日本初。男性アクセサリー販売員

西武百貨店がメチャメチャ元気だった頃の話


先輩の田中さんが渋谷の駅前のロータリーで女子大生に「ヘイ彼女!これから軽井沢までお茶にしに行かない?」という倒れそうなセリフのナンパをしていた1980年代。

「おいしい生活」などのコピーでメチャメチャ元気だった西武百貨店。

有楽町店で発信し、渋谷店で見せて、池袋店で買わせる。という東京を大きく使った戦略と有名ブランドを取り込むなどの動きで飛ぶ鳥落とす勢いだった、、、。まだLoftとか出来る数年前のお話。

僕はいうとまだ20歳過ぎの小僧で、西麻布界隈のBarなどでフラフラしながら、声かけてくれる業界の人からデザインやイラストや造形などの仕事をもらって生活していた。赤坂のジュエリー会社に勤める先輩からも指輪のデザインなどを頼まれて描いたりしていた。

ある日その先輩から電話をもらった。

渋谷西武のアクセサリー売り場の課長と会って欲しい、と。

百貨店の宝飾売り場は課税と非課税商品に売り場を分けることが多く、確か3万以下は非課税商品だったと思うんだけど、その非課税のアクセサリー類は1Fに高級な課税商品は上階で売られていた。

当時の渋谷西武百貨店の1Fは化粧品売り場と非課税商品のアクセサリー売り場に分かれていた。

そこである企画が持ち上がる。

化粧品とアクセサリー売り場とインフォメーションのある1Fはガードマン的な人しか男がいない。極たまにメーカーの営業や社員がスーツ姿で販売員のいない間だけ売り場に立つことはあったが専属でアクセサリーを売る販売員の男はいなかった。なので男を立たせて見たらどうかと、、。

呼ばれていくと課長も女性で、本当にその売り場には一人の男もいなかった。企画趣旨を説明されて最初はどうしたもんかと思ったが、販売のノルマもなく(大抵の販売員さんはノルマに苦しんでいる。)うろうろしていればいいからと言われ、日本初という言葉に魅力を感じてしまって引き受けることにした。

母親が5人兄弟の内4人が女で一番年の近い叔母が8歳しか違わないので、姉のようにして育ったというのもあって、女性の中に一人でいることにそれほど苦痛を感じることもないのだけれど、さすがに仕事で全員女性の中に入っていくのは初めてだったので前日はかなり不安だったことを覚えている。

そしていよいよ初出社の日がやってきた。

女性だけの売り場に初めて男性が入るということで売り場も女性たちにも色々と噂が飛び交っているようだと聞いていたので舐められないようにしなくては!と考えて僕がとった行動は、

初日にスカートを履いていく。

スカートといっても女性ものではなく民族衣装的なロングの足首まであるようなものだけど、その登場はインパクトがあったようで朝の挨拶での掴みはOK! 課長はさすがにびっくりしていたようだけど渋谷店店長も暖かく見守っています。という情報が課長に入ってからは特に問題はなくなったようっだった。で、翌日はその勢いで半ズボンを履いていったら課長に呼びだされて「スカートはいいけど半ズボンはちょっと、、、」と言われて注意を受けてしまった。みなさん百貨店で働くならスカートはOKだけど半ズボンはNGですから覚えておいてください。

自分にとっても初めての販売という仕事で、業務のルールがわからなかったが、周りのお姉様たちが色々と教えてくれたので何か問題になるようなことは特になかった。

初めて百貨店の1Fという売り場を近くで見て、プロの仕事に感動したことも多々あった。中でも売り場で一番の販売額を誇るNさんはすごかった。食いついた客は離さず、「この商品はお客様と出会う運命だった」とか言って確実に買わせていく数々のテクニックを持っていてセールストークを脇に立って聞き惚れたものだった。

そして最初はボケっと立っている感じだったけれど、数日いるうちになんとなく自分の役割がわかってきた。それは、

「迷っているお客に似合うと感じる方を勧める。」

今は違うかもしれないけれど、当時はまだそこまで女性が社会的に自立している時代でなかったのか、まあそもそもアクセサリーを身につけるという行為は、自分の好みもあるだろうけれど、誰かに、特に異性に見られることを意識している部分が多分にあったと思う。なので売り場に女性しかいない中でスーツも着ていない普段着の男から、「こちらの方が似合うと思いますよ。」と声をかけらると大抵そっちを買ってくれた。悩んでいないお客に声をかけて商品を勧めるまでのテクニックはないので、フラフラ売り場を徘徊しながら、迷っているお客を見つけると声をかけていた。

数週間すると全国の百貨店の担当者が噂を聞きつけて視察に来るようになった。それくらい当時のアクセサリー売り場に男性を置くというのは珍しかったという証拠だろう。今では化粧品売り場でも男性を見かけるようになったが、そう思うと保父さん含め女性の世界への男性の進出の先駆けの企画であったのかもしれない。

慣れてくると少し問題があって、休憩室も女性しかいないということ。そこはみんな素に戻って不平不満や悪口大会しながらタバコをふかすという場所で、男が一人いるだけでせっかくの発散タイムが台無しになってしまうし、こちらも女性不信にはなりたくないので休憩は一人で取っていた。百貨店の配送のバイトをしていたジュノンボーイの先輩は社食でご飯食べてると、女性社員が箸の袋に電話番号を書いて先輩のところにみんな置いて行ったという話を聞いたけど、自分には残念ながらそんなことはなかった。


売り場のお姉さまたちにいじられながら楽しい日々を過ごしていると、様子を見にきた赤坂のアクセサリー会社の先輩がみなさんに、

「こいつ姓名判断できるんですよ。」

とどうでもいい情報を残して帰っていった。

確かにその2年ほど前から先生について勉強はしていたけど、実践経験も少なくそこまで出来るというほどではなかったのだけれど、、、

その話を聞いたお姉さま達にたちまち情報が広がり、私の名前見てみてとみんな名前持って来るので暇な午前中はだいたい誰かの姓名判断をするハメに陥ってしまった。実践経験が乏しいと先ほど書いたが、そこで何十人も見させられるうちに最初はバラバラだった個々の数字の意味が繋がっていきストーリーが見えて来るから不思議。当たるという噂が広がり他の売り場の方も見なくてはならなくなった頃にはそんなに時間かけなくてもおおよそのことがわかるというくらいにまでなっていた。

そこでわかったのはバリバリに販売成績を持っていて、それなりに歳を取られている販売員さんで独身の方にはほぼ全員に縁遠いという意味の数字が出ているということ。苗字や苗字の最後の一文字と名前の最初の一文字、名前、一番上と一番下の文字をそれぞれ足した数字に20や21という数字が出ている人は要注意。

ただある時を機会に見るのをやめさせてもらった。名前で判断して、悪い数字が出てもそれをアドバイスしたとして、例えば悪い男にひっかかりやすいと出てて、それを伝えたところで、結局そういう奴のところへ絶対行っってしまう。そう人が好みなように出来ているから。未来を変えるとか何かを防ぐというまでの力は持っていないことに気がついてしまったのだ。日本にも未来を変えられる力を持った人が5人いて、そのうちの一人北海道のKさんのところに行った話はいつか書ければ、、、。ということで今は占いはやっていません。

それからはしばらく大人しく気配を消して頑張りました。あまりに気配を消しすぎて、身動きせずにじっと手のひらを見ていたら、突然おじさんに手を触られてビクッとしたら

「なんだマネキンじゃねいのか。」と人形に間違えられるほど静止して立っていたらしい。

ってマネキンだとしても普通触る?

売り場の方達とのコミュニケーションもとれそれなりにうまく回っていて、業界内でも話題になったことで別のメーカーにも男性販売員を置こうという話が持ち上がった。その青山のアクセサリー会社はアクセサリー売り場の中でも一番大きなスペースを持っている会社で、販売のスタッフも沢山いた。そこから誰か男の子紹介してもらえないかという話をもらった。周りにいっぱい友人はいるけれど販売員で女性だけの売り場でと考えるとなかなか難しく。ちょうど沖縄からずっと付いてきてしまった従兄弟を紹介することになった。今回は売り場の企画ではなくメーカーの販売として入るのでそれなりに面接とか受けて入ってくることになった。この従兄弟がまぁ色々としでかしてくれるのだが個人の名誉の為にここでは控えておく。飲み会で語ります。

暇な時は2Fに上がる階段の踊り場でブレイクダンスの練習をして怒られたりしながらそれでも日々は過ぎていく。1年後くらいだったか正確に覚えていないけれど、青山で古着屋を始めたりして忙しくなってきたのと従兄弟もそれなりに頑張っていたので、そろそろやめさせてもらおうと考えていた矢先に部長に呼び出された。西武百貨店の裏のビルに連れて行かれるとそこはLoftのOPEN準備室だった。渋谷西武の裏に当時(今もか?)人気のあった東急ハンズに対抗して西武もDIY的な要素を持ったLoftをオープンする準備をしていた。ハンズよりもエッジの効いたアプローチでDIYを提案するコンセプトの店で、自分でアクセサリーを作る人に作り方や素材に関するお手伝いするアクセサリーアドバイザーを依頼されたのだ。Loft一号店ということで新しい試みを試そうという中の一つがアドバイザースタッフで僕以外にもメッキ系や電気系木工系などのアドバイザーが集めらて一つのコーナーを作るという企画だった。

今も変わらず初めてとかOPENという言葉に弱くてすぐに引き受けてしまったので1Fから準備室に移動となってOPENの準備に取り掛かった。研修などを経ていよいよOPEN日、あ、ということは私西武百貨店の社員だったんだ。職歴に書いたことなかった、社員か、社会保険とかどうなってたんだろう。

それは置いておいてLoftのOPEN1号店ということと西武の勢いと渋谷の勢いで大盛況!ものすごい人がやってきた。こちらもよし!と気合を入れて木工アドバイザーのおじいさんと臨戦態勢で待ち構える。

だがそのコーナーは暇。本当に暇。1日に客一人か二人。

オシャレと雰囲気でLoftにやってくるお客と、自分で材料買ってなんか作ろうという客は全然違った。

材料買って自分で作ろうという客はみんなハンズに行くのだ。当時はハンズもまだ無骨な感じでアクセサリーとかそういったものの素材はそこまで充実していなかったけれど、西武系に素材を買いに行くというイメージが湧かなかったのだろうと思う。できあがった新しいものを提案してほしいというニーズの方が強く、レコメンドしてほしいニーズに合致してwaveはタワレコにない客を開拓して成功、seed館はよりとんがった客にアプローチしていってその位置を確定していった。Loftは?Loftのニーズは自分でプレゼントをオリジナルでラッピングしたいとかクリスマスやpartyの装飾を自分で工夫したいというお客にあっていたように思う。自分で木材切って家具つくったり、素材集めてアクセサリー作ったりというところまで一般ユーザーが手を出して車にはまだ20年ほど時間が必要だったのだ。

友人が遊びにくると休憩に出てお茶したり、エスパー清田くんが来店したので「友達になりたい。」とテレパシーを送ったが無視されたりとか、おおよそ仕事してる感じがなく、お互い暇どうしでメッキのアドバザイザーさんにメッキを教えてもらって家の鍵を金メッキしたりしていた職場は案の定半年くらいで縮小されてなくなった。

アクセサリー売り場に戻るかという話もあったが、丁重にお断りしてキラー通りで始めた1坪の古着屋に力を入れることにした。DCブームの全盛期から終わりかけ?の時期でしかも一坪しかないので大した量は置けない。もともと知り合いの印刷屋が借りていたスペースを名刺の受付もするという条件でタダで使わせてもらったスペース。看板も何もない(現在は自販機が並んでる。)ベイリーストックマンのお隣の好立地な場所で、一番薄いところで5cmしかない薄い店。富士通の88を横向きに置くのが精一杯なスペース。客が来ない時は88で雑誌の原稿を打ち込むアルバイトをしながらそこらで集めた洋服を吊るして売っていた。それが結構売れた。不思議と売れた。セールの時期になるとキラー通りのDC shopもセールをするのだけれど最終日の閉店間際になると残ったジャケットを1000円とか500円で売り始める廃棄や倉庫代の方が費用がかかるという計算らしい。そうなる時間帯を見計らってそこらへんのShopの残り物を1000円500円で買い集め、次の日には自分の店に並べる。3000円とか5000円で飛ぶように売れた。年がら年中セールがあるわけではないのでその時期に限るけれど、これは中々良い商売だった。アルバイトで打ち込んだ原稿の一つが中森明夫さんの原稿で、その面白さに感動して、そのあと出版業界の手伝いをすることに、、はならずにレピッシュのデビューアルバムのジャケットイラストを描かせてもらって音楽業界の手伝いをすることになり、その後ホテルをやることになる少し前のお話。



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