第3章 軌跡~600gの我が子と歩む道 2

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キャンプ場は大きな森の中にあり、丸ごと全部遊べるような作りになっている。森のアスレチック、キャンプ場の南瓜のジャクオランタン作り、森中を走り周り散策しただそれだけで楽しい。いつも食事の時座っていない子ども達も、奇跡のように座っている。みんなの顔が笑顔で一杯。夜は早く子供達を全員コテージの中に寝かせ付け、併設されている大きなデッキスペースで薪ストーブで暖をとりながら、皆で子育てについて語り合う。皆それぞれ苦しい胸の内がある。この仲間は来年にはそれぞれの地区の小学校や保育園や養護学校と全部バラバラの進路を辿る。少なくとも私達家族は、こうして障害を持つ子供の子育てについての苦しみや喜びを分かち合える仲間に出会えたことを本当に嬉しく思った。

「今日は不思議だな。素直に話が出来る。それに夫婦でこんな風に向き合ってちゃんと話が出来てなかったって思った。キャンプっていいもんだな。」あるお父さんがそう言った。


沖縄のHさんとS子は本気だったのだ。連絡があり、本当にライブの打ち合わせに来ることになった。11月に園で行う最大の行事、発表会で多くの親ごさんが来てくれるときがいいでしょうと園長先生が提案してくれた。子供達の発表の後にライブを行ってくれることになった。たった2時間の打ち合わせのために、無料ライブのために横浜から来てくれるHさんとS子に感謝してもしきれない。当日は沖縄からお友達ミュージシャンも呼んでギターの弾き語りセッションを行うことになった。夢のような話だなと思いながら、一緒に打ち合わせをした。


一方退職希望者についても説明会が開かれ、私が仕事を失う日がどんどん近くなってくる。説明会には今まで苦労を共にしてきた仲間の顔も沢山あった。皆それぞれ自分の新しい人生を切り開いていくのだ。仲間がいることは心強かった。仕事の引き継ぎが始まり、それぞれの部署での引き継ぎ状況により退職日は決まり、私は翌年の一月での退社が決まった。


11月

最後の支援センターでの発表会。前日からS子とHさんは長野入りをして、自宅まで来てくれた。そこで翌日の音合わせ練習。子供達は大喜びだった。私は会の進行をすることになっていたので、緊張気味だったが、園への最後の恩返し。私がこれまで子育てに向き合えるようになったのはここにいる先生全員が根気強く私達に接し、どんな小さなことでもできたことを褒め、一緒に喜び、子育ての楽しさに気付かせてくれたから。不安定な私の状況を環境から変えようと一緒に考えてくれたり、気持ちに添って支援してくれたから。私も母として自信を付けられるように手取り足取りで丁寧に教えてくれたこと、ここにこうして導かれ、多くの出会いが出来たことに感謝で一杯だ。


発表会当日。Aはセリフも言えず、ダンスも全く取り組めず座り込むという結果に終わった。練習では出来るけど本番でのいつもと違う環境、状況、緊張、全てのことに弱い。でも私には大きな仕事が待っていたので、いつもなら泣いているところだったのでしょうけれど、Aの現実を受け止めることができた。皆喜んでくれるだろうかと不安でもあったけど、やっぱり本物って伝わるんだと感じた。皆身を乗り出して聞いてくれ、子ども達も4曲のライブに落ち着いて座っていることが出来、満足で一杯だった。園の為にオリジナルの曲を作曲し、作ったCDを全員にプレゼントしてくれた。ボランティアのライブなのに、全力を向けて下さったことに心打たれ、後からじわじわとその有難さがこみあげてくる。Hさんも実は幼少期、複雑な家庭環境の中で育ち壮絶な子供時代を送ったという経歴があったことをライブ終了後に話してくれた。ここの子ども達は、自分が子どもだった頃の姿に重なる部分が多いと。


ある日、Tが会社から大きな荷物を抱えて帰ってきた。アメリカに出張していた同僚がBさんとMさんから我が家宛の荷物を預かってきたと言って持って来たというのだ。皆で包みを開いて見てびっくり。2人にはバービー人形ちゃんと沢山のお着替えセット。パパには帽子。私にはメッセージ入りの飾りが入っていた。

「Some people live their whole life through and never know a friend like you.」

こんなメッセージが入っていた。私達こそこんな素晴らしい出逢いを経験し、異文化とふれあいそれだけでも人生最高のプレゼントをもらえたのに。BさんとMさんの心使いが心から嬉しかった。


小学校で校長先生と入学前最後の面談。特別支援級のコーディネーターの先生も交えて、4月からの具体的なことについての確認を行った。校長先生からは「小学校でお預かりします。」とはっきりとした返事を頂いた。生活面の自立、特に排泄面について4月までしっかりできるようにとのお願いがあった。仕事を辞める準備が進んでいる事を報告し、4月からの登下校についての再度の付添の御願いもあった。具体的に小学校への準備が進んでいることに胸をなでおろした。最初は嫌な校長先生だと思った。しかし、私は神様に気持ちを試されたのかもしれない。何故小学校への進路を希望するのか、そのことを他人を説得できるくらいの強い思い、信念を持っているのか。夫婦でなぜ小学校での生活体験が必要なのかをじっくり考える良いチャンスになったのだはないかと考え、そう思うと嫌な校長先生ではなくなった。


12月

私達はまたまた最後の力を振り絞って壮大な計画を立てた。クラスのお友達家族をまとめて呼んでクリスマスパーティーをしようという計画だ。13家族の内、9家族が参加してくれることになった。この計画に園の先生もさすがに心配をした。自閉症の子ども達への支援ツールの作り方を指導してくれ、お母さん皆で協力しあって、写真カードを作ったり当日の買い出しや会計と役割分担をして当日を迎えた。パニックなんか一人もいない。押入れの中に全員で入ってお化けごっこをしていたり、お絵かきをするもの、たこ焼き作りや料理をお手伝いするもの、お父さんとプロレスごっこをするもの。こうして準備をして楽しい夕飯。今日は好きな物だけ食べたっていいじゃない。クリスマス会だから。そして大人はみんなで子育てについて、これからの進路の不安についてお互い語り合う。それぞれの障害に関係なく、子どものために親が皆で協力し子どもを喜ばせる。それを見て親も喜び、親が仲良く話をしている姿を見て、子どもも楽しい気持ちになって遊ぶ。全員の気持ちが一つびなったからこそできたこと。卒業まであと3ケ月。この素晴らしい仲間に出会えたことが何よりの私達の財産。

普段本音を話す事がなかなかないパパ同志も話が出来た。「みんな同じ辛さを持つ仲間。けれども励まし合ってみんなで出来ることを考えて工夫して最後まで良い思い出を作ろう。」と心が一つになった。


ママ友の一人が相当落ち込んでいた。この時期進路が決まってから卒業まで不安定になる気持ち、よく分かる。何とか元気になって欲しかった。そして一緒に会社を辞める裁縫が得意な友達にあるプロジェクトを企画して相談した。

絵が大好きで上手なママ友の子ども。その絵を借りて布で刺繍の絵を作り、プレゼントしようというプロジェクトだ。会社の友だちは布や刺繍糸を持ち寄ってくれた。2人でデザイン、裁断、そして夢中で毎晩刺繍。

完成した布絵をママ友に届けに行った。すぐに自分の絵だと理解したお友達は、きゃっきゃと声を出して何度も絵を見ては喜んでくれた。ママ友も喜んでくれたのが分かった。少しずつ辛い気持ちを話し出してくれた。私達は持ちつもたれつ。私が辛い時も周りがいつもこうして話を聞いてくれた。



今年の年末は家族でトレーラーの旅に行こうと決めていた。和歌山を目指して出発。温泉と観光が目的と決めて出発。

熊野灘に沿ってドライブ。鬼ケ城。勝浦温泉。フェリーで行くホテル浦島の洞窟風呂へ。夜は世界遺産のつぼ湯。こうして旅は始まった。

ところが次の日、Aの様子がおかしい。せき込んで吐き、微熱がある。そして熱はどんどん上がり38度超え。なんせ年末。慣れない土地でインターネットで当番医探し。受診すると激混みだ。結果はインフルエンザA。Tと私はこの狭い空間での濃厚接触している私達が倒れる前に運転して帰ることを即決。タミフルとトンプクでAには休んでもらい、後ろの座席の間に荷物を詰めてベッドを作り眠れるように改造。必死で夜中中運転を交代しながらひた走った。朝方5時やっと自宅にたどり着いたときは、もう全員限界ぎりぎりでした。私はすぐに熱が上がりそのまま具合が悪くなった。Aは「旅行楽しいな~。明日はどんな楽しいことが待っているかな~。旅行続ける。病気を治す。」と繰り返し話していたようだ。飛んだ年末と一年の始まりになってしまった。


2010年

1月

すぐに退職の日はやってきた。これが最後。もうこの会社の中に入ることもない。ふらふらと日本中を働き歩いていた私が、結局はこの会社で13年働いた。子供のことが無ければ、多分辞める決意はしなかっただろう。皆から沢山の贈り物やメッセージを頂いた。送別会はしないと会社で決まっていたが、それを破って皆が送別会を開いてくれた。そのまま仲の良かったおんな友達皆でカラオケ、泊まりで朝まで語り合って別れを惜しみながら一緒に過ごした。


仕事がなくなるのは変な感じだった。でも家にじっとしていられないのが私。自分が中心になりクラスのお世話になった先生へ、特別に何か記念になるものを作って行こうプロジェクトを立ち上げた。記念品は、私が北海道時代に一緒に働いていた陶芸家を夢見ていた子が自分の窯を持ち、陶芸を教える先生になっているので、そこからデザインをお任せして先生分の湯飲み茶わんを作ってもらうことにした。それから、全員が同じクラスの子どもの顔を忘れないようにとクラス全家族と先生に顔写真付きのメセージアルバムを作ることにした。皆で集まりプロジェクトの役割分担。皆快く協力してくれた。これもまた最後の良い思い出になるんだと思う。


2月

サプライズが起きた。アメリカのBさんとMさんから沢山のチョコレートが自宅に届いた。こうしてずっと交流が続いていられることを本当に嬉しく思った。


今年の2人の誕生日はサプライズ&卒業おめでとうディズニーランドトレーラーの旅。迷子になった思い出が懐かしい。


私はもう一つ大きなプロジェクトを企画した。一緒に会社を辞めたYにも手伝ってもらい、卒園までに子ども達が触って楽しめる巨大布絵本を作り、卒園の記念にプレゼントをしようというものだ。Yはすぐに賛成してくれた。作りたい本は決まっていた。私が理想としている豚の優しいお母さんと子ども達の絵本。毎日怒ってばかりだけど、本当は私もこんなお母さんになりたいといつでも憧れて来た理想のお母さん像。Yが布や糸を持ち寄ってくれた。二人で出来る限り集まって、裁断。裁縫。大量に使う赤い布はYが提供してくれたのだが、昔Yが私達の可愛がっていたゴールデンレトリバーにクリスマスコスチュームを作ってプレゼントしてくれた時の余り布だと言う。驚いた。こんなところでジャンボの名前が出てくるとは。私達は夢中で取り組んだ。心を込めて一針一針。


Tは子ども達の学習机をDIYで作り始めた。出来上がっていく机にドキドキの二人。私は同時に学校に行くための運動着袋、座布団カバー、図書袋も全て手縫いしていたので本当に多忙な日々。こうして会社を辞めて寂しい気持ちは余りの多忙さに感じる暇もなかった。


3月

いよいよこの日を迎えてしまった。これが最後の登園日。Aが3年。Bが2年お世話になったこの園舎。本当は喜びだけじゃない。ここを卒業することが怖い。まるでいきなり大きな海原に投げ込まれ、方向を失ってしまいそうになっているみたいな気持ちになり、本当は怖い。これから自分は一人でがんばっていけるだろうか。今までこんなにいっぱいの仲間に囲まれ、そのままを受け入れてくれいつでも味方をしてくれていた大勢の先生がいなくなり、私はこの大海原の中をこの2人を連れて本当に泳ぎ切っていけるだろうか。大きな不安を抱えながらもお世話になった園に別れを告げた。


4月

入学式前日には、パニックにならないようにと特別に配慮してもらい、支援級の子どもと保護者での会場下見が許された。

入学式。こういう儀式は私の緊張が子どもに伝わるのかとにかく崩れることが多い。朝からかなりの緊張感。出来ないと思えば思うほど完璧でなければならず、一年生になったらの歌を家で猛練習。名前を呼ばれて立つ座るの練習もする。とにかく出来なさ加減が目立つことがなにより嫌だった。記念写真をとれば、大股開き。閉じなさいと校長先生に言われると、「嫌。だってAは男なんだもん。」などと訳の分からないことを言って頑固にいうことを聞かない。後ろでイライラする私。すると隣で「いいじゃない。子供らしくて。たいしたことないわよ。」とベテランお母さんが言う。さすが3人も育てたお母さんだけあって余裕がある。それに比べて私は、もう周りなど見る余裕もなければ、二人の行動ばかりが目について仕方ない。入学式を終えると極度の緊張状態で私の方が家に帰って倒れ込むように休むという情けなさだ。


原級担任は男性のA先生。支援級は年配の女性のK先生。いよいよ小学校生活が始まった。まずはサポートブックを手渡し、障害の特徴を先生に伝えた。多分最初から気合の入った保護者だったろうと思う。

しかし、そうならざるを得ない。校長先生とのやり取りからも私自身が緊張感を持たずにここに来るなんて無理なことだ。


そして二人が小学校入学とほぼ同時に、私は土日を産業カウンセラーの資格取得のため学校に通うことを決めた。パワー全開の私は、他のことをやらずに子供の事ばかりを100パーセントやれば、いつか二人をこの勢いで追いつめてしまうかもという怖さもあり、また二人のせいで仕事を辞めたと後悔で二人を責める原因になってしまうと思い、このパワーを分散すべく資格取得という目標を持つことにしたのだ。土日は殆ど学校で家を空けてしまう。でも私の性格をよく知るTは賛成して応援してくれた。


2人が地元の保育園に行けなかったため学校には知っている母さんもいない。産業カウンセラーの学校では様々な年齢、職種、経歴の持ち主、様々な地域から大勢の人との出会い。私を取り巻く環境が大きく変わった。


そんな時突然、二人が卒業した児童発達支援センターから週何度か働きに来ないかの声掛けがあった。初めての福祉の仕事。資格も経験もない。果たしてこんな自分に専門職しかいないこの職場でやって行けるのだろうかと相当不安に思いながら、その時の私はここで仕事から100パーセント離れたらもう社会と繋がっていけなくなるのではないかという焦りと不安があり、職安に通いながらも仕事の経験としてボランティアからならと働き始めることを決めた。

意外にもTからは、「働きに行ってみればいいじゃないか。生産業界はこれから氷河期に突入するようなもんだ。俺たちの会社だけじゃなく、市内のいくつもの生産工場や会社が人員削減を同じ時期に行ってるじゃないか。でも福祉業界はこれから多くの人に必要とされる仕事。あと20年で一つ仕事をやり遂げるって考えれば最高の転機じゃないか。全くお前は羨ましいよ。」そんな風に言われた。

そうかものは考えよう。確かにそうかもしれない。4月は初めての事だらけ、慣れないことだらけで精一杯の私だった。


私が仕事を辞めたと聞いた近所の方が突然に畑をやってみないかと私達に声を掛けて来た。確かにガーデニングは好きだけど、私がその頃夢中になっていたのはハーブとバラ。こんな自宅の小さな庭の面倒でさえ、完璧にしようと思うと相当の労力を要する。それなのに田んぼ1枚分の畑。無理に決まっている。近所の方は昔からいる地元の人。ご両親が年老いて田んぼ・畑が出来なくなり広大な土地を持て余し、私達に田んぼ一枚分の土地を貸すので耕してくれないかとのお願いだった。即座に断った。ところが、後日近所の人は、今度はじゃがいもの種イモを運んできた。

「ジャガイモは今植えないと、収穫できないんだよ。良かったらこの種イモを使って植えてよ。今畑に行けば、おやじは半身が動かなくて手伝えないけど、やり方なら指導してくれるって言ってるんだ。」

近所の人の作戦勝ち。しぶしぶ仕事着に着替え畑に向かった。

......広大すぎる.....一体どうしようとは思ったが、マメトラも草刈機も自由に使ってもらっていいとの条件をもらい、とんでもなく強引に私達の畑ライフが始まった。ところが、2人は意外にやる気。ジャガイモを植えた夜、「ねぇママ、もうジャガイモ大きくなったかな?」などと聞いてくる。更には2人で図鑑を見てジャガイモのことを調べている。体験ってすごく意味のあることなんだってことを実感した。小学校でも畑仕事をする。そうだ、二人の経験の助けになるかもしれないな。そう考え自分達も楽しむことにした。


学校が始まると、雨の日も晴れの日も2人に付き添って学校までの道を歩く。学校が始まって数ケ月。毎日のやることが定着するまでは教室まで付き添い、物の置く位置を覚える。実際に教室で一緒に毎日のことをやりながら、先生と工夫や改善点を見付けては実践してみる。そんな毎日が始まった。

車通勤で、ろくに運動もしない私はジャンボが生きていた時以来、散歩らしい散歩もそういえばあまりしたことが無い。歩くことがこんなに季節を感じることとは。4月の通学路にはいつも桜の花びらが舞い散ってピンク色をして私を迎えてくれる。道脇に咲くチューリップや水仙。つくしでさえも毎日私に季節を教えてくれる。

通学班は、近所が近い子ども達で構成される異年齢の班。また一週間に一度全校下校に日には、地区全員で帰るので相当の人数になる。人数いればいざこざも起こる。その中に一人保護者。子供同士のことだから、加減がないこともある。つい保護者目線で見ると、危険行為は注意したくなる。いつの間にか、トラブルを解決する先生状態になってしまう。子供のなかに入りすぎてもいけない。時々は子供同士の関係のことで保護者同士のいざこざに巻き込まれることもある。先生に報告することもある。我が子の事ばかりを考えていられない状況に置かれることも多く、思った以上に付添は大変だと感じた。


連休を迎えるとほっとした。私は学校の宿題だらけだったけれど。旅は想像以上に疲れを残すため、トレーラーの旅は断念した。で、トレーラーの車庫を作るべく庭の大改造にチャレンジ。車庫を作るためには大胆なレイアウト変更が必要だった。二人で建てた物置のミニログハウスを二人で解体し、別の場所に再組立てする。それからミニログのあった場所にトレーラーの車庫を一から作る。自分達で出来ることは自分達で作り上げる。時間がかかっても手をかけることで愛着の湧く庭にする。それが私達スタイルだ。作業中2人は花を摘んだり、葉っぱの料理を作ったり、大好きな棒集め、石集めに没頭する。


いよいよ学校に慣れ始めると勉強が始まる。集中できず座っていることも難しいAとの付き添いで二人三脚の宿題への取り組みが始まる。ひらがな一つ覚えるのも人の何倍も時間がかかるうえ集中時間は短い。朝に夕飯の材料を切っておくなど工夫して、夜はAとBの宿題にしっかり付き合えるようにする。これが毎日のスタイルになった。

私が仕事をするようになり、初めての夏休みの預け先のことで福祉課との調整会議が開かれた。児童館は発達障害児の単独での受け入れはしなたくないと意思を表明しているため、調整が必要だった。私は、個別に大人とのかかわりしかない障害者施設での児童デイではなく、異年齢の子ども達と触れ合えるチャンスでもある児童館を希望していた。夏休みは障害者施設の児童デイも人で一杯。そこで、サポートする人を一人つけて、児童館を利用する線での調整が始まった。何か一つ行動を起こそうとするだけで全てが調整だ。発達障害とは何て世の中で生きにくいのだろうと思えて苦しくなる。


初めての参観日を迎え、私は前の晩から緊張で眠れなかった。いつでも集団の中に入れば目立つ二人の姿を見ることは私にとっては何より辛かった。ひとたびその辛さを全身に浴びるとそれから10日くらいは、落ち込んで気持ちが立ち上がれない程のダメージを受けてしまう。最初から分かっていることだけれどやっぱり現実を感じると全身をナイフで切り裂かれたように辛く感じる。もう少し楽に生きられたらいいのに。

Bは学校から帰って来るとしきりに「なわとびが出来ない。」ことを気にする。家族で練習するのみ。「ママのダイエット」と題して、先頭を切って縄跳びをやる。自転車の練習も学校から帰って来ると毎日付き添う。Aにおいては縄跳びは全く縄を回すことすらできない。自転車の習得もかなり厳しそう。でも私は諦めない。2人が家にいる間はひたすら二人の時間に付き添う。日中は仕事の日とそれ以外は産業カウンセラーの宿題に取り組まなければ、週末ごとの宿題に追いつかない。毎日は必死であっという間に過ぎていく。

それぞれの場所に就学した児童発達支援センターの仲間たちと連絡を取り合うと皆も私と全く同じ気持ちでいた。こんな時は集まって話そう!こうしてみんなで真昼の温泉へと繰り出す。子供が帰って来るまでのわずかな時間をお互いを悩みごとを話しながら一緒に過ごした。仲間がいるって有難い。学校では孤独を感じるけれど、繋がってみんな同じように悩んでいると思うと頑張れる気がする。


そんな時、アメリカからBさんが出張でやってきた。二日前に日本入りし、2人に会いに来てくれたのだ。片手には持参したルアーを持って!メンバーを集めて早速Bさんの大好きな釣り&デイキャンプの計画をたてた。2人も釣りが形になってきた。なんとBが投げたルアー一投目にニジマスがかかり、人生初で魚を釣り上げた。Bさんは根気強く二人のへんてこりんな遊びに付き合ってくれる。夜は我が家でホームパーティー。言葉も通じない私達なのに、こうして訪ねてきてくれるなんて本当に嬉しく思った。

産業カウンセラーの学校では少しずつ仲良く出来る人が現れ皆でランチに行ったり、交友関係が広がりつつあった。厳しい勉強も仲間がいることで、苦しい気持ちを話して分け合いながら頑張れるのだと感じた。一人ではない。各々に志しているものがある。こんな出会いなどめったに出来ない。皆の話を聞くことはおおいに私の刺激になったのだ。


学校に入って初めての大きな行事、地元の山に登山する日が近づいてきた。校長先生からの御願い通り付添は必須か...と思っていたのだが原級のA先生は「お母さん、登山は付添なしで大丈夫だと思います。私が手を繋いで傍にいるようにします。任せて頂けませんか?」と言ってくれた。登山が終わった後、登山口までの迎えのみで良いことになった。有難かった。A先生とは、連絡帳で毎日やりとりをしているなかで信頼関係を築けていたため、素直に先生の言葉に従うことにした。付き添わないで自宅にいることはそれはそれでひどく疲れる。どうなっただろうとずっと想いを巡らし、考えすぎてへとへとになる。迎えに行くと、靴が脱げて一時パニックを起こしたようだが、落ち着くとまた集団の中に戻っていき、登山を最後まで自力で取り組むことができたのだとA先生から報告をもらった。校長先生からも「最後まで頑張れましたよ。素晴らしい頑張りでしたよ。」と声を掛けられ、涙が出そうになる程、安堵した。しかし学校の行事一つ一つにこんなに極度な緊張感が続くのかと思うと、私の気持ちは一体どこまで持つんだろうと不安を感じる。

毎日毎日の宿題、縄跳び、自転車練習への付添も時々はイラっときて怒ってしまい自己嫌悪に陥る。毎日毎日の濃厚な時間に気持ちが詰まる。あ~一人で温泉にでも行きたいな。一人旅にでも行きたいな~。でも現実には行けないし仕方がないので、一人でビールをのみ早めに布団に入るしかない。


次々に難題は続く。Aと同級生で支援級に子供が通うお母さんから「クラスの親子レクどうする?参加する?」の質問を受けた。本来は親子の交流、親同士の交流、子ども同士の交流など様々な意味があって開くものだと思うが、Aにとってはそれ以前にゲームはルールの理解が遅い。又は分からない。親子で参加するこの大勢の中で際立つことは、私が自分を壊しに行くようなものだ。私にはこのお母さんが何を心配しているのかが良く分かった。でも悩みに悩んで私は行くことを選択した。私が前に出て行かなければ子どもも出て行かれない。いつでも支援センターでかつてM先生から言われた一言が頭にこだまする。出来ないなら何度でも失敗して覚えなさい。出来ないなら人より多く経験しなさい。怖がらずに一歩踏み出してみよう。そして打ちのめされるのだけれど。


私は高卒で就職し、若いころは放浪ばかり。だからこれと言って何も資格もない。今まではそれで全然通用したのに、今になってどうして勉強しなかったんだろうと後悔が襲う。後悔したところでもう相当遅いんだけど。この頃から発達障害についても自分自身が学んでいこうと講演会などを見付けては勉強しにいくようになった。ボランティアの仕事にも都合が合えば行くようにした。ボランティアは無償でできる貴重な仕事体験。無職に私にとってはありがたいこと。私には次の仕事に生かせる何かが何もないという焦りがあり、家にいると一人取り残されたような気持ちになる。

色んな焦りや不安がある中に月に一度の参観日が重なると、私の落ち込みようには手が付けられない程になる。連絡帳の中でも先生に当たりまくる。子供の前でも構わず泣きまくる。ダメだと思っていても止まらない。そんなときでもA先生は冷静に受け止め、絶えず励ましを言葉をかけてくれた。連絡帳の文面から、それが本心であること、飾らないその言葉からちゃんと伝わってきた。


落ち込んではまた立ち上がって、今日も自転車の練習に付き合う。すると「いつもいつも一人で2人の面倒頑張っているね。」と近所の人が声をかけてくれた。見てくれている人も必ずいるんだ。そう思えると心がじーんと熱くなった。元気な私は2人と遊ぶ優しいママに返信する。庭のバラの花を摘みバラ風呂に入ろう!と誘うとノリノリの子ども達。泣いた次の日は、私が泣いていないかどうかを確認するかのように2人は私の顔を覗きこむことがある。そんな時、自分を反省する。


学校でメガネを無くする事件発生。いつかは起こると思っていた。とにかく整理整頓が苦手。置いた場所はすぐに忘れる鳥みたい。困ったことを周りに発信できないため、メガネがない。→探さなくちゃ。→勝手に教室や学校を出て行く。→衝動的な行動として周りには理解しがたいことになる。の図になる。メガネは校長先生までも巻き込み探してもらうことに。その場その場で忘れないうちに一体どうすればよかったのかを考えさせる。行動範囲が広がると教えなければいけないことだらけになる。本当にAは生活習慣が身に付かない。何度も何度も何度も繰り返しやっとやっと修得していくのだが、そのスピードの遅いこと。更にすぐに気持ちがどこかに転動していく。今時間割を揃えているのに、ノートを手に取ったら、ノートの中身を開いて読んでしまう。読んでしまうと今自分がしようとしていたことはどこかにいってしまう。結局いつまでたっても本来やるべきことが何一つ終わらないという結果になる。緊張が強くなったり、時間を持て余すとき、激しい指しゃぶりをする。誰も指なんなしゃぶっていない中に一人指をしゃぶるAは際立って目立つ。

Bは心配になる程、ド真面目の心配性。布団に入っても「ママ、大変。今日の音読やるとこ間違えた。せんせいがあいうえおうたをやりなさいっていったのに違うところを読んだから、もう一回ちゃんとやらなくちゃ。」誰にもそんな事ばれるわけないんだから、どうでもいいことじゃんと心で思いながらも練習につきあう。全く丁度良い加減のない2人だ。どうしても出来なさが目立つAに気をとられ、Bに配慮が出来ていない事が多い。ところがBは悲しむ私の気持ちに敏感で自分の気持ちをひた隠し、限界まで我慢する。私の子ども時代にそっくりなのだ。まるでAとBは光と影のよう。


ある一つの講演会が心に止まった。助産院の先生の「いまどきのお産、子育てについて」というお話。病院のNICUで働き、常に命に向き合う仕事をしてきた先生だ。先生が講演の中で紹介してくれた本。「ママのおなかを選んだよ。」の中から。

①子供の選択で両親を選んでいる。

②子供は、両親、特に母親を助けるために生まれた。

➂子どもは人生の目標を達成するために生まれてくる。

涙が止まらなかった。偶然に一緒に講演会を聞いている人の中に、支援センターで子ども達を一緒に通わせていたお母さんがいた。一人のお母さんは、支援センターにいる時子どもさんを亡くされ役員を一緒にやったお母さんだった。子供が亡くなってからは、遺骨を前にずっと傍から離れられず外出することも出来なかった。私のせいとずっと泣き続け、なんと声をかけていいのかも分からない状況だった。そのお母さんが前を向いて歩きだしていると知り、本当にほっとした。ところが、講演会終了後、泣きじゃくりパニック状態になった。私ともう一人のお母さんで一緒にパニックが収まるまで待った。命が一つなくなることの重み。それは私にもわかる。弟の死で自分を毎日責めたから。ましてや我が子だったらなおさらだ。別れ際、「苦しい気持ちにはなったけれど、ここに来て今日の話を聞けて良かった。仲間が傍にいてくれて良かった。」そう言ってくれた。これからもずっと子供の死と向き合っていかなければならない友達。そのためにはどれほど膨大な時間が必要なのだろう。そして私は自宅に帰って「6年間苦しい気持ちになるから全く見ることもなかった2人が産まれた時の写真を見て見よう。もう一度、いのちの大切さについて考えてみよう。」そう思え、Tと一緒に生まれた時の写真のフォルダを初めて開いた。何て小さい命×2。でも生きる力ってすごい。いつか私も、将来母親になる2人に大切なことをしっかり伝えられる自分に変わっていこう、そう思った。


夏休みが近づくとまた難問が降りかかってきた。学校のプールには、サポーターなしでは入らないで欲しいとの学校からの要請だ。しかし関係者以外の入水は衛生上の都合で届け出が必要。つまり、2人には学校のプールを使う権利がありながら、条件をクリアしなければ入られないのだ。


夏休み前の参観日。また緊張の時だ。学校生活も少し慣れてきての授業参観。Bが手を挙げていた。本当に人前で何かをやることが苦手なB。自信をもって取り組めている姿に涙が出そうになった。でもその喜びの涙は、一気に悲しみの涙へと変わった。Aが支援級から脱走して、私のところへ来たからだ。家に帰るとキリキリ胃が痛み、夕ご飯もあまり進まず心の消化不良だ。Aと一緒にいたら暴言を吐いてしまう。しなくちゃいけないことも何もかも投げ出して、1人で車でふらふらと走った。こんなに気持ちのコントロールが出来なくなったのは久しぶりだった。親子レクは頑張って出たものの現実を突きつけられ、相当落ち込んだ。まだその気持ちの整理ができていないのに次は参観日と消化不良が重なり、一気に限界まで達してしまった。でもどんなに走っても走っても現実からは逃れられない。分かっている。AはAなりのスピードで緩やかに成長しているのだ。それなのにごめんね。ごめんね。A。


冷静になるとやっと理解しようとする姿勢になれる。参観日はいつもと違う学校の様子、大勢の人、気がそぞろの私。Aが落ち着ける要素など何一つないのに。

こんな気持ちになった時は、お詫びにせめて美味しい夕飯を作ってやろうと頑張る。家族には手作りの夕飯を用意するが私のこだわりだ。そして2人と一緒に台所に立って料理をし出したのは、支援センターに行っていた頃調理実習が沢山あったため、真似てやるようになった。2人いると順番でなければできないことが多い。順番を待ってからお手伝いできる。順番を待つ間のトラブルも多いのだが。怒りながらのお料理になり自己嫌悪に陥ることもしばしば。お料理の順番を見ながら考えて取り組む。楽しいし美味しい。色んな要素が満載で、お料理することは発達障害に最適なのだろうと感じた。


産業カウンセラーの勉強は、講義から徐々に面接実習へ。スーパーバイザーの先生が我がグループに入り指導して下さることになった日などは、ドキドキカチンコチン。でも先生からの「思い切ってやってみなさい。」のアドバイスの言葉を信じ取り組んでみると、今までひどく悩んでいた課題がクリア出来、思わずうれし涙が出る。子供達もいよいよ算数は計算問題が少々ハードルがあがり苦しんいる。違いがいくつに苦しんで一つ問題が出来るようになるたび喜ぶ。私がこうして一つ課題をクリアする気持ちと一緒だろうか。人より何倍も努力が必要な子供たちが一つ出来るようになるその目の前の壁は、人よりいつでも高い。本当はもっともっと褒めてやるべきことなのかもしれないが、これぐらいできて欲しいという自分の気持ちが邪魔をして、なかなかほめてやることが出来ない。こんなママでゴメンね。


Aの事ばかりに気を取られていると、B、言いたいこと、心配事をうまく伝えられず夜眠れない。夜中に何度か起きてぐずぐず。「ママ、蚊に刺されて眠れない。」ムヒパッチを貼ってやる。又起きて「ムヒパッチを貼るとプールに入れないから取る。」じゃあと、ムヒパッチをはがし薬を塗る。「ママ、プールの表に丸した?」「薬塗るとプールに入れない?」何が言いたいのか?グズグズして眠れない。「じゃあ、明日先生に聞いてごらん。」「ママ、明日学校についたら、先生に聞けるように合図して。」こんな具合に真夜中だというのに緊張状態に陥る。本当に神経が細い。自信がない。

この頃から真夜中に頻繁に起きてはグズグズするようになった。そんな中、たった一言Bが私に言えたこと。「ママ、S先生に会いたい。」だった。支援センターでM先生の後任で担任を2年してくれたおばあちゃん先生のS先生。本当のおばあちゃんのように時には甘えるだけ甘えさせてくれ、でも時には厳しくしかってくれる先生だった。その言葉を聞いて、BはBなりに一学期慣れない環境の中で精いっぱい頑張ってきたのだと感じた。夏休みになったらS先生に会いに行こうと約束した。


初めての夏休み。毎日のラジオ体操。早起きの超苦手なAをたたき起こす事から始まる毎日。夏休み前からサポーターさんに付き添ってもらい児童館に行く練習を積み重ねて本番を迎えた児童館での生活。児童会の行事に大量の宿題。夏休みには、植えておいた畑のジャガイモが収穫時期を迎え、家族全員で収穫をした。自分達で収穫したジャガイモの味は格別らしく、もりもりと食べる。

初めての学校のプールは、私が完全付添をすることで学校のプールの使用許可が下りることになった。

プール当番は役員保護者の当番制。ところが、私は役員でもないのに一緒に毎日その集団に交じって学校へ行く。当番のお母さんはプール脇で見守り。ところが私は一人水着になり入水。当然、ものすごい注目を浴びる。本当に地獄だと思った。

Aはこんな時いやだいやだとぐずり、集団で歩く時も輪を乱す。着替えもコーフンしていてなかなか進まない。当番の人に任せることは出来なかったとこの選択をしたことにほっとする。

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