【2001年】孫さんとの思い出(YahooBB立ち上げ) 長編

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僕の職場は「戦場」でした。


毎日毎日、朝から晩まで、社内は燃えたぎっていました。


その熱は元々一人の事業家の「情熱」から始まったものですが、現場としてはそんなに美しいものではなく、朝から晩まで全く息が休まることはなく、「混乱」「焦燥」「窮地」から滲み出る「労働者たちの”人熱”の集合」みたいなものでした。


現場は常にギリギリの戦いを強いられて疲労困憊していました。


「おい、この件、どうなってる?担当の●●はどこいった?」


「(連日の徹夜で)さすがに倒れてしまって病院いってるみたいです。携帯も繋がりません!!」


「ふむ、そうか」(しょうがない、かまってられない、進むしか無い)


みたいな会話が日常に行われていて、労働問題が叫ばれる昨今(2017年現在)ではあり得ないセカイでした。


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2000年前後、当時ソフトバンクグループは既に日本を代表するインターネット企業に上り詰めようとしている頃で、グループ社員数は数千人を越えていたと思います。それでも本社ビルはまだ日本橋箱崎町にある約20階建ての決してオシャレとは言えない昭和感な中規模オフィスビルでした。


僕は当時26歳。ソフトバンクが筆頭株主で事業推進していた衛星放送事業の立上げに携わっていました。JSKYB株式会社というソフトバンクと世界のメディア王「ルパード・マードック」が作ったジョイントベンチャー企業で、その後、ソニー、フジテレビが出資し、さらに日本の商社連合(伊藤忠、三井物産、住友商事ほか)が作ったパーフェクTVという会社と合併して、「スカイパーフェクTV」いわゆる「スカパー!」という名前で衛星放送事業を展開していた。


僕はその「スカパー」の経営企画部門で社会人2〜3年目のペーペー時代を過ごし、お台場から渋谷にオフィス移転したりしてて、比較的オシャレな場所でハードワークな若手時代を過ごしていたのですが、ソフトバンク派閥の上司から半ば拉致されるような形で、日本橋箱崎町への勤務変更を余儀なくされた。


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最寄り駅は当時の半蔵門線の終点駅である水天宮前というところで、普通の社会人が人生で降りたことがないであろう駅だった。乗り降りする人は渋谷やお台場と比べると何となく冴えないサラリーマンばかりな印象で、地下鉄から地上に登ると真上に首都高速が通っていて日陰になっていて、昼間であっても駅周辺は灰色をしていてとても暗い雰囲気だった。


その暗い駅の直ぐそばにあった、薄青色でこれまたそんなにセンスいいとは言えないオフィスビルがソフトバンク本社ビル。



「クッソ、ださいビルだなー。これまでの社会人史上最悪な場所かもなー」



新卒から西新宿の第一生命ビル、台場のフロンティアビル、渋谷のクロスタワーと当時の「イケてる風」ビルに勤務していた自分にとっては、何とも言えない雑居感。


その雑居ビルの5Fの一室が僕の新しい職場になった。ソフトバンクと光通信のジョイントベンチャー、という今考えると「ITバブル天然記念物」のようなソフトバンク子会社だった。スカパーのマーケティングを支援する会社だった。ソフトバンク、光通信ともに株式市場をブイブイ言わせている頃だった。


会社が立ち上がって半年そこらで、社員5名ぐらいだった。2つ年上の僕のスカパー時代の直属の上司が取締役COOとして会社を取り仕切っていた。


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スカパー時代、僕は20代前半で社内で最も下っ端であるため、エクセルやらパワポやら会議の議事録やらの作業が多く会社に泊まることも月イチぐらいあったのだが、この箱崎ビルになってからはそれ以上にもっとハードワークになった。


朝から晩までずっとPCの前に張り付き、しかめっ面をしながら、キーボードを叩いていた。月末月初は必ず会社に何泊かしなければならなかった。オフィスの床に寝るとダニに刺されるので、いつもダンボールを敷いて寝ていた。


あまりに忙しすぎて猫の手も借りたかったので、上司に承認を得て、前職の部下(その名を「堀内」という)を誘って入社させた。自分が抱えていた仕事の5%ぐらいを渡しただけだったが、彼は僕よりも仕事が遅かったのですぐに帰れなくなった。僕がダンボールで寝た後、となりの席で泣いていた夜もあったらしいし、多忙で血尿を出したりしていたらしい。


会社の業績は絶好調で年の経常利益が10億越えて20億に近づいていた。ドンドンくそ忙しくなるものの、社員数は30人足らずの少数精鋭だった。株式上場の準備も進めていて、自分は経営企画室のマネージャー職だったので、日常業務に加えてのまた更にハードなプロジェクトにアサインされていた。


そんな矢先だった。


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ソフトバンクグループの末端社員だったので、普段、孫社長に会うことはほとんどなかった。年1回ぐらいビルのエレベーターで見かけることが出来て、見かけたときは同僚らに「今日、エレベーターホールで生孫(ナマソン)見たわー」などと自慢していた。


創業当初はビルの5Fの一区画で10席足らずの場所で仕事をしていたが、社員数が増えると上の階の16階に移動してワンフロアを占めるほどになっていた。


一つ上の17階がソフトバンクの社長室であり、孫社長が君臨していた。一つ下の階に引っ越してから、僕の会社の上司が頻繁にその17階の社長詣でをするようになっていた。


日に日にこの「17階詣で」が多くなった。いつもは僕ら現場社員よりも早く帰っていた役員陣が疲れた表情で深夜に17階から降りてきた。最初は「会社の株式上場が迫っていたからかな?」と思っていたのだが、


「どうも濃厚な会議が行われてるっぽいな。何だろ?上場の話だけじゃないなこれ。何かグループ全体でのドデカイ新規事業っぽい」


というのを感じ取った。


「17階詣で」の社内極秘資料パワポを作る仕事も徐々に回ってきて、プロジェクトの概要が明らかになってきた。それは「ADSLという通信事業をはじめる」ということだった。


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当時のソフトバンクグループは、問屋事業、出版事業から始まって、インターネット事業(主にヤフー)、金融事業を手がけていた。僕の所属していた放送事業がその次の5番目の中核事業に位置していたが、他の主力4事業と比べて新しくて規模も小さく、グループ内ではマイノリティ事業だった。


なので当時のソフトバンクグループは通信事業については全くの素人であった。ラーメン屋さんが「冷やし中華はじめました」みたいな感覚で「ADSL通信事業はじめました」なんて出来るものではないのは明らかだ。


17階で毎晩のように会議が行われ、僕は本業の片手間でその資料作りをやっていただけだったが、いつの間にかその重要な会議に同席するハメになり、本格的にその極秘プロジェクトにアサインされてしまった。


日中は16階で本業に従事し、夜になったら17階にあがって通信事業の会議に参加する日々になった。


最初は「このADSLっていう通信規格での事業、ホントに初めて大丈夫?」みたいなのをひたすら検証するような会議だった。参加者は10人程度で、孫さん、社長室長三木さん、孫さんのブレーン2名、通信技術者の筒井さん、平宮さんと僕ら16階の放送事業幹部3名が主だった。


とりあえず技術検証をしようということで、機器購入を進めて、BBテクノロジーという新会社を作ってそこで進めようということになり、僕はその会社の名刺ももつことになった。事業準備は主に技術者の筒井さん、平宮さんが進めることになり、確か当時50代近くで僕の第一印象は「技術畑のオジサン」という感じで、スーツより作業着が似合う二人で墨田区の工場にいそうな方々だった。


二人はしょっちゅう喧嘩していた。子どもの喧嘩みたいな言い合いが多かった。口調もビジネスマンではなく、場末の大衆居酒屋のオッサン言語がメインで、筒井さんに至っては頻繁に「お子ちゃま言葉」が出てきて、第三者では理解できないものが多かった。


会議中でもよくギャーギャーやっていて、これに孫さんも加わり、まるで動物園のようで「これが一部上場企業の新規事業の会議かよ」などと驚く余裕も当時はなかった。


僕はまずこれらの技術検証を元に「本当に事業が成り立つか?」という綿密なコスト計算をエクセルでやらなければならず、その前提条件をその動物園なのか大衆居酒屋なのか分からないコミュニケーションの中から聞き出さなければならなかった。


そのオジサン方はインテリ風が大嫌いで、エクセルで計算とかも大嫌いだった。


「そんなエクセルなんか足し算やろ、計算機でやっとればええねん。そんなことよりもお前はこの佐川急便の伝票貼りをやらんかい!」

などと、何か買ってきた電子機器の返品とかをやらさたりして、遅々として仕事は進まなかった。


お二人の略歴はよく分からず、とにかく「通信技術に精通している」ということだったのだが、筒井さんの方は実は京大医学部を出て、脳外科医だったけど合わずに辞めて、脳のネットワーク設計と通信が似ているからなのか、通信分野で生計を立ててたようで大学の専任講師などをやっている、という異色の経歴過ぎて良くわからなかった。


ネットで検索すると、総務省宛に個人で激しい論調で何やら日本の通信インフラについての提言をしているようなものが見つかった。


僕との会話は赤ちゃん言葉風が多く解読不能だったので、このお二人の元で事業計画を作って上程する作業は難儀を極めた。一方で連日の会議における孫さんは日に日にヒートアップしており、「とっとと事業を進めんかい!」と業を煮やしている状態だった。


「君はじぇんじぇん分かっとらんくせに、パソコンなどパチパチ叩いておって。君はまずはこのラックのネジを締めるところから初めてくだちゃい」


深夜12時過ぎにラックのネジを締める作業をやらされた。


「君は通信の基本を少しは分からんとダメヨ。宿題で僕の書いた論文を読んでおいて」と100ページぐらいの資料を渡された。


普段赤ちゃん言葉風なのに、論文の内容は同じ人間が書いたものとは思えず、哲学者カントの本を読んだ以来の難解を極めており、難しすぎて何一つ分からなかった。


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先を急ぐ孫さんとのんびりと進めようとする筒井さんの構図が続いた。のんびりといっても不眠不休の毎日が続き、筒井さんと平宮さんが「いつも同じ服を来ていて臭う」というのが恒例になっていた。


今思うと、そもそも先を急いでいる孫さんの方が無茶であった。


孫さんは一気に日本全国でこの通信企画を進めようと思っていたが、技術者の筒井さんとしては都内の限られた地域でこっそりテストして地味に進めたい様子だった。少人数で自分の趣味の延長で研究したいという印象に思えた。事業家と研究者の乖離だったのかと思う。


孫さんはある会議でこういい始めた。


「ソフトバンクが通信をはじめるっていっても一般のお客さんは我々ソフトバンクのことなんて知らないよな。秋葉原の業者さんたちなら知ってるけど。一般の人達にしれてるブランドがないとな」


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