続けた。洗濯も心を込めて一生懸命。そして夜になると寂しくて寂しくてただただ寂しくて全く眠れない。


3月5日

今日も殆ど2人の面倒が見れない。車を開けると、ジャンボの毛があちこちから出てきて思い出が溢れ涙がでる。仏壇を作るため、一人仏具屋に出掛けた。車を運転して振り向くと、いつもジャンボの顔がここにあるのに、ジャンボがいなくて涙がでる。出かけると玄関まで喜んで迎えに来たのに、ドアを開けてももうその姿はなく寂しくて涙がでる。結局泣いてばかりで何もできず、パソコンの中の写真を何百枚も印刷し、一つ一つ切ったり加工したりして思い出を振り返りながら大きなパネルいっぱいに貼り付け、思い出の整理をして過ごした。楽しかった出来事を思い出しては泣いたり笑ったり。


3月6日

ジャンボの仏壇スペースを作り、ジャンボの骨の居場所がやっとできた。KさんにTELすると「いつまでもジャンボジャンボって言ってると、ジャンボが天国いけないよ。」と叱られた。少し目が覚めた。まるで、ジャンボが困ってKさんの口を借りて私に言ったみたい。

ふと気が付くと、子ども達ははいはいで前に進むようになっていた。


3月7日

今日、不思議なことがあった。ジャンボがいつものようにママの右腕に顔を置いて眠っている夢を見た。息づかいも匂いもジャンボそのもの。するとその感覚の中で久しぶりにぐっすり眠れた私。明日はジャンボの初七日。ジャンボ、私の心が決まったからいよいよ天国に行くんだね。私の気持ちが整理できるまで待っていてくれたんだ。今日は最後にもう一度私の腕枕で眠ってくれたんだね。皆はこの原因不明の死のことを、ジャンボが私の身に降りかかるかもしれない数々の苦難を代わりに背負って逝ったんだと言うの。そうかもしれないね。優しい犬だったから。短い5年間だったけど、一緒にすごした時間は決して忘れることなどできない濃厚な時間だった。有難う。ジャンボ。私達のところを選んできてくれて。


母は、回復はしつつあるものの左半身は全く動かず麻痺してしまった。口も左の麻痺によりれろつが回らず、上手く言葉にならないため言いたいことが聞き取れない。その上食事をうまく呑み込めない。手術から約2ケ月の入院を経て、母はリハビリセンターへ転院となった。

妹は母の病院に毎日通い、リハビリの手伝いをしてくれた。父も三時間かけ週に何回か病院に通った。自営のシイタケを細々と出荷するだけが、唯一の収入源。その上高齢の祖父母がいるためやったこともない炊事、洗濯をこなす。父の妹家族が祖父母を預かってくれ、暫らくそこで暮らすことになったのだが、90近い高齢になると環境の変化には全くついていけない。結局父のもとに戻ってきてしまった。父はこんな時、甘え下手で我慢強く誰にも頼らず一人もくもくと頑張りすぎてしまうのだ。最も母が傍にいない今、相談できる相手もいなかったのかもしれないが。


2人は遅い成長乍らハイハイ、つかまり立ち、離乳食も3回へと進み、その忙しさは時に私の心を救った。ジャンボの死の悲しみ、故郷の両親への心配を考える暇も与えない程、動けば方々に散らばり、食事となればそこら中が食べものカスだらけと怪獣2匹がいるよう。

そんな時、会社が1年3ケ月の産休から1年6ケ月の産休への期間の延長が認められると決めた。私はダメもとですぐ申し込んだ。すると、第一号で延長が認められた。


父も私も兄弟も家族も皆必死に過ごした。6月。努力の成果あり母はリハビリセンターから自宅へ戻ってくることが決まった。父には自営の仕事、祖父母の面倒を見ながら体に動かない母を介護するという生活が待っていたのだが父は母が戻ってくることをとても喜んだ。祖父母にはこのころから日中短時間だがヘルパーさんが入ってくれるようになっていた。

あと三日で母が戻ってくるという日、祖父母の用事で家を訪ねたヘルパーさんが自宅で倒れている父を発見し、緊急通報した。呼吸も出来ない程に衰弱した状態で倒れていた。もしもヘルパーさんがあの時発見してくれなかったら、父はそのまま逝っていたかもしれない。風邪をひいたのに病院にも行けず、行く時間の余裕も心の余裕もお金の余裕もなく放置し続けたことでひどい肺炎を起こしており、肺には水が沢山溜まっていて、呼吸が出来ない程の重症だった。体に数か所穴を開け管を入れて水を抜く。母は行先を失い、父と同じ地元の病院に入院し過ごす事になった。私はこの乳飲み子2人を置いては故郷に帰ることが出来ない。だからと言って連れて帰っても2人がいれば何の役にもたたない。何もできないことをもどかしく思い、心配ばかりが募り眠れない毎日が続いた。

私も妹二人も全員嫁いでしまい自宅から離れて暮らしている今は、弟だけがお嫁さんをもらい両親のすぐ近くにいたのだが、お嫁さんのお母さんは「娘に苦労をさせたくない。」という理由で私の実家にはお嫁さんを近づけさせなかった。入院中もお見舞いに来ることも無ければ様子を見ることもない。更には弟が病院に通うことに対しても快く思わず、弟は見つからないように本当に時々来るだけだった。弟はお嫁さんをもらったが、結婚するとすぐにお嫁さんのお母さんが家を建て、そこに弟の部屋も作り自分の家に強引に入れることを決め実行した。弟がお婿さん状態で家に入るストーリーがお母さんのシナリオにより誰にも邪魔されることなく進められていた。

病院の父と母の洗濯や面倒は、車で二時間半離れている妹が通ってみてくれていた。父と母は同じ病院にいるということでお互い心強く、気持ちが元気になると心も元気になるというのは本当のことだ。父は命の危険もあったとは思えない程元気になってきた。しかし、肺が一つ機能しなくなり、もう重労働は出来ない。つまりシイタケの仕事を諦めなければならなかった。それに退院した後、祖父母の介護や母の介護まで一人で本当に出来るのか、私は考えに考えた末、ある一つ案が浮かび強い決意のもと、それを実行すべく動いた。

2人を孤児を預かっている乳児院に一時的に預かってもらい、父が退院後生活が整うまで付き添おうと思ったのだ。私はTとTの両親に相談をした。

「こんな子ども達を置いていくの?私は反対です。

もうなおこさんは親なんですよ。こんなに小さく産まれた心配な子ども達を残していくなんて。」そう言ってTのお母さんは反対したが、私の意思は固かった。分かってもらうまで熱心に説得した。2人を捨てるわけではない。必ず迎えに来るし、期限を決めて行ってこようと思っている事、両親を見捨てることが出来ないこと、子ども達2人にはこんな私の生き方について必ず話したいと思っている事、何度でも話した。

「わかったわ。意思が固いんだね。言いたいこともわかった。両親のところに行ってらっしゃい。こっちの事はTに協力して何とか頑張っているからやりたいようにやって来なさい。」最後はそう言って許してくれた。

それから、児童相談所への相談、面談、地元の福祉課との面談など申請のためにやらなければならない事はいくつもあり、やっと許可がおり7月中旬家族を置いて単身で故郷へ帰った。Tの希望で金曜日は乳児院に迎えに行き2人を引き取り、土日と一人で面倒を見て月曜日に仕事に行く前に2人を乳児院に預けていくという生活スタイルでTと子ども達は過ごすことになった。Tに実家にさえまだ連れて帰ったことも泊めたこともないのに、いきなり親と離れて暮らすのは大丈夫かと相当の不安もあったけど、どうしようもなかった。私にはそうするしか。

帰ると小さな田舎では瞬く間に私が家にいることが噂でひろまり、小さく産まれた双子がいると知っていた近所では「そんな心配な子どもを置いてくるなんてキチガイだ。親はいつか死ぬけど、自分の子を置いてこんなところにいるなんて鬼母だ。」などと言って、ヒソヒソをささやき合った。私は心から傷ついた。間違ったことをしているのだろうか。この選択はおかしかったのだろうか。二人を置いてきてしまった罪悪感から私は死に物狂いで働いた。せめて2人に恥ずかしくないように日々を生きなければ。毎日5時には起き、家事一式を済ませる。祖父母の面倒を見て午後は病院で看病。買い物をして夜に帰ってまた家の仕事。祖父母は環境の変化が大きかったせいか、大分ボケが進行していて、昔の祖父母とは変わっていた。おむつの中に大便も全て出してしまう。すると大人の大便は重く、その重さに耐えきれずおむつが下がってきて、足中が大便だらけに。それを毎日片づける日々。布団にはよくおしっこをしてしまい、それを隠して座っている。布団からは異臭が漂って居たり。時間ボケなのか真夜中二時頃に、私を「朝だよ。なおこ早く起きてご飯作ってくれ。おなかが減った。」などと起こす事もしばしば。食事も洋風なものは食べず、好みがある。育児では全く痩せなかったのにここにきてもう既に3.5キロもやせてしまった。祖父母二人が起こしてくれる毎日の色々を片づけているだけで一日が過ぎていく。子供達はどうしているのか・・・。片時も忘れることなどない。乳児院で熱39度近い熱を出したとTから連絡が入ると気が気じゃない。置いてきたことに罪悪感を感じながら耐えるしかない。

病院の父と母を交互に介助し食事やリハビリに付き合う。毎日がこの繰り返しで過ぎて行った。家には祖父母のヘルパーさんが来てくれていたが、それは恐ろしい束縛の象徴ともいうべき状況だった。今まで色々のヘルパーさんが来てくれていたのだが、ある時からヘルパーさん自身の希望で私の実家を指定してきてくれていると聞いた。その人は弟のお嫁さんのお母さんのお姉さんだった。父や家族から時々漏れてくる話をつなぎ合わせて、この状況がとてつもなく恐ろしい状況なのだと気が付いた。弟のお嫁さんは母一人子一人で育った。妊婦の時旦那さんが蒸発し、一人で出産し一人で子育てをしてきたという親子だった。何故かお嫁さんの家系は代々男が死んでいく、消えていく、いなくなっていくという家系で、自殺や蒸発、病死など女性だけがのこっていくという状況がもう何代も続いていた。普段はとても温厚なお母さんなのだが、弟が少しでも無断で飲みに行ったり釣りに行ったりすると、友達という友達、職場や実家にも弟が来ていないかと電話をかけまくり探し回る。最初にその話を聞いたとき「まさか。そんなドラマみたいなことあるわけないでしょ。」と私は全く信じていなかった。ところが、このヘルパーさんの不可思議な行動を幾度目にするたび、本当なんだと確信することになった。夕方の来るはずのない時間帯に突然現れるヘルパーさん。忘れ物かな?と思っているとずかずかと家に上がり、「Sはどこ?いる?」などと聞いて探し、いないとわかると帰るということがあったからだ。家族ぐるみで弟は監視されている。背中がぞっとする思いだった。何故?そう言えば、こんなに近くに住んでいるのに孫には会えないと言っていた父。お嫁さんが妊婦さんの時、入院したお嫁さんを見舞うと、父にだけは病室に入らないで欲しいと弟だけしか男性は部屋の中に入ることは出来なかった。父はしょうがなく、母がお見舞いが終わるまでじっと車の中で待つということがあったりしたようだ。父親という存在を全く知らずに育ったから、父親という存在に嫌悪感を抱くのか...それとも無口で不器用、わかりにくい父を毛嫌いしていたのか...理解しようと思ってみたものの理解しがたい。

私が病院に行き不在の間ヘルパーさんが来てくれるのだが、私が帰って来ると祖母が泣いていることがある。「おばあちゃん、どうしたの?」と声を掛けると「家は借金があって皆に迷惑をかけていて、お金を返さなきゃならない。」と言って泣いている。何かおかしい。少しずつ話を聞いていくと「ヘルパーさんがそう言って怒るんだ。毎日怒られて、申し訳なくてお金をどうやって返せばいいのか途方にくれる。」なるほど。そうだったのか。私がいない間に祖父母を言葉でせめていたのだ。ぼけているところもあるが、意外に祖母は人に言われたこと、見たことだけは正確に話してくれると一緒に居るうち分かったので、多分本当のことなのだろうと思った。


こんなこともあった。父と母の介助をしていてすっかり遅くなり、スーパーに寄って帰途に就いたのは10時頃。疲労感を感じながら運転をしていくと、人気のない橋のたもとに車が1台路駐していた。何?この邪魔な車と思いながら通り過ぎると視界の端に弟によく似た体つきの人のシルエットが。

「こんな時間に何やってんのよ?」

声を掛けると振り返ったのはやっぱり弟だった。街頭もない暗闇だったが、弟は川をじっと見つめていたように思えた。いくら釣り好きでもこんな真っ暗闇の中で川の中を覗くなんてことしないだろう。変に思った。

「私も今父さんと母さんの病院から戻ったとこだよ。家に帰れるの?帰ろう。」と誘うと

「姉ちゃん、俺話したいことがあるんだ。」

「何?ここではなんだから、家に帰って話しようよ。」

そういうと弟は素直に従った。本当はあの時すぐあの場所で話を聞いていれば運命は変わったかもしれないのに。疲労は人の感覚を鈍らせる。

家に帰るると弟はいつもの弟で「姉ちゃん。腹減った。何か食べるものある?」というので、余り物をレンジで温めてやり、ビールを一緒に食べさせてやった。弟は美味しそうに食べた。

「そういえば話って何?」

「もういいや。何でもないよ。お腹いっぱいになったら何か眠くなった。明日早いし寝るね。」

私もビールを口にすると、みるみるうちに手足の感覚を奪われていくような感覚になり、睡魔が襲ってきて眠りに落ちた。

朝五時。家事をするため起きるともう弟の姿はなかった。


私は思い切って、弟の住むお嫁さんの家を訪ねた。お母さんは両親が入院している病院の医療事務をしているので毎日病院にはいるのだが、全く会うこともない。お世話になっていますと一言お礼を言おうと菓子折りを持って訪ねた。新築の綺麗なお家。釣りの好きな弟の為に作ったという弟の部屋、釣り専用部屋も見せてくれた。話をしてみると、弟の対する要求ばかり。確かに弟は趣味も多く昔から浪費家だった。給料もまともに入れてくれない、いくら働いているのか分からない、余り家にいない、家族で出かけることも少ないなどまるで私が責められているような状態。それは夫婦間の問題ではないのか。家に居たくないと思わせる何かはないのか?今まで私の経験したことのない世界。お嫁さんが最後に言った言葉で私は決定的に私とTの結婚とは違うと感じた。「私は本当は結婚式をしたかったのに。」それは二人で話し合って合意のもとそうしたのではないのか?少なくとも私とTはそうだ。私とTの気持ちは同じだった。二人で決めて結婚式でなはく家を建てることを選んだ。そのことでTを責める気持ちなど微塵もない。むしろ、私を気づかってくれたTの両親に申し訳ないくらいだ。結婚は一人の考えではなく、二人で考えて作り上げていくものじゃないのか?本当はこうしたかったと後悔をずっと引きずるような結婚などしたくない。言葉にはしないもののそう感じながら、後味悪く家に帰った。Tはあの中で毎日暮らしていると思うと、恐ろしく感じた。

それからも幾度、弟がいないと自宅に電話があったが私には日々の生活を切り盛りするだけで精いっぱいで、そんな電話に付き合っている暇はなかった。

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