ちくわに母を殺されたハタチの大学生の話

2 / 4 ページ

見慣れた大きな旅行カバンには、2日前父がクリスマスプレゼントであげたという、ピンクのパジャマが入っていた。父は同じスタイルのベージュのパジャマを着ていた。

父曰く、2日後の家族旅行で父と母でペアルックをする予定だったらしい。不器用な父の精一杯の愛情表現だったと思う。それに答えて母は、旅行の日まで着ずに大切にしまってあったのだろう。


母は旅行が大好きで毎回、幹事として家族旅行を誰よりも楽しみにしていた。

今回は、12月29日に兵庫県の西側に行こうということになっていた。

僕がまだ地元の神戸にいた頃、兵庫が誇る世界遺産の姫路城はずっと改修工事をしていて、僕は結局一度もその姿を目にすることなく神戸を離れていた。

だから、改修後の姫路城に行って、塩で有名な赤穂を観光して、旅館に泊まるというプランだった。


家族会議でどこに行くかも決めてたのに…そのプランが実行に移されることはなかった。



僕は母とある約束をしていた。それは、2人で海外旅行に行くということ。


生前、母は音楽の都オーストリアのウィーンに行きたいと何度も言っていた。昔、ピアニストを目指していた母はクラシック音楽、特にショパンが好きだった。


大学1年生の春休み、旅行会社のツアーで行こうとしたが満員と断られてしまった。大学2年生の夏休み、僕があるプロジェクトで世界一周に3ヶ月半の間行くことになり、結局忙しくて行けなかった。


母の枕元からは、ウィーン・ブダペスト・プラハツアーにチェックがつけられた旅行会社のパンフレットと付箋でいっぱいになったオーストリアのガイドブックと使い古された旅行用の英会話帳が見つかった。

昔から、 海外旅行に備えて、毎日NHKラジオで英語とドイツ語を熱心に勉強していた母の姿を思い出した。


涙が止まらなかった。



いつか行こうと言っていたそのいつかは永遠に来なかった。



寝室では随所で、母の僕に対する愛を感じた。

母が使っていたポーチは、僕が一昨年の誕生日にあげたキャラクターのポーチだった。

母の筆箱は、去年僕が韓国研修に行った時のお土産だった。


母のパソコンを開けると、僕のFacebookとTwitterとブログがお気に入りに登録されていた。検索履歴には「寒川友貴」の文字。

どれだけ、僕のこと好きだったんだよ、ほんと親バカだなって笑えてきた。



その日の夜、僕は母の布団で寝た。いや、寝れなかった。

目をつぶっても母の姿が出てくる。

起きているのか、寝ているのかわからないまま、気がつけば時間だけが経っていた。



翌日


翌日、昼から葬儀屋とのお葬式の打ち合わせがあった。


こいつらは、悪ぶれる様子もなく、金の話ばかりしてくる。「Aプランが〜円、Bセットが〜円」と母の死をなんだと思っているんだと怒りがこみ上げてきた。挙げ句の果てには、僕に会員登録を進めてきた。



「次お父様が亡くなられた時に葬儀費用が割引になりお得です。」



正気の人間が発した言葉だとは到底思えなかった。人の悲しみに便乗して、お金を巻き上げようとするクズだと正直思った。こんな話を延々とされて、僕も父も心身ともに疲れ果ててしまった。


帰り際、紳士服店で黒のネクタイを買った。幸いにも、成人式用にスーツは持ってきている。こんな早くに着るはずじゃなかった。


夕食は母とよく行ったイタリアンのチェーン店に。母が好きだった、ミックスピザとカルボナーラと赤ワイン、チーズケーキを注文。でも、父との無言の食事には虚しさしか残らなかった。



お通夜


業者との打ち合わせで、お通夜は28日、お葬式は29日に決まった。

この2日間、本当は家族で旅行に行くはずだったのに、母は1人であの世に行ってしまうのだ。


お通夜には親族が15人くらい来た。

顔すら忘れていた、千葉のおじさんと会うのは10年以上前の祖父のお葬式以来だった。最悪な再会の仕方だ。中には、知らない人も多くいて、多くは母の親戚だった。


みんなに「友貴君大きくなったね〜」と言われ、僕は無理して作った笑顔で「ありがとうございます」と返事をするのが精一杯だった。



お通夜前、終始僕はイライラしていた。

父方の祖母がよく喋って、たくさん泣いていた。僕はそれがなんだか許せなかった。

自分が一番悲しいはずなのに、なぜそれよりも目立って悲しみをアピールして胃るんだと、よくわからない原因不明の怒りがこみ上げて来た。

いとこの3兄弟もめちゃめちゃうるさかった。ここを何だと思ってるんだ、何しに来たんだ、何で親は注意しないんだと、ぶつけようのない怒りに駆られた。


母は騒がしいのが嫌いだ。だから、最後くらいは静かにゆっくりと母を見送ってあげたかった。



お通夜後、僕と父は式場に残り、母と一緒に最後の一晩を過ごすことになっていた。騒音も消え、僕たち家族にようやく平穏が訪れた。なぜだが、眠っていても母がその場にいるだけで僕の心は安らいだ。


母にたくさん話しかけた。報告してなかった、あんなことやこんなことを。母は眠っていても、ちゃんと聞いてくれているような表情だった。


父と家族での思い出話をした。


たくさん旅行に行ったこと。

遊びに行ったこと。

買い物に行ったこと。

誕生日やクリスマスを祝ったこと。

毎日3人一緒にご飯を食べたこと…。


当たり前の日常がどれだけ素晴らしかったのか、哀れな僕は今更気がついた。


父の口からは、母にまつわるこれまで聞いたことのない話がたくさん出て来た。


父と母は知人の紹介で出会ったということ。

阪神淡路大震災で大変な思いをしたこと。

母は子どもがなかなかできなくて何回も流産をしていたこと。

僕を妊娠した時は流産防止のために、長期間の入院をしながら高い薬を大量に投与していたこと。

育児ストレスで心の病気になって仕事を辞めたこと…。


僕を産むこと、育てることに母がどれだけ苦労していたか、その時ようやく知った。



最後には、母が好きだった音楽をかけた。ショパンの交響曲、そしてファンクラブに入るくらい大好きだった福山雅治の「家族になろうよ」を母と一緒に聞いて、僕と父は眠りについた。


こうして僕たち家族、最後の家族団らんは幕を閉じた。


お葬式


お葬式前、棺を開けてもらい、母と最後の面会をした。

棺には、母が好きだったものをたくさん入れた。

お気に入りの服、帽子、父が渡したパジャマ、ぬいぐるみ、バナナ、チョコパイ、洋菓子、カフェオレ、ヨーグルト…。

そして、母への誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントを兼ねた世界一周のお土産。出発前の母のリクエストに応えて世界各地で買ってきた、ポストカードを棺にちりばめた。


「あと一日遅ければ、直接渡せたのにな。どんな顔して喜んだやろ。」とかを頭で考えながら。


最後に、白装束の襟に思いを書いた手紙を忍び込ませ、耳元でらしくないクサいセリフをささやいて、僕は母と正真正銘、最後のお別れをした。


お葬式が終わると、母は父と共に霊柩車に乗り込んだ。

実は、母方の祖父と祖母もここ3年くらいに亡くなっていて、着いたのはその時と同じ山奥にある火葬場だった。「もう二度と来たくない」と思った。

母は実質、親の後を追う形になって「お母さんは向こうで寂しくないかもしれないけど、残された僕とお父さんはめちゃくちゃ寂しいんやで!」と母に言ってやりたかった。

著者の寒川 友貴さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。