あいされたい愛
私の愛情は異質なのかもしれない
違和感を感じたのは小学5年生の時だった。
「ずっと一緒にいようね。」
私は大好きな友達に何度もそう言った。
そして、それはあたりまえに叶うものだと思っていた。
けれどある日の交換ノートには、こんな一文があった。
「私は彩ちゃんの方が大切だから、そんなに思ってくれなくていいょ。」
子供は残酷なほどに素直だ。
「それでもいいょ。」
私は泣きながらそう返事を書いた。
なぜ涙が止まらないのか、当たり前のように相手も同じように思っていてくれていると思っていた自分を恥じた。
そのときには、いろいろな漫画やドラマを通じて、愛情を要求してはいけないことを知っていたからだ。
だから、2番目なんだと私は自分を叱咤した。
中学3年生にって、その子との仲も6年目に突入した時。女子のなかで風邪のようにやってきては去っていくいじめに、私も例外なく当たってしまった。女子の中ではよくある出来事で、風邪と同じように皆対処の仕方を心得ていた。慌てず、騒がず、目立ったことをさけ、次のターゲットに移行するまで平静を装う事だ。
わかっていたにも関わらず、私の心をかきむしるように騒がせたのは例の友達がいじめる側についていた事だった。
「なんでょ!なんであんたがそっちにいるわけ?」
夜に電話でそう聞くと、変わらない声で悪びれることも無く告げられた。
「ただの流れゃん?」
「私はあんたに順番が回ってきても、決していじめたりはしない!」その言葉を飲み込んで、私もいつもと同じ声色をなんとか装った。
「もー。早く通り過ぎないかなー。そしたらまた普通にしてょー。」了解と2回笑い声と混ざりながら聞こえると、私もじゃーねっと笑いながら電話を切った。
求めてはいけない。
何度もつまづくこのテーマが私の愛情を濃ゆくしていった。
高校に入学してから、どう取り繕っても私たちの関係は良いとは言えなくなっていた。
近づき過ぎると発生する、ハリネズミの法則に私達もどっぷりとはまっていた。
それでも一緒いなくてはいけない。
何度も何度も喧嘩し。
本当に悪意を込めながら罵りあい。
それでも欠かさずに登下校を共にし、用もなく互いの部屋に通い続けていたのは、今思えば意地の張合いでしかなかった。
手を離したのはどっちが先か。
手を離した方に全ての喧嘩の悪を擦り付けようとしているのを、お互いに察知していた。
離れた方が悪意をもっていた事にされるなら、そんな事で私の愛情が汚される事は許されない。
本気でそう思っていたのだ。
今書いていた文章を読み返し、この頃から歪み始めていたのだとため息をこらえきれなかった。
私が頬を叩かれたように正気に戻れたのは、それから2年後の高校3年生の時だった。
彼女の部屋から出て、お邪魔しましたと声をかけ、玄関に向かう私の背中に、彼女の母親は穏やかに訪ねた。
「どうしてそんなにうちの子を嫌うの?」
こんなになっても私には、友人を愛しているという気持ちは胸を張って言えていた。
愛しているからこそ、本当の気持ちを話し、愛しているからこそ、相手の悪いところを言えるのだと。
私の愛が憎しみだと間違われたのは、後にも先にも無く、一生でこの1度っきり。
そしてそれは、拳で殴られるよりも強く私の頭を強打した。
2日間の葛藤をして、私はやっと、彼女に五文字の言葉を伝えた。
「離れよう。」
それは、私の愛情が確かに大切な人を傷つけるものだったと認めるもの。そして、私からの解放だった。
彼女は泣いていた。
私も泣いていた。
何時間もたって彼女は「そうだね。」とだけ言った。そして別れ際に、「また明日」と言い、その次の日に変わらずに登校するための待ち合わせの場所にいた。
私は「なぜ?」とも聞けず、その出来事ごとなかったかのように変わらない私を行った。
結果、私達は変わらずに側にい続け、ただパッタリと喧嘩をしなくなった。
初めは言葉を飲見込むようになり、次に話を変えるようになり、最後に嘘を着くようになった。
腹が立った時も笑い。
傷ついた時も「気にしてないよ」と言うようになった。
ただ、それでも側に居てくれる事が嬉しくて、
言葉も何も無いけれど、彼女の存在が私への愛だと感じることが出来た。
家族でも何でもない私達は、離れることが出来るのだという恐怖が、私の愛情から私の愛する人を守る方法を探させるようになったのだ。
高校を卒業して、私はその方法を一つ見つけた。
愛情を分散させる事。
書き忘れていたが、私にはこの問題児の友人の他に、「ゆき」と「とも」がいた。
ゆきは生まれた病院から一緒で、保育園から高校までずっと一緒にいた。一緒にいることが当たり前過ぎる、家族だった。
ともは、私といろいろなところが境遇故に似ていて、鏡のような存在だった。私と同じ違和感のある愛情を持っていて、一見には私達が同じように思い合えば満たされるようで、正確には2人だけの世界へ周りの全てを切り離し、閉じこもって死んでしまいそうな不安が、ある一定の距離を保たせていた。
人生で親友はひとり見つかったら幸福だと言われる世界で、私は確かな絆を3つも握りしめ、そこに誇りを感じ満たされていた為に、満足して見ようともしなかった新しい扉を、もう一度突きつけられたのだ。
別の言い方をすると、私の愛情は三つで割ってもまだまだねっとりとした濃さで相手を幸せにだけすることができないでいたのだ。
新しい出会いは、友達の友達で、ライバルの「彩ちゃん」だった。
彩ちゃんは、私たちの関係を心配し声をかけてくれたのだった。学年が一つ上で、私達より一足先に車を持っていていた彼女と、毎晩ドライブをしては、私の愛情の答え合わせをしていた。
なにぶん、19歳と20歳の議論では正解にはたどり着けないでいたが、彼女の「間違ってなかったと思うよ」という言葉で、嘘をつくようになった私たちの関係にも愛情はあると言えるのだと思えた。
そして、私の事を「不憫に思う」と言った。
不憫だと言われて初めて、私は自分の境遇が人様から見れば恵まれてはいない事と、与えられるべき愛情が不足している事に気ずく事が出来た。
恵まれていない事と、不足している事を認め、飲み込めるようになると、彼女は私の不正解の原因を導き出した。
私の愛情は、沢山読み漁った本の中で愛情と感じたありとあらゆるものを、かき集めてごちゃ混ぜにして、煮詰めて無理やり溶かして一つにしたようなものだと言った。
それは飲み込むにはえぐすぎる良薬で、
1晩向き合って、口にもせずに、飲まずにとっておく事にした。
飲みきらずに吐き出してしまうには、もったいない。私を沢山想って言ってくれたことはわかっているからだ。
正解は分からずとも不正解の正体に気づけただけで、
私は感動してめそめそと泣いてしまった。
それは心の距離を置いてしまった愛情が、ちゃんと愛する人を守る最良の方法だったと証明出来たからだ。
それから、自分の境遇を周りに話すべきだと勧めてくれた。私には、それがなんの意味があるのか分からなかったし、私のプライドを欠くことになることではあったが、良薬を飲み込めなかった罪悪感から、せめてそれは実行しようと決心させられていた。
彩ちゃんとはほとんど車の中で話していた。
仕事が終わって合流すと、ファーストフード店などで手早く食事を終えると、飲み物やおやつをコンビニで調達しては朝まで飽きもせず話し続けていた。彼女は、天性の聞き上手だった。
彼女は質問によって、理解を深めるという作業に長けていた。そして、それは私自身の答えを明確にする事にも役立っていた。
幼い頃から今に至るまで、時間の経過はバラバラに。少し分かりにくいパズルのようにわざと話していた。
「どうして、その時周りに言わなかったの?」
罪悪感が無ければ、いまでさへ話してはいないよ。と、思ったが言葉には出さなかった。
そして、母によく言われていた言葉を話した。
「泣くのは、泣いたら誰かが助けてくれると思っとるゃろ!」そう言ってよく叱られていた。
泣くのも、話すのも同じ、助けて貰える内容なら、話もしたし、泣きもしただろう。助けて貰えないとわかっていながら、それでも独りで泣くのはあまりにも惨めだ。
彼女はその説明を聞き、何も出来なけどねって困ったように笑っていた。
それでも、彼女が聴き続けてくれていたおかげで、私はわたしでさへ気づかなかった私に出会わせてくれた事があった。
それは彼氏の話をした時だった。
「男の人には、随分蛋白じゃない?」
それは、私がこんなに愛に執着する理由を探ることになった。
男の人の愛情はどうしても薄っぺらい。それは仕方のない真実だった。
肉体関係を本能が求める以上、その為には嘘つき、優しくし、愛を語るものだ。愛のほとんどが過去形で話されるのは、異性の愛でしか愛を語らないせいだと思う。
では、なぜ私は愛を深めることを大切に思うのか。
ここまでの話だけ読むと、同性愛者に間違われるかもしれないがそれも違っていた。
性の対処ではない人と深く愛を気づくこと。
それが私にはとても重要だったのだ。
いくつかの本でも、テレビでもよく聞く事だが、幼少期に力で支配されていると、同じ方法で子供を支配しようとしてしまう事に、私は怯えていたのだ。
家ではよく体罰が行われていた。
私は自分より弱い人間を、叩いた事があった。
この二つの事実だけでも、自分の愛を正しいものに、間違ってしまわないようにしないといけないという強迫観念を抱くのに十分だった。
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