ちくわに母を殺されたハタチの大学生の話

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数時間後、母はもうかつての面影を残すことなく、骨になって出てきた。

母の変わり果てた姿を見た瞬間、「母はもうこの世界にはいない」ということを、僕はセカオワの「眠り姫」の歌詞を思い出しながら実感した。


職員さんが骨の部位をボソボソと説明する。「魚の解体ショーじゃあるまいし、黙っとけ!」と内心思ってた。そして、僕は号泣しながら、箸で骨を取り、納骨をしたのであった。


そういえば、母は昔、秋川雅文の「千の風になって」が好きだった。僕は小さかったから、当時まだ歌詞の意味がよくわからなかった。でも、母が死んでようやくわかった。だから最近は


今頃母も、千の風になってあの大きな空を吹きわたっているのかな、なんてふと思ってみたりする。



晴れて、お通夜・お葬式・初七日と母をあの世へ送り出す儀式は全て終わった。

でも、僕の心は全く晴れなかった。なぜなら、母がいないからだ。


絶望


朝起きて、布団をのぞいても母の姿はない。

そこにあるのは、仏壇とニヤリとこっちを見ながら微笑んでいる母の遺影だけだ。

母の位牌に向かって手を合わせるのは、いつまでたっても慣れない。


年末年始、父と私の二人暮らしが始まった。これまで、家事はすべて母に任せっきりだったから、何をやっても一苦労だった。


数年ぶりに、ご飯を炊いて、自分でちゃんとした料理作った。

レパートリーはカレー、ラーメン、肉じゃが、チャーハン、青椒肉絲、鍋って感じで不器用ながら毎日、危ない手つきで包丁を握りながら奮闘した。



昼に起きて、昼食を作って、テレビを見て、買い物に行って、夕食の準備をして、テレビを見ての繰り返し。何をするにも父と一緒だ。

前までは、ご飯を食べたらすぐに部屋に帰っていた父がリビングから離れなくなった。

僕も寝る時以外、自分の部屋には戻らず、何を話すってわけじゃないけど、リビングに父と張り付いていた。言葉にはしないけど、お互い寂しいのだ。


ある日、父がボソッと言った「お金を貯めても使う人がいなければ意味がない」という言葉が、今でも僕の心に深く深く突き刺さっている。


寂しさを誤魔化すために、僕と父は毎晩お酒を飲んだ。

父の飲む量は以前と比べて明らかに増えていた。

母は結局、11月に成人を迎えた僕と一緒にお酒を飲むことなく、この世を去ってしまった。家族3人でお酒を飲んで普段できないようないろんな話をしてみたかった。

そして、母からワインの飲み方を教えてもらいたかった。


僕は父といる時には、泣かない。

父はポーカーフェイスで、素振りは見せないけど、きっと誰よりも悲しんでいて、些細なことで心配をかけたくなかったからだ。

だから、僕は毎晩深夜に1人で1日分蓄えた大量の涙を「お母さん!お母さん!!!」と泣き喚きながら、放出していた。

そして、その悲しみを大量のお酒で紛らわして、布団に入るのが日課だった。

僕に目の前にある絶望と戦うほどの力は残っていなかった。


実家にいると、違和感しかない。

リビングの母が座っていた椅子には今は誰もいない、母の布団には誰も寝てない、洗濯をしてもベランダで洗濯物を干す母の姿は見られない。


いるはずの場所にいるはずの人がいない。


家の中のどこにいても、近所を散歩していても、近所のスーパーで買い物をしていても母との思い出が蘇ってくる。その度に、目から大量の涙が湧き出てくる。


母がいないことが当たり前になっていくのが、たまらなく怖かった。


母がいないという非日常が日常に変わろうとしていることに対して、僕は必死に抗っていた。



年が明けると、父が仕事に行くようになった。

父は中学校の教員で、定年を過ぎた今でもバリバリ働いている。

僕が就職したら退職して、母と老後を楽しむ予定だった。予定が崩れてしまった今、今後どうなるのかはわからない。


父が仕事でいないということは、家に僕1人になるということだ。

母は専業主婦だったから、長時間1人で留守番をした経験はなかった。

母はもう家を出たまま帰ってこない。


これから先、一生母の留守番をするのだと思うと背筋がゾッとする。



実家は1人でいるには、やけに広い。それが、寂しさや悲しみを助長させた。

かといって、僕は誰とも会いたくはなかった。そういう気分ではなかった。

地元の中学や高校時代の仲が良い友達と会う約束さえも僕にとっては億劫だった。友達と飲んでも、お泊まりしても、スーパー銭湯に行っても、僕の寂しさは紛れなかった。


いつでも、頭の3割くらいは母のことを考えていて、常に心にはぽっかりとど真ん中に大きな穴が空いたような気分だった。だから、遊ぶことや楽しむことに全然集中できなかった。

一生に一度の成人式でも、僕は結局2次会に行く気にはなれなかった。


時間が経っても、僕の心境に大きな変化はなく、強いて言えば、絶望に慣れたくらいである。



逃げ場なき孤独


成人式が終わると、僕の長かった冬休みも終わりを迎える。

大学の授業に出るために、東京の下宿先に戻らなければいけない。

社会復帰しなければいけないタイミングが来た。


それに合わせて、僕は東京に向かう新幹線の中で、Facebookに投稿をした。

虚勢を張って、できるだけ元気に見せようとした。たくさんのいいねがついて、たくさんの人からコメント欄やメッセンジャー、LINEで慰め・共感・激励のメッセージをもらった。

でも、僕にはそれを受け止めきれるだけのキャパがなかった。

内容を理解するだけで精一杯で、どんなトーンでどんなテンションで返信をすればいいのかわからなかった。

この人には社交辞令で返すべきか本音や弱音を吐いていいのかなど、いろいろ考えていると余計しんどくなって、Facebookに投稿したことを死ぬほど後悔した。


東京に戻ってからというもの、僕は居場所を失った。

いろいろあって、今はサークルに入ってなければ、バイトもしてない。大学の授業もたまに友達とかぶるくらいだ。

でも、今まではそれで困らなかったし、むしろ拘束されずに自由で楽だった。


それは、家族という絶対的な居場所が僕にはあったから。


それが崩れてしまい、人とコミュニケーションをとることが億劫になった僕には安心していられる居場所がなくなった。

すると、授業以外では外に出なくなり、僕は1人家に引きこもった。考えはどんどん内向的になり、生きる意味がわからなくなったり、死にたいと思うようになったりした。


無気力になり、無機質な世界に絶望した。


ストレスを発散するために、暴飲暴食を繰り返し、昼夜問わず酒を大量に飲んだ。

夜は不安に襲われて寝れなくて、酒を飲まないと寝れなくなった。夢にまで母が出て来た。

数日間、誰とも話さない日が続き、さすがにまずいと思った。

でも、毎日鬱陶しいくらい心配の電話をかけてくる母はもういない。父を心配させるわけにはいかない。

だから、一部の友人に頼り、毎日のように電話した。するとある日友人にこう言われた。



「正直、もうしんどい」



僕が味わっている苦しみを友人にまで与えていることに気がついた。また、別の友人にもこう言われるんじゃないかと思い、僕は誰にも相談ができなくなった。


そして、僕は逃げ場なき孤独を味わった。


神様なんていらない

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