渡り鳥 ―50年前の文通に始まる2人の心の旅のstory―

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 こうして仕事の合間に職場の窓から明るく青く澄み渡った冬空を黙って見上げていると、高い空の上を北から南に向かって真っすぐに飛んでいく渡り鳥の姿が見える気がする。

 

 あれはもう50年前、私が信州の田舎の高校に通い始めた1年生の6月頃だった。当時、「高一コース」という高校生向きの月刊学習雑誌があり毎月買って読んでいたが、その中に「文通コーナー」というようなものがあった。高校は共学だったが女子は極めて少なく、私のクラスは男子のみだった。高校生活にも慣れ始め社会への関心も出てきた頃、日本の他の土地に住む同じ年齢の高校生はどんなことを考え、どんなことをしているのか?・・・そんなことを何となく知りたくなっていたので、その雑誌の「文通コーナー」に載っている全国の文通希望者の名前を男女関係なく、目をつむってどちらにしようかな?と何度か指であちらこちらと押してみた。最後に一人の名前で指が止まった。それは、遠い九州の佐賀県に住む女生徒だった。あれ?女子だ・・・とまどったが、通う高校のクラスは男子のみだったので、知らない世界が広がるかなと思って文通希望の文面を手書きしたハガキを出してみた。その時、何とハガキに書いたかは覚えていないが、汚い字だったに違いない。

 それから返信はなく、ハガキのことを忘れかけていた半年くらい経った頃だったと思う。ある日、学校から帰宅すると、母が私に郵便が来ているよと言う。見ると佐賀県の住所で見知らぬ名前の女性からの封書だった。「突然、知らない人からの手紙で驚いていると思います。すみません。あなたはもう忘れているかもしれませんが、私は前にあなたが出したハガキをクラスの友人からもらった者です。遅くなりましたが、よろしければ私と文通してください」というような内容だった。そっか、あの時のハガキの返事が来たのだと驚き、嬉しくもあり、すぐに返事の手紙を出した。おっちょこちょいの私は、差出人の名前にある「知」を「和」と見違えて宛名書きしてしまい、さっそく次の手紙で名前が違うとしたためられてしまった。私の下手な汚い字の手紙にもかかわらず、いつも綺麗な字の手紙を返してもらい、こうして2人の文通が始まった。

 私の出したハガキをもらった生徒は、全国から10人ほどの文通希望のハガキがあり、その中から気に入った一人と文通することを決め、残りのハガキを学校のクラスの女生徒達に見せて、それぞれ1枚を選んでもらって振り分けたとのこと。最後に2枚が残り、彼女と親友で選ぶことになったが、ハガキの文面を読んだ彼女が私のハガキを選んだらしい。しかし、すぐに返事を書く気もなく、そのハガキは捨てようかとも思ったが、何となく自宅の自分の机の引き出しに入れてしまっておいたとのこと。やがて彼女もそのことを忘れて月日は経ち、ある日、机の引き出しの中の何かを探していた時、奥にあったそのハガキを見つけ、いつまでも返事をしてないので待っていたら悪いと思い、思い切って手紙を出したのだという。彼女もまた、私から返事が来て驚いたようだ。私は開業医の次男で、彼女は炭鉱職員の長女だった。

 女子と付き合ったこともなく、男子と付き合ったこともない田舎者同士の2人の文通は、たぶん特別のドラマチックな話も、恋愛じみた文面もない平凡な高校生活の話ばかりだったと思う。その頃、私は社会の出来事や哲学などに関心が出てきていたので、硬い内容の文章をよく書いていたようにも思う。男ばかりの高校生活なので、手紙だけだったが同学年の女生徒の話は興味深く、またなるほどと感心することもあった。2年生になり、私は生徒会活動をするようになり、秋からは生徒会長にもなったので、ちょっと忙しくなり、文通の頻度は減ってしまったが、数か月に一度くらいの文通が止まることはなかった。彼女も高校の友達仲間と一緒に地域の子供たちの育成のボランティア活動などで張り切っていたようだ。やがて3年生になり受験の季節を迎え、さらに文通の回数は減っていったように思う。彼女が高校卒業後にどこのどの大学を受験し、どんな仕事を目指していたのかは手紙に書かれていなかったので知らなかった。私は、その頃さらに哲学に興味を深めていたので哲学者になりたいと思い、3年生からクラスは文系コースを担任に希望したが、それを知った親から医師になってくれと強く言われて、親孝行をしようと仕方なく理系コースに変更した。本格的な受験勉強生活となり、2人の手紙のやりとりはさらに減ってしまった。

 その頃、全国の大学では学生運動・学園紛争が盛んになり、驚くことに東大入試が中止になってしまった。それが受験地図に与えた影響は大きく、希望した大学医学部の入試偏差値はどこも高くなってしまった。それが言い訳にはならないが、受けたいくつかの大学入試に失敗し、高校卒業後は東京で予備校通いをすることになった。受験が終わって、しばらくして入試に落ちたことを彼女に手紙で知らせた。返信があり、岐阜にある短大に受かり、幼稚園の先生を目指すことを知った。すでに佐賀の実家を離れ、岐阜で寮生活を始めていた。実は京都にある四年制大学が第一志望であったが、受験日に体調不良で試験に落ちてしまいとても悲しんだが、親に浪人の負担をかけるわけにいかず、遠い短大の幼児教育学科に入学したことも知った。そこは、昼夜2交替で働きながら学ぶというシステムの短大3部で、大学関連の会社で働き授業を受けて卒業まで3年かかる。彼女は親からの経済的援助を受けずに仕事しながら自活して幼稚園教諭を目指す道を選んだのであった。仕事と授業の繰り返しの毎日は厳しいものがあったことを後に知った。

 

 初めての東京での1人生活は、親戚の叔父夫婦が管理人をしている古いアパート生活で始まった。先に東京に来ていた兄も同じアパートにいた。部屋にエアコンもトイレも風呂もなく、共同のトイレと洗濯場があった。風呂は銭湯通いである。入口の戸は閉まりが悪くて隙間だらけ。机の代わりに田舎から荷物を送ったミカン箱を机代わりにして勉強をする生活はなんだか楽しかった。そして、予備校通いの受験勉強よりも好きな哲学書を読んだり、学園紛争に揺れる大学を見て回ったりして興味津々の日々だった。その当時、携帯電話はなく、部屋に電話もひけないアパートだったので、岐阜にいる彼女とは、主に夕方に、アパートの管理人室の電話と、彼女の寮の管理人室の電話の呼び出しで話を交わしていた。寮に電話すると、管理人が彼女を呼ぶ声と、電話に向かってくる足音が聞こえて来たのを今もよく覚えている。田舎の実家にいる頃とは違って電話が出来るようになり、文通をすることはなくなっていた。私が呑気に浪人生活をしていた頃、彼女は多忙な仕事に明け暮れながら、目標に向かって一生懸命に学生生活に励んでいたのである。近くの大学からは学生運動の大きなアジテーションの声がスピーカーから聞こえて来て胸躍らせたり、学生のデモの中に高校の同級生を見つけたりして驚いたり、あれこれ好きなことに夢中になっている間にあっという間に季節は過ぎていった。その翌年、私はまた医学部受験に失敗してまた浪人することになってしまった。合格を強く応援していてくれた彼女に、また暗い結果を話すことになり、どんなに彼女は悲しく思ったことだろう。私は気持ちを切り替えるため、浪人2年目の4月からは、予備校の学生課で見つけた板橋区にある個人経営の格安の2食付きの学生寮に入ることにした。

 

 そこは70人以上いると思われる大学生や予備校生などが住む変わった学生寮で、部屋は4畳弱の小部屋だった。寮に風呂はあったが、利用者が多くて混むので、歩いて20分ほどの銭湯に通った。5月頃に、寮の入口でばったり高校の同級生に出会った。何とその寮に前から入っているというので驚く。都内の大学に通っていた。高校時代は特別の友達というわけではなかったが、話をしていると気が合って、それからよく夜になると彼の部屋を訪ねて語り合うことになった。思わぬところで友人に会えて、単調な浪人生活にも少しの潤いが出来たと思う。

 初夏になり、あまり連絡をとっていなかった岐阜にいる彼女が、東京の親戚に会いに来るとの知らせがあった。それは予想もしなかった千載一遇のチャンスだった。時間がとれるなら会いたいとお互いが思ったのだろう。綿密な打ち合わせをして、新幹線で東京駅に着いたら駅で待ち合わせをすることにしていたが、東京駅などめったに行ったことがないので既に東京駅着の時間になっても待ち合わせの場所がわからなくなり、会わずに終わってしまいそうだった。これは申し訳ないと、駅の窓口の係に頼んで丸の内出口前で待っていますと放送してもらった。果たして放送を聞いているだろうか?顔もそれまで1枚の写真でしか見ていない。待つこと10分くらいして、それらしい女性がバッグを持ってやって来た。彼女もめったに東京に来たことがなくて場所がわからなかったのだ。初めまして・・・それは文通を始めてから5年目に初めて2人が会った日だった。初めてのデートは、皇居前広場の散歩。初めての女生徒のデートは二人とも初々しかったが、それまでにお互いのことはだいたいわかっていたので初めて会った気がせず、よく笑って話もできた。初めての一緒の食事は、洒落たレストランは思いつかずラーメン屋だったが楽しい時間だった。

 彼女が岐阜に帰ってからは会うことはなく、私は受験勉強に、彼女は仕事と勉学に励んであっという間に翌年になってしまった。そして、また親や彼女の期待に反して3度目の医学部不合格になってしまった。4月からは、親にこれ以上心配と負担をいつまでもかけられないと医学部をあきらめて滑り止めに受けた大学の哲学系学部に合格したので入学して通学したが、夏の頃一年奮起してもう一度医師を目指して人の役に立ちたいと思うようになり、その大学を中退して心機一転9月から気分転換に京都の予備校に通うことにした。

 

 京都は北区の上賀茂神社の近くのアパートの部屋を借りて新生活を始めた。予備校に行くには、上賀茂神社のうっそうとした背の高い木立の中を歩いてバス停に向かう。予備校からの帰りは、神社の林の中にあるベンチで昼寝をよくしたように思う。京都市内には大学が多く、街の通りを歩くと多くの大学生達とすれ違った。来年は必ず自分も大学に入るんだと密かに思いながら歩いたものであった。

 京都の秋は美しい。2度ほど彼女を京都に呼んで、お寺や公園でデートをしたことがある。

 苔寺の通称で知られる紅葉の西芳寺の境内を一緒に話しながら歩いている時、突然彼女は歩みを止めて「今、私は生きているっていう実感がする」とつぶやいたのをよく覚えている。鴨川のほとりにある京都市立植物園を訪れた時は、澄んだ秋空で、中にある公園の白やピンクのコスモスの花が綺麗だったね。そう、あの沢山のコスモスの前で撮った笑顔の彼女の写真は、それからも大事にいつも見ていた。

その秋の暮れに岐阜の短大の大学祭を訪ねたが、その日彼女は実家に急用で帰って不在だった。代わりに彼女の数人の友人が大学内を案内してくれた。初めて見る彼女が住んでいる町、初めて見る働きながら懸命に学んでいる大学のキャンパス・・・私は、涙が熱く沸いてくる思いで歩いて回った。そして、来年こその思いを胸に京都に戻ったのであった。

 

 翌年になり、彼女は難関の都立保育園の採用試験に合格して上京した。そして、私はとある大学の医学部に合格した。先に都内の保育園の職員寮に入って研修を受けていた彼女に合格の電話を入れた時、彼女はどんなに泣いて喜んでくれたことか。親にもやっと長い間の心配と苦労の恩返しが出来たと嬉しかった。そうそう、寮の同僚と合格祝いの食事会を開いてくれたね。私は女性ばかりの中で緊張してほとんどしゃべれず、申し訳ない思いをさせてしまった。

 その4月から、私は東京郊外にある学生寮に入り、毎日朝から夕方まで大学で講義を受ける生活が始まった。医学部の授業は講義や実験が月曜から土曜までぎっしりと詰まっていて、遊ぶ暇はない。寮に帰ってからも、毎日夜の2時頃まで勉強に明け暮れていた。彼女も新しい職場の仕事が始まり、2人が会うのは時折の週末くらいだったが、お互いに近くにいるのは心の安らぎだった。私はその学生寮は1年半ほどしてから出て、大学の近くのアパートに移った。医学部の6年間は長く、毎夜布団に入ると天井の板目の数をゆっくりと端から数えて、まだ2年目かと思ってため息をついたものである。その頃、ちょっとしたことで彼女が怒り、もう付き合うのをやめようとしたことがあった気がする。しかし、間もなくこちらから謝りの手紙を書いて出し、また付き合うようになった。

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