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17/2/17

【2001年】孫さんとの思い出(YahooBB立ち上げ) 長編

Image by Olia Gozha


僕の職場は「戦場」でした。


毎日毎日、朝から晩まで、社内は燃えたぎっていました。


その熱は元々一人の事業家の「情熱」から始まったものですが、現場としてはそんなに美しいものではなく、朝から晩まで全く息が休まることはなく、「混乱」「焦燥」「窮地」から滲み出る「労働者たちの”人熱”の集合」みたいなものでした。


現場は常にギリギリの戦いを強いられて疲労困憊していました。


「おい、この件、どうなってる?担当の●●はどこいった?」


「(連日の徹夜で)さすがに倒れてしまって病院いってるみたいです。携帯も繋がりません!!」


「ふむ、そうか」(しょうがない、かまってられない、進むしか無い)


みたいな会話が日常に行われていて、労働問題が叫ばれる昨今(2017年現在)ではあり得ないセカイでした。


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2000年前後、当時ソフトバンクグループは既に日本を代表するインターネット企業に上り詰めようとしている頃で、グループ社員数は数千人を越えていたと思います。それでも本社ビルはまだ日本橋箱崎町にある約20階建ての決してオシャレとは言えない昭和感な中規模オフィスビルでした。


僕は当時26歳。ソフトバンクが筆頭株主で事業推進していた衛星放送事業の立上げに携わっていました。JSKYB株式会社というソフトバンクと世界のメディア王「ルパード・マードック」が作ったジョイントベンチャー企業で、その後、ソニー、フジテレビが出資し、さらに日本の商社連合(伊藤忠、三井物産、住友商事ほか)が作ったパーフェクTVという会社と合併して、「スカイパーフェクTV」いわゆる「スカパー!」という名前で衛星放送事業を展開していた。


僕はその「スカパー」の経営企画部門で社会人2〜3年目のペーペー時代を過ごし、お台場から渋谷にオフィス移転したりしてて、比較的オシャレな場所でハードワークな若手時代を過ごしていたのですが、ソフトバンク派閥の上司から半ば拉致されるような形で、日本橋箱崎町への勤務変更を余儀なくされた。


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最寄り駅は当時の半蔵門線の終点駅である水天宮前というところで、普通の社会人が人生で降りたことがないであろう駅だった。乗り降りする人は渋谷やお台場と比べると何となく冴えないサラリーマンばかりな印象で、地下鉄から地上に登ると真上に首都高速が通っていて日陰になっていて、昼間であっても駅周辺は灰色をしていてとても暗い雰囲気だった。


その暗い駅の直ぐそばにあった、薄青色でこれまたそんなにセンスいいとは言えないオフィスビルがソフトバンク本社ビル。



「クッソ、ださいビルだなー。これまでの社会人史上最悪な場所かもなー」



新卒から西新宿の第一生命ビル、台場のフロンティアビル、渋谷のクロスタワーと当時の「イケてる風」ビルに勤務していた自分にとっては、何とも言えない雑居感。


その雑居ビルの5Fの一室が僕の新しい職場になった。ソフトバンクと光通信のジョイントベンチャー、という今考えると「ITバブル天然記念物」のようなソフトバンク子会社だった。スカパーのマーケティングを支援する会社だった。ソフトバンク、光通信ともに株式市場をブイブイ言わせている頃だった。


会社が立ち上がって半年そこらで、社員5名ぐらいだった。2つ年上の僕のスカパー時代の直属の上司が取締役COOとして会社を取り仕切っていた。


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スカパー時代、僕は20代前半で社内で最も下っ端であるため、エクセルやらパワポやら会議の議事録やらの作業が多く会社に泊まることも月イチぐらいあったのだが、この箱崎ビルになってからはそれ以上にもっとハードワークになった。


朝から晩までずっとPCの前に張り付き、しかめっ面をしながら、キーボードを叩いていた。月末月初は必ず会社に何泊かしなければならなかった。オフィスの床に寝るとダニに刺されるので、いつもダンボールを敷いて寝ていた。


あまりに忙しすぎて猫の手も借りたかったので、上司に承認を得て、前職の部下(その名を「堀内」という)を誘って入社させた。自分が抱えていた仕事の5%ぐらいを渡しただけだったが、彼は僕よりも仕事が遅かったのですぐに帰れなくなった。僕がダンボールで寝た後、となりの席で泣いていた夜もあったらしいし、多忙で血尿を出したりしていたらしい。


会社の業績は絶好調で年の経常利益が10億越えて20億に近づいていた。ドンドンくそ忙しくなるものの、社員数は30人足らずの少数精鋭だった。株式上場の準備も進めていて、自分は経営企画室のマネージャー職だったので、日常業務に加えてのまた更にハードなプロジェクトにアサインされていた。


そんな矢先だった。


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ソフトバンクグループの末端社員だったので、普段、孫社長に会うことはほとんどなかった。年1回ぐらいビルのエレベーターで見かけることが出来て、見かけたときは同僚らに「今日、エレベーターホールで生孫(ナマソン)見たわー」などと自慢していた。


創業当初はビルの5Fの一区画で10席足らずの場所で仕事をしていたが、社員数が増えると上の階の16階に移動してワンフロアを占めるほどになっていた。


一つ上の17階がソフトバンクの社長室であり、孫社長が君臨していた。一つ下の階に引っ越してから、僕の会社の上司が頻繁にその17階の社長詣でをするようになっていた。


日に日にこの「17階詣で」が多くなった。いつもは僕ら現場社員よりも早く帰っていた役員陣が疲れた表情で深夜に17階から降りてきた。最初は「会社の株式上場が迫っていたからかな?」と思っていたのだが、


「どうも濃厚な会議が行われてるっぽいな。何だろ?上場の話だけじゃないなこれ。何かグループ全体でのドデカイ新規事業っぽい」


というのを感じ取った。


「17階詣で」の社内極秘資料パワポを作る仕事も徐々に回ってきて、プロジェクトの概要が明らかになってきた。それは「ADSLという通信事業をはじめる」ということだった。


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当時のソフトバンクグループは、問屋事業、出版事業から始まって、インターネット事業(主にヤフー)、金融事業を手がけていた。僕の所属していた放送事業がその次の5番目の中核事業に位置していたが、他の主力4事業と比べて新しくて規模も小さく、グループ内ではマイノリティ事業だった。


なので当時のソフトバンクグループは通信事業については全くの素人であった。ラーメン屋さんが「冷やし中華はじめました」みたいな感覚で「ADSL通信事業はじめました」なんて出来るものではないのは明らかだ。


17階で毎晩のように会議が行われ、僕は本業の片手間でその資料作りをやっていただけだったが、いつの間にかその重要な会議に同席するハメになり、本格的にその極秘プロジェクトにアサインされてしまった。


日中は16階で本業に従事し、夜になったら17階にあがって通信事業の会議に参加する日々になった。


最初は「このADSLっていう通信規格での事業、ホントに初めて大丈夫?」みたいなのをひたすら検証するような会議だった。参加者は10人程度で、孫さん、社長室長三木さん、孫さんのブレーン2名、通信技術者の筒井さん、平宮さんと僕ら16階の放送事業幹部3名が主だった。


とりあえず技術検証をしようということで、機器購入を進めて、BBテクノロジーという新会社を作ってそこで進めようということになり、僕はその会社の名刺ももつことになった。事業準備は主に技術者の筒井さん、平宮さんが進めることになり、確か当時50代近くで僕の第一印象は「技術畑のオジサン」という感じで、スーツより作業着が似合う二人で墨田区の工場にいそうな方々だった。


二人はしょっちゅう喧嘩していた。子どもの喧嘩みたいな言い合いが多かった。口調もビジネスマンではなく、場末の大衆居酒屋のオッサン言語がメインで、筒井さんに至っては頻繁に「お子ちゃま言葉」が出てきて、第三者では理解できないものが多かった。


会議中でもよくギャーギャーやっていて、これに孫さんも加わり、まるで動物園のようで「これが一部上場企業の新規事業の会議かよ」などと驚く余裕も当時はなかった。


僕はまずこれらの技術検証を元に「本当に事業が成り立つか?」という綿密なコスト計算をエクセルでやらなければならず、その前提条件をその動物園なのか大衆居酒屋なのか分からないコミュニケーションの中から聞き出さなければならなかった。


そのオジサン方はインテリ風が大嫌いで、エクセルで計算とかも大嫌いだった。


「そんなエクセルなんか足し算やろ、計算機でやっとればええねん。そんなことよりもお前はこの佐川急便の伝票貼りをやらんかい!」

などと、何か買ってきた電子機器の返品とかをやらさたりして、遅々として仕事は進まなかった。


お二人の略歴はよく分からず、とにかく「通信技術に精通している」ということだったのだが、筒井さんの方は実は京大医学部を出て、脳外科医だったけど合わずに辞めて、脳のネットワーク設計と通信が似ているからなのか、通信分野で生計を立ててたようで大学の専任講師などをやっている、という異色の経歴過ぎて良くわからなかった。


ネットで検索すると、総務省宛に個人で激しい論調で何やら日本の通信インフラについての提言をしているようなものが見つかった。


僕との会話は赤ちゃん言葉風が多く解読不能だったので、このお二人の元で事業計画を作って上程する作業は難儀を極めた。一方で連日の会議における孫さんは日に日にヒートアップしており、「とっとと事業を進めんかい!」と業を煮やしている状態だった。


「君はじぇんじぇん分かっとらんくせに、パソコンなどパチパチ叩いておって。君はまずはこのラックのネジを締めるところから初めてくだちゃい」


深夜12時過ぎにラックのネジを締める作業をやらされた。


「君は通信の基本を少しは分からんとダメヨ。宿題で僕の書いた論文を読んでおいて」と100ページぐらいの資料を渡された。


普段赤ちゃん言葉風なのに、論文の内容は同じ人間が書いたものとは思えず、哲学者カントの本を読んだ以来の難解を極めており、難しすぎて何一つ分からなかった。


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先を急ぐ孫さんとのんびりと進めようとする筒井さんの構図が続いた。のんびりといっても不眠不休の毎日が続き、筒井さんと平宮さんが「いつも同じ服を来ていて臭う」というのが恒例になっていた。


今思うと、そもそも先を急いでいる孫さんの方が無茶であった。


孫さんは一気に日本全国でこの通信企画を進めようと思っていたが、技術者の筒井さんとしては都内の限られた地域でこっそりテストして地味に進めたい様子だった。少人数で自分の趣味の延長で研究したいという印象に思えた。事業家と研究者の乖離だったのかと思う。


孫さんはある会議でこういい始めた。


「ソフトバンクが通信をはじめるっていっても一般のお客さんは我々ソフトバンクのことなんて知らないよな。秋葉原の業者さんたちなら知ってるけど。一般の人達にしれてるブランドがないとな」


「あ、うちのグループでヤフーがあるじゃんか。ヤフーを使って大々的にやろう」


「ソフトバンク社内でこっそりやってる新規事業」から「本格的な新規事業」に変わっていく瞬間だった。


次の日から17階の会議にヤフーの方々が参加するようになってきた。

最初は技術面の検証ということで、ヤフーの技術責任者の方々との会議がメインだった。


そこでもまた動物園のような喧嘩会議が始まった。

筒井さん、平宮さんが表参道のインテリビルからわざわざ日本橋箱崎町のビルにいらっしゃるヤフーの技術者の方々に食って掛かるような論調を繰り広げた。


協力しあえないとそもそも進まない事業なのに、幸先の悪いスタートというか、「あ、これははじめるのは難しいだろうな」と僕は思った。会議に同席されていたヤフーの井上社長も引き気味で徐々にフェイドアウトしようという感じが見られた。


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会議に参加されるようになった、今はヤフーに在籍されているが昔から孫さんと働いていた古参ソフトバンク社員の方々が、みな口にしていたことがあった。


「孫さん、また始まったよ。まあ、途中で沈静化して落ち着くんじゃないかな」


ソフトバンクはそれまでたくさんの新規事業立上げをしており、そのほとんどを潰していたらしい。古参社員からしてみたら「ソフトバンクあるある」の一つであった。


ただ、日がたつにつれ、今回のプロジェクトはその「ソフトバンクあるある」に該当しない、異様な執着心をもっているように思えた。どう考えても実現可能性が難しいのに、それが分かれば分かるほど、前のめりな事業推進の大号令が出るようになった。


そもそも「やったことのない通信事業」なのだから、まずは小さい地域「都内の中央区近辺でトライアルをしよう」というのが普通だろう。現場としては、繋がるかどうか分からないような技術規格で進めていたし、通信に必要なインフラもよく分からず韓国製の安いものを買ってトライアルを勧めていた。


しかし、途中から孫さんが「一気に100万台やろう。もう決めたから」ということで、何の技術検証もなく、現場のささやかな抵抗を抑え、全国100万台一気に予約を取るという方針になってしまった。


毎日毎日、朝から晩までエンドレスな会議が続いた。


技術的な検証の議論から、ビジネスプランの詳細、価格はいくらにするのか、原価はいくらかかるのか、どの機材を買うのか、どのビジネスパートナーを選定するのか。


ビジネスパートナーの選定については、通信インフラ業者、コールセンター、人材業者などあらゆる業者に「大至急、明日来てください」といって箱崎のビルに呼びつけていた。


孫さんのアイデアはいつも唐突だった。


「うーん、100万台かー。家庭内に通信に必要なモデムを100万台配らんとあかんなー。モデムって家でつけるの難しいよな、おじいさんおばあさんじゃつけられないから設置部隊が必要になるな」


「100万人の設置部隊を用意しないとなー。しかも全国に。あ、パソナの南部さんのところは人を沢山登録させてるって言ってたな、やってもらおう」


当時のパソナ社とは主に一般企業へ女性の事務職を派遣するビジネスをしていた。登録者がたくさんいるといっても電気に強い技術者ではなく、ただの女性派遣社員のことである。


「パソナレディにヤフーBBのTシャツを着せて、ヤフーレディがあなたの家に訪問します、でいいじゃないか」


孫さんはその場ですぐ南部さんに電話をした。

「南部ちゃん、いい事業があるんだよ。相談したいので、明日、来てくれないかな?」


翌日、南部さんはいらっしゃらなかったものの、担当役員COO含め、パソナ社の新規事業の精鋭8人ぐらいが訪問した。その日をキッカケにパソナさんはヤフーBB事業に巻き込まれ(?)、やったことのない「個人宅へのモデム設置業務」を請け負うことになった。(のちにちょくちょく炎上)


どう考えても、派遣登録している女性に出来る業務ではなかったので、結局はゼロから求人を出し日雇いバイトを募集して、その人達に設置マニュアルを説明するみたいな立上げ方になった。その第1回のバイト募集の説明会、20名足らずだったかと思うけど、そこの会場、雑居ビルの貸し会議室みたいな場所にも孫さんはわざわざ足を運び、


「この事業は将来ものすごく大きな事業になります!」


と説明していたけど、パソコンすら触ったことのないような人たちはそもそもこのオジサン誰やねんといった感じでキョトンとしていた。(当時、孫さんの認知度はそれほど高くない)


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当初チマチマとやる新規事業の予定が、本格的にやる事業となり、億単位の投資をバンバン社長決済で決行してしまうため、今更だけど、ソフトバンクの取締役会にはかるための事業計画を作ることになった。当時、オリックスの宮内さんなど社外取締役もいらっしゃったし、承認を取らなければならない規模になっていたからだ。


僕は筒井さん平宮さんに「ラックのネジを巻きなさい」などと下っ端社員としてコキ使われつつ、ソフトバンク取締役会用の事業計画をほぼ一人でエクセルで作らなければならなかった。


事業計画の作成は難儀を極めた。何も決まってないし、何も全貌が分からない。どれぐらいコストが掛かるかもよく分からない。特に売上計画のキモとなる「価格設定」については、もう、取締役会前日に孫さんとのワンオンワン指示でエクセルをいじるような始末だった。


「ユーザーへの月額料金は2,000円を切りたい。1,980円とかにしよう」(孫)


「社長、それだとこの電気代の変動費とかが不確定な中、リスク高いです。逆ザヤになるかもしれません。モデムのレンタル代などを外出し価格にして、通信料の見栄えは2,000円以下にしても、トータルでは2,500円ぐらいにはしないと」(僕)


当時、競合の価格は月額3,000円前後だったかと思う。それを1,980円にしてインパクトを出したいところなのは分かるが、とにかく、現状の計算は雑すぎる。エクセル上ではとにかくバリバリの赤字だった。


何とか月額の料金は少しあげたものの、次は初期の設置料金である。


「100万台を無料で配ろう。設置料金も無料だ!」(孫)

「社長、その瞬間に数十億の赤字になっちゃいます」(僕)


こんなやり取りが取締役会の前夜、というか既に日付は越えてしまい、当日であったと記憶する。

そんな直前ギリギリの深夜にもかかわらず、まだやり取りは続く。


「お前、さっき月額料金の方は妥協してやったじゃんか!こっちの初期料金の方は、ワシの意見を使わんかい!!」(孫)


「。。。」(僕)


とにかく時間がなかったので、深夜2時頃になって、何となくそれっぽいエクセルにて役員会にあがったと記憶している。エクセル作ってても事業を立ち上げる実務は進まないので、深夜2時からすぐにまた別の仕事に取り掛からなければならなかった。


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当初このプロジェクトにフルコミットしてるのは技術者の2人と社長室長の三木さん含め5人足らずだったので、圧倒的に人が足りなくなった。ソフトバンクグループ内から人をかき集めることになった。


当時ソフトバンクグループは中間持株会社をもっており、「流通事業」「出版事業」「金融事業」「インターネット事業」「放送事業」の5事業があって、その各事業会社から「今度ヤフーBBって事業やるから、各社、人をよこしなさい」という号令が出た。僕はその全社イントラネット向けの文面を書かされたような、もしくは僕のメアドから「これは孫社長からの通達です」と出したような記憶もあるが定かではない。


中間持株会社の社長や人事の責任者は何のことか分からないが、「御大」に人を送り込まなければなるまい、といった心境だったのだろうか。号令により数日でまずは各社から合計20人ぐらい送り込まれた。


箱崎本社ビルにはこの人数を収容できないため、近くのもっとボロい雑居ビル(イマスビル)を急遽借りて、その20人はそこに詰め込まれた。この20人が集まった日にも孫さんはバイト説明会のときと同じように、かつてのみかん箱に乗ってのエピソードのように、


「この事業はソフトバンクの中核を担う事業である!」


と大演説をしたものの、聴衆はまたみんな借りてきた猫のように「キョトン」としていただけだった。


元々の初期メンバーも通信のツの字も知らない人ばかりだったが、このたび各社から集められた人もさらに輪をかけて、通信のことを全く知らないスーパー素人ばかりだった。


孫さんをトップとして、部門は大きく分けてオペレーション部門、技術部門、営業部門として、何となくその日のうちに素人が配属されていった。


僕は経営企画とオペレーション部門をやっていたが、経営企画のエクセルワークはもう役員会も通ったので新しい人に引き継いで、オペレーション部門の立上げに注力することになった。ついこないだまでフルタイム5人ぐらいのプロジェクトが一気に20人ぐらいに増えて、僕の下に部下と呼んでいいのか分からない、ほとんど年上で30歳〜55歳ぐらいの素人サラリーマンがアサインされた。ファンドの組成やってました、総務部長やってました、ついこないだソフトバンクに転職してきました、みたいな方々で、通信にも事業にも特に関係ない「猫の手」状態だった。


ファンドの組成やってた方たちにコールセンターの立上げやモデム設置オペレーションの管理をやってもらうことになり、そのメンバーらはその日から家に帰ることが出来なくなった。


毎日毎日状況が変わり、オフィスは深夜まで誰一人帰ることが出来ず、戦場のような状態だった。数少ない初期メンバーである僕は組織のハブ的な役割もあってか、日々あっちやこっちやに奔走することになり、やれ夜中の11時から会議だ、やれNTTの人たちに謝りに行くだ、やれ東京めたりっく通信を買収するからデューデリしろだ、毎日ジェットコースターに乗っている感じだった。


毎日2時〜3時ごろタクシーで帰宅し、土日もほぼなかった。あとは当時オフィスのwifi環境もないので、ノートPCは持ち歩くけど会議室によっては通信も入らず、会議終わって席に戻るとメールが200通ぐらいきてて、それを深夜12時から処理するみたいなものもザラだった。


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そもそも、このADSL通信事業はNTTさんの設備を借りて行う事業だった。NTTに集中していた「通信事業」を民間にも広げて競走を促す一環だった。なので、何を行うにしてもNTTさんに相談、申請をしなければならなかったのだが、元々の電電公社という体質もあってか、対応スピードが遅々としていた。(まあ、ソフトバンク側がスピード出しすぎという説もあったかもしれない)


あるとき、とうとう孫さんは頭にきて、

「こっちは本気でやろうとしてるんだ!全然分かってないんじゃないか?おい、じゃあ、今からNTT東日本とNTT西日本の社長宛にFAXを送るぞ!こっちは本気なので、大至急設備の貸出手続きをはじめてくれとFAXの文面を作れ!」と言った。「いますぐ送れ!」と言った。


ざっくり文面を作って、ネットで検索してNTT本社のFAX番号を調べ、代表印を押して孫正義名にてFAXを送った。まさに「宣戦布告のFAX」だった。


日本のトップ企業の社長宛に、テロ行為(?)のようなFAX攻撃により、NTTの現場の方からじゃんじゃん電話が入ってきて、それを受ける僕は「一人コールセンター」になってしまった。


「あー、すいません、うちの社長が送れって言ってまして、今度改めてご挨拶に伺いますので、お時間頂けますでしょうか?」と返して、結局、現場数人でNTT訪問をし、頭を下げながらお願いをしに行った。


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東京めたりっく通信については、国内で先行してADSL通信事業を行っているベンチャー企業であったが、経営的には苦戦を強いられているというウワサだった。


ある日、孫さんは日帰り出張からご機嫌よく帰ってきた。

「ウルトラC決めてきた。買収決めてきたぞ。これでノウハウもった技術者も確保出来るわ」


プロジェクトをはじめてから数ヶ月ぐらいだったかと思う。デューデリジェンス(買収先の審査)も担当させられ、経営数字のチェックや役員面談なども行ったが、もう既に社長が買うことを決めていて金額も決まってる感じなので、時間をかけずにとっとと済ませた。20億ぐらいのディールだったと記憶しているけど、ここに時間使ってられずで、早く現場に戻らないと、各地でおこっている炎上の火消しが大変で、ソッチのほうが優先順位が高かった。


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炎上はほぼ毎日起こっていた。


「顧客の家でモデムのアダプタが熱で溶けてるとの報告がありました!」


初期にまずはソフトバンクグループの社員向けのクローズドサービスをしていたときだったと思う。下手したら火事に繋がる大惨事だ。韓国の弱小(?)メーカーに発注した安物のモデムだった。


「大至急回収だ!そして業者を変えろ!」


こんな調子だった。


不眠不休の毎日が続いたため、主担当していた社員が倒れるのはザラだった。

「NTT窓口担当が倒れてしまい、通信設備設置の進捗が確認できません!」

「顧客データシステム構築の担当が倒れました。もうしばらく出社出来ない模様です!」


戦場では仲間が倒れることを気にしていたら自分も殺られる。

そんな気持ちというか、人を気にしている余裕はほとんど無かった。

毎日ユンケルを2本飲んでいた。


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現場では日々戦場で、まだまだユーザー向けに通信サービスを提供できるような状態ではなかったものの、対外的には「ソフトバンクが通信事業に本格参入!その名もヤフーBB!通信料格安!100万人初期費用無料」と大風呂敷を広げまくっていた。


しかもヤフーにて先行予約を取り始めると、サービスのインパクトもあって、ジャンジャン予約が入ってきた。

現場としては「これはヤバイ、本当にお客さんが集まってしまった」という見解も多かったかと思う。完全にルビコン川を渡った、後戻りは出来ない。


東京めたりっく通信の方々も少しずつジョインし、スタッフが40名ぐらいになった頃だろうか。ようやく先行予約者の中から一部都心部にお住まいのユーザーへのサービス開始をはじめた。


「一般顧客宅にて、通信が繋がった模様です!」


本プロジェクト始まって以来の明るい報告だった。


孫さんは物凄く上機嫌になった。

「やった!つながったぞ!ほら、みんな、やっぱりつながったぞ!」

少年のような喜び方だった。

幼稚園児が砂場で山を作って、トンネルを掘って、「ほら!つながったぞ!」って言ってるのに近かった。


「よし!今日は近くで焼肉でも行くぞ!」

30人ぐらいが水天宮前近くの焼肉屋トラジに当日集められた。


「やっとつながったぞ!今日はめでたい!みんな、今日は俺のおごりだ!!」


自分にとっては1年ぶりぐらいの焼肉だった。

ただ、メンバーと飲みながらもほとんど仕事の話ばかりで、冷静になると「早く会社に戻らないと明日からが大変だ」ってことになり、そそくさと飲み食いした後、雑居ビルに戻っていった。


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その数日後だっただろうか。


孫さんはまだとても上機嫌だった。

僕ら現場にとっては、ソフトバンクグループ内のナゾの小さなプロジェクトで「一歩進んだ」ぐらいの感覚だったけど、孫さんだけがこの「繋がった」ということの大きさを認識されていたのかと思う。その後のソフトバンクがまさかの本当に「通信事業者になる」未来が実現するための第一歩だった。


孫さんの上機嫌により僕らにも幸福がもたらされた。

その時関わっていたスタッフ、派遣社員の方も含めて、30人ぐらい会議室に呼ばれて、「お前らありがとう!ボーナスや!」と焼肉のおごりに続き、ボーナスの金一封が封筒にいれられて、孫さんからの手渡しで渡されてのだ。


日々クソ忙しくて、何となくハイテンションと意識朦朧を繰り返していたが、現金封筒をもらったときは目が覚めた。僕はまだ20代で100万円の入った封筒など手にしたことがなかったので、このまま強盗やひったくりに襲われるのではないかと危惧し、会議室を出て、すぐ走って箱崎シティエアターミナルのATMに入金しにいったのを覚えている。

(その後、孫さん個人からのご褒美かと思ったら、給与扱いということでしっかり課税されていたことに少しガッカリした。)


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焼肉プレイや現金封筒プレイなど、ソフトバンクは既にそこそこの大企業になっていたのに、孫さんは中小企業の社長並みの「現場に優しいおちゃめプレイ」を幾度となく見せてくれた。いつのまにハードワークを強いられていた僕らにとっても憎めない感情を抱かせるものだった。


「おちゃめ発言」はピリピリとした会議中でもちょくちょく使われていた。


関係者10人ぐらいでビジネスプラン、数字の精査をしているときだった。細かい数字の詰めを行い、例えば、「このサーバーの電気代とかもうちょい削減出来るんじゃないか?」「NTTの局舎に置くラックだけどもっと小さいので行けるんじゃないか、これで賃料削減できるんじゃないか?」みたいなことをやっていた。


予算を積み上げる現場としてはどうしてもバッファな数字をもっておきたいのだけど、そこをバンバンついて、ストレッチな数字を積み上げていった。すると数字は少しずついいものになってきた。そのときの孫さんの決まり文句があった。


「ほらー。俺のほうがお前らより数字強いだろ。おれ、経済学部卒なんだからな」


「おれ、経済学部卒だからな」


が決まり文句で、周囲の笑いをとった。


既にベンチャー起業家として名を馳せていたにも関わらず、今更大学のしかもカルフォルニア大学の自慢ではなく、単なる「経済学部卒」で押してくる。笑いのセンスもあった。トレンディエンジェルの「斎藤さんだぞ」みたいなものである。


また、丸一日、「業者との交渉デー」というのがあってランチタイムも弁当食いながら業者との交渉をし、1日9アポぐらいを全て同席したことがあった。すべての交渉先に「では明日までにカウンター出してください」と言っていた。


全ての交渉が終わった後、我々現場メンバーに

「お前ら、俺の交渉を丸一日タダで見れるなんて、めったにないぞ。高級なオン・ザ・ジョブ・トレーニングだぞ」

とココでも現場の我々に対して軽いウケをとっていた。


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一方で心配性な一面を見せるシーンもあった。

夜中の12時まで数字系の会議をしたあと、孫さんだけタクシーで帰宅された。その直後、秘書の方から「出先から孫社長から電話です」と取り次がれた。


僕はこのプロジェクトで会議への同席など終日顔を合わせていたものの、個別に電話で話をするのは初めてだった。


「今日の事業計画の数字だけどさ、あれで大丈夫だよな?いけるよなあれで?俺の計算あってるよな?大丈夫だよな?」


あれだけご自身で会議中ゴリ押ししていたところを念のため現場の僕にも同意を求めるような内容だった。


孫さんと個別で電話で話すことはなかったけど、秘書の方から携帯で呼び出されることはちょくちょくあった。金曜の夜中3時ぐらいに帰宅して、シャワー浴びて寝ていたら、土曜の8時ぐらいに秘書から電話があった。


「孫社長が今すぐ来てくれと言っています」


準備して雑居ビルにいくと、小さな会議室に孫さんと社長室長の三木さんともう一人しかまだ会議室にはいなかった。孫さんは土曜の朝から憤慨していて顔を真赤にしてた。


「お前ら、そんなチンタラチンタラやってたら進まんやないか!タスク管理をやっとるのか!やることはたくさんあるんだ!今からタスク1,000個書け!あるはずだ!必ずやれ!」

「俺は本気なんだ。お前ら本気でやってるのか?本気でやるんだよ、わかってるのか!」


ホワイトボードを叩き、ホワイトボードのペンやら板書消しやらを投げつけた。


毎日毎日、深夜まで働いていたが、とにかくプロジェクトが実現可能性に乏しく、無茶苦茶だったので、関わっているもの全員が


「これ、本当にやりきれんの?」


と思っていたのだろう。孫さんだけがとにかくやるきるつもりだった。「社長がやる」って言ってるので、現場はとにかくやるしかなかった。


後ほど社長室長の三木さんは

「あんなに憤慨した姿を見たのは初めてだった。これは本気だと思った」とおっしゃっていた。


その会議の後、作業に取り掛かる前に頭を冷やそうと、土曜の朝、会社の周囲を散歩した。隅田川の畔を散歩した。土曜日の早朝の隅田川はゆったりと流れていて東京都は思えない静けさを感じることが出来た。


「この橋から川に飛び降りたら、タスク1,000個やらなくていいし、楽だろうな」


と一瞬、自分が橋の上から隅田川にダイブする映像を思い浮かべたが、そんなことをしても何も解決しないと思い、そそくさとオフィスに戻って、エクセルでタスク1,000個を書くことにした。結局は300個ぐらいしかできなかったし、そもそもタスクを網羅してるヒマがなかった。


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孫さんは20代の僕とほぼ同じ時間働いているのに関わらず、尋常じゃなく毎日ハイテンションで元気だった。


僕は毎日ユンケル2本飲んでいたが、孫さんは秘書から栄養剤をもらって毎日飲んでいた。錠剤を数粒と、何かハチミツのようなプロポリスみたいなのをスポイトでよく飲んでいた。


一時期、このプロジェクトはソフトバンクを潰しかねない(実際にその後一時的には数千億の損をする)とのことで、僕の上司から「ストップ・ザ・孫」に動くぞと指示があった。「お前、このケースで孫さん止めるにはどうしたらいい?」といった僕の社会人経験史上「最高の難問」を出された。上司は「北尾さん(元ソフトバンクCFO)に止めてもらうしかないか」と言っていて、僕は「秘書に言って、あのスポイトをとりあげたらどうですか?孫さんの常人ではないパワーの源、あれですよね?絶対普通の人間じゃないですもん」とSFミステリー小説のような勘ぐりをした記憶がある。どちらも実現には至らなかった。


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プロジェクトメンバーが100人ぐらいになって、一応、通信テストも繋がって、何となく会社っぽくなってきたところで、僕はそもそもの本業に戻ることになった。


本業ではソフトバンク子会社で放送事業をやっている会社の経営企画室で、上場準備の真っ只中だったのだ。上場準備の主担当であったのに、週1の部下との進捗MTGだけになっていた。歩いて5分ほどの近くの本社ビルに戻って、一人一人の報告を聞いて、


「みんな、仕事の調子どう?上場準備どう?ま、大丈夫そうだね。ま、なんとかなるよ。こっちの仕事と比べたら、ま、そんなに無茶じゃないよ。じゃ、俺、また戦場に戻らなきゃ」


という感じで、雑居ビルの戦場に戻っていった。

半年後に何とか子会社の上場は実現できた。


一方でヤフーBBの方はオペレーション構築が全然間に合わずで、炎上を繰り返していた。僕のほぼ入れ替わりでコールセンター事業のプロである池羽さんが出向してフルコミットになったり、ヤフーから当時取締役COOでいらしたキタノさんもジョインされるなど、僕のいたチームをマネージして無茶な事業を進めていかれた。僕も身体が2つあったらヤフーBBと子会社上場の両方のプロジェクトを遂行出来たのかもしれないが、まあ途中でぶっ倒れていたと思う。


現に当時足立区綾瀬の家賃6万円のボロアパートで深夜帰宅後に過呼吸になったこともあった。息をしているのに苦しくて、窓を開けても変わらなかった。死ぬかと思った。


あまりにやることが多いのとあまりに処理が終わらなくて、「頭から煙が出る」というのを何度も体験した。


脳の血管がちぎれるような感覚も何度かあった。

「脳がちぎれるほど考えろ!」とはよく孫さんが使っている言葉だけど、僕は自発的に考えるつもりがなくても、ちぎれるほどの状態を経験した。


毎日のように、夢にも孫さんと筒井さんと平宮さんが出てきた。


スキー場のリフトに乗る夢だった。後ろを振り返ったら、3つほど後ろのリフトに孫さんと筒井さんが乗っていた。何かコチラに向かって叫んでいるようだった。


大声で呼ばれる夢を見て「ハッと」目が覚めた。睡眠時間2時間ぐらいですぐに出社しなければならなかった。


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今ではもう社会人生活20年ぐらいになるけれど、僕は仕事で怒鳴ったことはほとんどない。

けれど、1度だけ怒鳴ったのが、そういえばこの時の筒井さんに対してだった。


孫さんの「圧倒的な計画前倒し」と筒井さんの「のらりくらり赤ちゃん言葉」の間に日々振り回されていた。もうどうにもこうにも事が進まなすぎて、佐川急便の宛名書きをやりながら、高度な事業計画を詰めるという深夜のマルチタスクに頭がパンクしてしまい、


「もういい加減にしてください!こんなのやってても進まないだろうが!!もう孫社長がこの事業やるって決めっちゃってるんですよ!!ふざけないで腹くくってください!」


と怒って激しく机を叩いた。

確かその後、平宮さんが珍しく僕をなだめてくれたような記憶があるが定かではない。


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自分で15年前のこれらのデキゴトを振り返ってみると、単なる「社畜ストーリー」に見えた。


でも一方で、そもそも「戦場」では逃げられないものだし、若い頃の経験としてはまあ良かったのだろうし、何といっても、その後どんどん孫さんとソフトバンクが有名になっていくので、自分としては「一生使える社畜ネタ」になったなあと思っている。

追記参考:

2010年ごろに「Yahoo! BBブロードバンド開設の裏話」としてTwitterやりとりまとめられてたのはコチラ。

https://togetter.com/li/11738

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