眩暈

 1番線のホームから私が見たのは、空を横切るまぶしい飛び魚だった。人々はオナニーに夢中で誰一人として気づいていない。それはまるで、世界の終わりみたいだった。


抱き締められてからキスをした後、浴槽の中に溶け込んだピンクのアレを確認して彼を風呂場に招いた。「ビール飲んだんですから、あまり長居しないでくださいね。」私が言うと、「母親みたいなこと言うな。」と軽く下を向いて笑った。彼はいつも下を向いて笑う。


君に依存していた、自分を殺したいほど。それを隠すように私も下を向いてお湯に溶け込んだ。全部夜のせい。


私の人生は、夏の日にたいていの事件が起きるようになっている。


彼に惹かれたのは出会ってから40秒後くらいのことだった。顔を見て声を聞いて一番近い席から彼の笑顔を見た。死んでいるような目で、渇いた口で笑っている。その嘘に惹かれた。心臓に手を抉り入れて、貴方を探したいと。


美術講師として昨年の春に就任した彼は、自寺の僧侶であり専門大学の美術講師、彫刻師、書家であった。神のような彼の経歴からして、こんな田舎の廃れた大学にしかも私のクラスの担当になるのは奇跡に近いのではないだろうか。


彼が最初に見せつけてくれた作品は、墨飛沫の飛んだ力強い書作だった。心臓、無、命。ファイリングされた彼の作品には確かめるように綴られた文字が並んでいた。中には写真家とコラボされた作品もあり、様々なカタチで表現されていた。素直な気持ちを巧く言葉で伝えたかったが、私の口からは溜息のようなヘナヘナの擬音語しか出てこなかった。そんな私から作品を取り上げて彼は少し笑いながら、「以上。」とだけ言った。私はそこで初めて彼と言葉を交わした錯覚に陥った。

これから卒業するまでに、彼を一歩こちらに惹きたいと、そう思ったのだった。


屋上から見える、短大の一角の湿った僻地に植わっている桜の木はもう死んでいて、春はまだ生きていた。彼の授業を受けられるのは週に一度だけ。私はいつも「見る」より「すました」。彼の容姿は目に余る程かっこいいものだったが、視覚に捉われるよりも彼の声や鼻をすする音や足音を聞いていたかった。でも彼は、私に自分の作品や名刺をくれたりおいしいコーヒーを奢ってくれたりして、目に見えるものを沢山くれた。私は段々と彼の真似をするようになって、絵の具のついた服を着たり同じ場所でタバコを吸ったりするようになった。周りにもそういう目でみられたかった。

初夏、ライバルができた。正直行って卒業するまで地味な戦いは続いた。高校時代の同級生だった。同じ短大に入学したがクラスは別の子で、私が苦手なギャルだった。彼氏がいるくせに、「金目的だからぁー」と自分から馬鹿アピールをするような。私が彼といい感じなのはみんなから見て一目瞭然だった。クラスの人やそれ以外の人にも、「最近どうなの?」と聞かれることも増えた。そんな中でその子は、彼が開いている絵画教室のアルバイトをしたり毎日彼の帰りを待ち伏せしていた。わざと私の側を彼と歩いたりして、見せつけられたりもした。卒業するまでずっと。

「相手にするんじゃない。」と彼に言われ納得が行かなかったが、彼自身が相手にしていないこともわかったので何も言わなかった。

それでも彼には、私でも入りきれない闇があった。笑っていてもどこか冷たい、心が死んでいるような、そんな表情がよくみられた。突き放されることもよくあった。なにかしらの愛を感じる時とそうでない時の差が激しかった。記憶にしがみついて取れないのは、彼が酷く自分の殻に閉じこもっていた時に「私にできることなら頼ってくれていいよ。」と声をかけたら「虫酸が走る。ほっといてくれ。」とまで言われたことだ。今思えば精神的に病んでいたのかもしれない。その時の私は、冷静に対処できる筈はなかった。どうにか心を手に入れたくて、試行錯誤を繰り返していた。

3ヶ月後の夏、私に彼氏ができた。

なんとなく好きになった。市民プールの監視員のバイトで知り合った1歳下のしんちゃん。しんちゃんは華奢で小柄なスポーツマンだが、レゲェとかアニメとかが好きで別にタイプではなかった。でもいい感じになったのだ。先生のことは、諦めようと思っていた矢先の行動だが、心底、未だとてつもなく好きだった。

しんちゃんと付き合っている間も彼と電話をしたり、セックスの最中にも彼の顔を重ねたりした。彼に触れたことのない私は、日に日に思いが募っていくだけだった。

1年付き合ったが、束縛とあまりの子供っぽさが厭になり別れた。後悔も罪悪感もなく、解放感と思い出のガラクタだけが残った。

私は夏の終わり、先生に告白をした。


卒業するまで待っていてくれと言われた。私は待たなかった。彼のことは深く深く愛していたが、心から信用できていなかった。彼は私を置いてどこかへ行くに違いない人だった。もうわかっていた。

あっけなく卒業し、彼のいない春を迎えた。もう忘れようと、色々な男と付き合っては別れた。社会人は春も夏もなくて、つまらないと思った。

社会人3年目の夏、とあるライブで彼と再会した。焦って、彼に連絡をすると彼から「今から会えないか?」と返事がきたので、余計にテンパって私は逃げた。好きな気持ちとまた同じことを繰り返す不安が私をそうさせた。

ライブが終わってそそくさと帰ろうとすると再び一件のメール。

「〇〇シティホテルに部屋を取ってるから、今日は寺に帰らない。ホテル前の公園で少し待つ。」

その偉そうな文章に少し笑った。私は半無意識的にそのホテルへ電話し、空き部屋がないか確認を取った。そして、少しだけですよ、と気持ちに反したメールを返すと公園へ向かうことにした。

自分が待つと言っておきながら、公園へついてから30分は待たされた。その間、私は缶ビール4本を開けていた。シラフではとても話せないと思った。

彼は相変わらず下を向いて歩きながら、私の名前を呼んだ。

何故か半笑いの彼を不審な目で見ていると、「いまそこで職質された。意味がわからない。」と呟いた。ほろりと酔っ払っていた私は、話をスルーし「部屋、いこ。部屋取ったから、今夜は私も帰らない。」と先陣を切った。スタスタとホテルに入って行く私にあっけに取られながら、エレベーターに乗り込んだ瞬間に私はまともになった。

ベッドに横になって、キスをした。初めて彼に触れた瞬間だった。恥ずかしくなって目を逸らしたら、壁のシミが目に入った。こういう時はやけに濃くみえるもんだなあとぼんやり思う自分を心の中で演じた。「結婚して。」と囁いたら、「おまえの前ではオフになれない。」と致命的なことを言われた。さっさとピンク色のお風呂に入っていった彼の気持ちを殺してやりたかった。セックスは次に取っておいて、とゴムだけパクられ、彼だけイって私は置いてけぼりになった。彼は最後まで私の手を握らなかった。

真昼の電車の窓に入って来る夏の日差しが眩しくて、昨日の続きが夢の続きであるように願った。

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