血の絆

  

          

 平成二十三年、三月十一日は多くの人にとって忘れることが出来ない、忘れてはいけない日になりました。

 私も幼い頃に新潟地震を経験しています。たまたま新発田市から震源地である新潟市の叔母の家に遊びに来ていたときに地震に襲われたのです。津波が来たものなのかはわかりませんでしたが、大人の人の背負われて逃げていた記憶があります。父は自衛官で、一升瓶に水や米を配給として持ってきていました。

 東日本大震災からまだ一年。当時の現実とは思えない映像のひとつひとつを鮮明に覚えています。東日本で起きた大地震は、日本の大地を揺るがすとともに日本人の心も揺り動かしたのです。そして大津波は、日本人が忘れかけていた「絆」に覆い被さっていたなにかを洗い流したのです。

 私の父は紫陽花会というカラオケ会の顧問をしています。追分や詩吟の師範でもあります。大震災が起きたあとに、紫陽花会の会長と父が東日本大震災チャリティコンサートを企画し、開催することに決めたのです。

 紫陽花会はいままで三回、カラオケ発表会を新発田市民文化会館の大ホールにて開催してきました。会員の年齢もあり、もう開催しないとしていたのですが、民謡・歌謡の歌手である道高むつ子さんを迎えてもう一度コンサートを開催しようと企画していた頃、東日本に大震災が起きてしまったのです。そのため、メインは収益の一部を大震災の復旧と復興のために使ってもらうことにしたのです。

 私もいままで紫陽花会の発表会には二回、出演してきました。

 私は高校生の頃からギターを弾き、オリジナルの歌も作成してきました。二十歳の頃からライブ活動もしてきたのです。その後、実家を離れて仕事をするようになってからは、ライブ活動からは遠ざかりましたが、オリジナル曲をつくり、カセットテープに録音するなどの活動は続けてきたのです。

 そして平成十二年に、音楽活動を続ける意欲がなくなったことが理由で、紫陽花会の発表会で、私のオリジナルの歌である「ラストソング」と「さすらい舟」を二曲演奏し、そのままギターにもさわらない日々を過ごすようになったのです。

 それから九年がたった頃、紫陽花会の発表会に参加してほしいと父から話がありました。ギターをさわってもいず、気乗りもしなかったのですが、親孝行もろくにしていなかったので、親孝行のつもりで出演することにしました。久しぶりにギターと歌の練習を再開したのです。そのときにわかったのは、いつのまにか音域が狭くなっていたことでした。以前の高音域を使う楽曲が歌えなくなっていたのです。ギターもうまく弾けなくなっていました。

 日々練習をして、父が亡き母を想う歌詞である、私のオリジナル曲の「とおせんぼ」を発表会で歌いました。お客さまたちからもとてもよい反響があり、音楽活動を少しづつ再開しはじめたのです。

 その年、同級会の幹事に名乗り出て、二度目はコンサートのあとに二次会として飲み会にするという同級会を企画して九月に実施したのです。旧来からの同級会の枠にこだわらず、コンサートには同級生たちの家族や友人も参加してよいとしていました。そして現役でバンド活動をしていた弟と二人と幼友達である同級生と三人で演奏をしたのでした。私がその企画をするさい、弟の奥さんであるゆかちゃんと二十一歳になる娘のちぃちゃんを会場に招いて、弟の生演奏を聴いてもらいたいと話をしていたのですが、残念ながらゆかちゃんとちぃちゃんは来れなかったのです。私はなぜか、今、ゆかちゃんとちぃちゃんに弟の演奏を聴いてもらわなければといけないという思いがあったのです。

 その年の九月の深夜。ちぃちゃんが事故で亡くなったのです。ちぃちゃんが事故に遭遇しているとき、叩きつけるような雨音と雷が鳴り続けていました。心配ごとがあっても寝てしまえる私なのですが、その夜はいいようもない胸騒ぎが治まらず、朝まで一睡もすることができませんでした。そして、朝早く、弟から父に訃報がもたらされたのです。

 弟夫婦の家にいくと、まだ生きているようにしかみえないちぃちゃんが布団のなかに横たわっていました。私はそのまま泣き崩れていました。弟とゆかちゃんの嘆きはとてもみていられるものではありませんでした。取り乱した弟は私になんども食ってかかったものです。怒りの矛先を私にしか向けられなかったのでしょう。

 私は子供の頃から霊感めいたものがあり、先に起きる出来事をなんどか予想して、それが的中していたからです。なぜ肝心なときに娘の事故を予知して防ぐことができなかったのかと責められたのです。

 弟夫婦の家はちぃちゃんの写真だらけになりました。

 玄関からトイレまでちぃちゃんの写真が飾られています。いつもいるリビングには、壁のいたるところにちぃちゃんの笑顔の写真が飾られていました。今に至るまで、弟夫婦の合い言葉は「はやく死んでちぃちゃんに会いたい」です。ゆかちゃんがどこかで聞いたという言葉が私の胸のなかに強く刻まれています。

 「親を亡くすと過去を失う。子を亡くすと未来を失う」という言葉です。ちぃちゃんは母親のことをゆかちゃんと呼ぶ、親友同士のような親子でした。

 今の奥さんのゆかちゃんは再婚で、弟とちぃちゃんは血縁のある親子ではありませんが、魂の絆はほかの親子よりも深いものがあるようにみえていました。ゆかちゃんは私の弟と再婚するまで実家に帰ることもかなわず、ちぃちゃんを友人に預かってもらいつつ生活費を稼ぐために仕事をしていたそうです。昼の仕事をしつつ、コンビニでアルバイトもしていた時期もあったと聞いたことがあります。

 ゆかちゃんが離婚した理由は、夜泣きするちぃちゃんに対して夫が虐待をしていて、いつか殺されてしまう恐れがあったからだったと、後にゆかちゃんの友人から聞かされました。

 ちぃちゃんとの思い出を自伝を書き始め、将来的には出版したいと話すゆかちゃんに、なにかしてあけられることはないかと思ったときに、毎年正月に弟の家族が遊びに来て一泊していたことを思い出しました。それらの情景がビデオカメラで撮影されていたのです。

 私は十数年ほどの録画されたものを編集をして、数枚のDVDを作成して渡しました。

 その後、私はちぃちゃんの追悼コンサートを思い立ち、翌年の二月に開催したのです。音響や照明を準備し、なじみのアマチュアバンドに出演依頼をしてのコンサートでした。

 ゆかちゃんがちぃちゃんの友人やゆかちゃんの友達に声をかけて、会場は席がほとんどうまる盛況でした。私が企画したコンサートですから、ほかのアマチュアのコンサートではやらないことをいくつか実施しました。会場に芳香剤をいくつか置いて、花の香りが漂うようにしました。大ホールではなく、小ホールですので、芳香剤がふたつでも、ほんのりと花の香りがしていました。

 また、数ヶ月かけて作成したイメージDVDをプロジェクターで映写しました。歌やバンドにあわせて作成したものでした。最後はちぃちゃんの幼い頃から最新の映像までを映写して終わりました。私は、弟夫婦に贈る歌である「生きていてほしい」など数曲を演奏し、弟と、ちぃちゃんに贈る歌を演奏しました。バレンタインが近かったこともあり、ゆかちゃんはお客様のすべてにさしあげるチョコレートとメッセージカードを用意してお渡ししました。とても感動的なコンサートでした。

 そして、昨年の平成二十三年に、東日本大震災が起きました。福島の原発でも大きなトラブルも起きました。父の兄弟やゆかちゃんの兄も福島に住んでいましたので、他人事ではありませんでした。関東に住む知人も今もまだ飲料水に不安感があり、スーパーで水を購入しているそうです。父の兄弟は重い病で入退院をくりかえしているので、不安はあっても福島を離れられないと話しているそうです。

 紫陽花会が主催する、東日本大震災復興支援チャリティコンサートということもあり、前向きに出演することになったさい、私のオリジナルのなかで、演歌調の歌と、バラードの歌を歌うことにしました。演歌調の歌は、以前にも歌って好評だった「さすらい舟」。バラードは、苦労を重ねてきた人を歌い、震災によって冬のような日々を過ごしている人たちを元気づけるような新曲、「春の花のように」の二曲を選択しました。

 ギターと歌の練習をしているなか、父からコンサートの模様を撮影してほしいと頼まれました。私も演奏のために、前後、数曲は撮影している余裕がないので、弟に私がカメラを離れているあいだの撮影を頼むことにしたのです。そのさい、ほんとうは「春の花のように」ではなくて、ちぃちゃんに贈る歌の「ちぃちゃんへ」を歌いたいのだけどと話したのです。すると弟は、ゆかちゃんを連れてくるからその歌を歌ってくれと言ってきたのです。私は迷いなく「ちぃちゃんへ」を歌うことに決めました。父は大震災とは関わりがないのでと反対をしていましたが、根気強く説得して歌うことになったのです。

 新発田市民文化会館の大ホールの客席はほぼ満席でした。

 私の出番になり、ステージに向かおうとしたさい、楽譜台を持ってくれた方が楽譜を落とし、私があわてて楽譜をひろいにいきました。そしてマイクスタンドにギターをぶつけてチューニングがずれてしまったのです。とっさに軽くチューニングをしましたが司会者の方も急がせるので、そのまま演奏することにしました。

 東日本大震災ではたくさんの方が亡くなられました。ちぃちゃんのように若い子も、幼い子も。そして子を残してたくさんの親たちが亡くなられました。私は歌う前に、「もっと生きていたかったはずのちぃちゃんと天使たちにこの歌を捧げます」と話して歌いはじめたのです。

 毎日練習をし、予行練習もなんども行いながら、本番ではなにが起きるかわからないものです。コンサートの本番では想定外のことがよく起きます。それでも演奏をはじめたら中断するわけにはいかないのです。たとえチューニングがずれて歌いづらくても最後までやり遂げないといけないのです。私はあえてギターを強く弾かず、歌に専念してやりました。演奏はうまくできませんでしたが、歌は心を込めて、全身全霊で歌いきることができました。不満足な出来なのに、なぜかやり遂げた満足感がありました。想定外の出来事が起こるのもまた人生です。生まれてきたからには、生きているあいだであればやり直すこともできますが、生まれた瞬間にまでは後戻りはできないものなのです。退くことが出来なくなった状況に陥ったとき、前をみれば崖っぷちということもあります。そんなときには前に進むしかないと私は思います。ときには崖から飛ぶことも必要です。そのまま落ちてしまうこともあるかもしれませんが向こうにある崖にたどりつくことができるかもしれません。崖の壁にたどりつき、下に降りて新たな道をみつけることができるかもしれません。

 東日本大震災の人たちを思えば「春の花のように」を歌うべきでしたが、「涙の絆」よりも、身内の「血の絆」を優先にさせていただいたのです。ですが、ちぃちゃんへの歌詞は、災害で愛する人を亡くされた方々の思いに対しても共感してもらえるという自信がありました。亡くなり方にちがいはあっても、悲しみと辛さにはおなじようなものがあると思ったからです。

 テレビで報道番組などをみていると、東日本大震災のあと、家族との絆を見直す気持ちになった。人間関係を大事にしようと思うようになったなどと話す人が多くなってきているように感じます。

  

 ちぃちゃんが天に召されてから三年後。ちぃちゃんの親友だった子の結婚式に、ちぃちゃんの両親、私の弟とゆかちゃんが招待されたのでした。もちろん、ちぃちゃんの席もありました。私とゆかちゃんでいろいろとアイディアをだし、ちぃちゃんから親友の子に贈る動画を作成しました。

 ちぃちゃんをいつまでも忘れていない親友の子やちぃちゃんの友達の思いを知り、私は思わず手をあわせてありがとうとつぶやきました。  

                   了

 


     備考

 歌詞 二番

 君がみえない天使になってもね

 君は二人のそばにいてくれてる

 どうかずっと二人を見守っていてね

 ちぃちゃん お願い

 夢のなかで パパとママにお話してあげて

 いつもそばにいるよって

 愛してるよって伝えてあげて

 もういちど笑顔をみせて

  ユーチューブ http://youtu.be/bvAeefuDt7o 

  ボーカロイド編による、「ちぃちゃんへ」          

                 了 


※ 公開することは、ちぃちゃんのご両親には承諾済みです。

 

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