【スマホ人間】無くしてはじめて知る依存
もっというと「10年後は皆スマホ」と言ってきた同僚は上司、というか恋人だった。
社会に出て初めて付き合った、あまりに好きすぎた人だった。
その人も、狂人と化した私に恐れをなして、別れた。
その頃の私はそれでも付き合えると思っていたのだが、
何度かの別れのオファーに対し私が納得しないのをみて、最後に
「今すぐ出て行かないと、殴り殺す」
ということだったから、驚いて、もう二度と会わなかった。
いま思えば東京暮らしで唯一得た、実態のあるもの。
それが、iPhoneだった。
それから、関西iPhone生活。
7年間に5回、ハードを更新した。
多くは故障や水没による更新だったけれど、
その度に新しい機種は発売されていた。
すごい。
その進化は徐々なるものだったし、田舎出身の私が気づく頃には、その「すごいこと」のほとんどが当たり前のことになっていたから、明確には意識することはなかったが、
スマートフォンは、ばかみたいに、すごかった。
たとえば、「アドレス帳」。それまでは機種変ごとに入れ替えてもらっていたのが
iCloudによって自分で入れ替えるという形になっていた。
それは、はじめは面倒に思えたが、
ガラケーのように「連絡先を一挙に無くす」ことがなくなることを意味していた。
その後、LINEの登場で、
もはやその入れ替えの必要もないのだった。
出会う前の人生(1994-2010)
私は1984年、高知県で生まれた。
いまブレイクしている平野ノラがもっているショルダーフォン。
あれは1985年にNTTが発売した初の携帯電話だ。
つまり、私の人生の年表を作れば、携帯電話の歴史と時代的にほぼ完全に合致する。
1994年、通信各社は「買切型の携帯電話」を発売した。そのとき10歳。
この頃、世間ではポケベルの全盛期。同郷の広末涼子が連日のようにテレビCMに出ていた。
当時は、電話機はもちろんポケベルを携帯した小学生などおらず、(父は持っていた)
そのかわり私は常にテレカや10円玉を持たされていた。
小学校が終わると、公衆電話から自宅の母に電話をした。
当時、高知の公衆電話は、ボタン式ではなく、数字のついた金属板の穴を回す形だった。
電話をするとすぐ母は赤いBMWで私を迎えにきた。
亡き母は1人っ子の私に、これでもか、というほど習い事をさせていた。
ピアノや習字、スイミングに公文、などなど。
どの習い事も憂鬱だった。やらされていたのだ。水泳以外はほとんど習得できないままやめてしまったが、わずかな時間でも母に会えること、迎えにきてもらえることは嬉しいことだった。
ある時、たしか、そろばん教室のあとのことだ。
外は夏前の夕暮れ時で、空はあわ赤く、日本昔話みたいにカラスが鳴いていた。
私は母を待つことに退屈してしまい、周囲を探索してみることにした。
いつどこに行くにも車に乗せられていた私はすぐに迷ってしまった。
家のある方角だけはわかっていたのでその方向に歩きだした。
周囲に人気はなく、そうするしかなかった。
しばらくすると見覚えのある大きい通りに出てくることができた。
時間的に母は私がいなくなってすぐ、いつもの場所に到着したのだと思う。
つまりその時点で母と私はすぐ近くにいたはずである。
しかしお互いに見つけることはできない。通信手段が、ないのだ。
日頃、車で数分でいける距離はとてもとても遠く、坂はのぼるほどのびていくよう。
私は泣きべそをかきながら、30分から1時間ほどかけて家まで帰った。
当時、我が家は一軒家を新築したばかりで、二階の玄関を開けると作業中の大工さんとはちあった。
恥ずかしさと母に会えなかったかなしさで、
私は「こんにちは」すら言えずにすぐに三階の部屋にかけ上がった。
ほどなくして母が帰宅し、強がりだった私は何でもないようにふるまったが、つながらなかった心もとなさと、会えたときの安心感が混在したなんとも言えない思い出として記憶に残る。
あの頃、スマホがあれば、私と母は家ではないところで出会えていただろうか。
スマホを使いこなせない現代の子どもは、あの頃の私のように心もとない気持ちを味わっているのだろうか。あるいは、味わう機会はあるのだろうか。
何にしろ、あの日、私と母は新築の我が家で再会した。
携帯電話を与えられたのは、中学生になってから。1997年から2000年頃の話である。
その頃、私たち3人家族は事情で一軒家を売却、関西で母と二人暮らしをしていた。
父も同じ関西に来ていたが、単身赴任で週末に帰ってくるという生活。
とにかく友人とメールをすることが楽しい時期だった。
それまでの娯楽は、テレビ、ラジオ、漫画、小説などだったが
会うこと以外で「つながる」ということの喜びがあり、
同時に、「返信しなくては」とか「返信がない」ということが悩みにもなった。
1999年には 「iモード」「EZweb」など、携帯電話からのインターネット接続サービス開始される。
当時「お悩み解決館」というサイトを携帯電話でよく閲覧していた。
実際に悩みを投稿することはなかったが、自分と同じような悩みをもつ人がいることで安心し、癒された。「出会い系サイト」が出てきたのもこの頃で、登録だけして遊んでいた。自分ではない自分になれるのが楽しかった。
一気に知らない人と出会える世界が現れたのだ。
数年前までは、母と出会うことも難しかったのに。
私はどっぷりと入り浸り、母に通信会社からの高額な請求書を支払わせたりした。
そんな母は、郷里を離れたことや、携帯依存娘との二人暮らしのストレスからか、
高校を卒業してすぐの2003年。病気で亡くなってしまった。
このあと、私は大学生となり、卒業後に前述の広告会社に就職する。
2004年から2010年までの7年ほど、いわゆるガラケー生活をしていた。
この期間、私はダンスサークルに所属し、踊っていた。
とにかく踊ることしかしていないといっても過言ではない大学生活だったが
私の人生の中で最も心穏やかで充実した時間だった。
とくにスマホがないからといって不便はなかったし、連絡方法は、メールのままで十分だった。
すでにデスクトップやノート型パソコンは一般的で、持ち歩きはしないものの、インターネット社会は完成されていた。この頃に、出てきたのがmixiである。
大学生ということで、時間があるので、好きな友人と好きなだけ、興味のあることに没頭できた。
いつでもどこでも全世界と繋がることができる今よりももっと、つながりを感じながら生きていたように思う。
一緒にいた日々(2010-2016)
不本意に東京から戻ってきたあとの、2010年から2016年の11月までの約7年、
私は学習塾の教室長をやったり、
すぐに辞めてニューハーフがたくさん勤務する都会のビルの一室のBarでお酒をつくったり、
店長に殴られたり(殺されはしなかった)、
著者の小鹿田 諭和さんに人生相談を申込む
著者の小鹿田 諭和さんにメッセージを送る
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