「ある日突然」が多いなー。

父が、暴走した

ある日、母から激怒電話きた。「女の子なのに、父に相談あるからと、父を呼び出すとは、何なのー?!」と。私に会いに、地元から飛行機で来たらしい。

ハテナだらけの私。地元に戻った父には、しばらく連絡してない。

母に、全く知らない話と、話した後、すぐさま父に激怒電話した。

「なんか1人で、旅行来たくて」と。あっさり言う父。娘の私が、ダシに使われた(笑)

後日、分かったが、単身赴任時に出来た浮気相手に会いに来ていたらしい。

その何日か後には、地元に戻った父。

だけど、その件から、開き直り、一カ月後、地元から、父が夜逃げしてきた。母と兄弟に、借金を押し付けたまま。

父は、自己破産したけど、保証人の母と兄弟は、支払い続けるしかなかった。

呆れた私は、同じ土地に来た父に連絡取る気には、ならなかった。

1人きままに、地元を離れた父は、浮気相手と過ごし、複数の女性に、バックやら時計やら、プレゼントしてたらしい。

父の会社の人に会う機会があり、ある程度の給料をもらい、そのお金は、飲み代や、女性に消えてた話を聞いてしまった。

地元で、多額な借金を父の代わりに返してる母達には、一円も仕送りせず。

別居してるけど、母とは、まだ離婚してないのに。

「母達に、仕送りして」と、私も父にお願いしたが、聞く耳持たず。

呆れすぎた。父は、他人だと思い込みたくて、連絡とらなかった。

そして、私が、28歳の時。

私の結婚が決まった。色々あった父だけど、たった1人の父。バージンロードを歩きたくて、招待した。

結婚式準備で、大変な時に、婚約者と同棲してるアパートに、父が突然現れた。

「お金貸して」と。これから、結婚式する娘に、堂々と借りにきた。

父が、お金にだらしない事を知っていた婚約者が、「借用書を書いてくれたら、貸しますよ。」と言ったら、父は、「義父に借用書とは、なんだ!」と激怒して、帰った。

それが尾をひき、父は、結婚式をドタキャンした。同じ土地に居て、元気だったのに…。

バージンロードは、旦那さんと歩いた。披露宴は、父の席が、ポツンと空いていた。

特殊な意味でも、幸せな意味でも、想い出の結婚式になった…。父とも疎遠になった。


その後くらいから、今度は、母が暴走し始めた。

長年、母と私は、ケンカが多かった。娘のお願いを聞いてくれない!と、本心は、寂しかったから、ケンカになってしまっていた。

振り返ると、母は、「アルコール依存症」の病気だったと思う。小学生時代から、家では、常に酒臭い母が、苦手だった。

お酒飲んで、トイレで、寝てたり。お酒飲んでお風呂入り、寝てたり。突然、泣き出したり。妄想の誰かと話し出したり。

お酒飲まない時の母は、少しおっちょこちょいで、可愛いらしくて、好きだった。お酒さえ飲まなければ…。と、「飲まないで!」と、何十回もお願いしたが、無理だった。

病気と、気づける私だったら、病院に連れて行けたかもしれないのに。気づけなくて、ごめんね。お母ちゃん。

母とも、ギクシャクが続いていた29歳の時。

初めての赤ちゃんを授かった。

だけど、母の状況から、里帰り出産は、選ばなかった。でも、母と仲良しになりたくて、お酒を飲まない日にして欲しい約束して、出産時に、お手伝いしに来てもらった。出産前は、一緒に料理したり、少し距離が縮まった。

と思った。

その後、地元に戻った母は、生後2カ月の赤ちゃんと悪戦苦闘してる娘(私)に、深夜に電話かけるようになった。深夜、2時、3時に。

地元で、誰かに何かあったか?と、緊急と思い、電話に出ると、「お父さんの女て…」と、グチグチ。

緊急と思い、泣き虫な赤ちゃんを置いて、布団から出て来たのに、愚痴電話?

イライラして、こちらから電話切った。たまたま切れたと思った母は、また深夜に関わらず、愚痴電話かけてくる。また切る。の繰り返し。

父と別居してるし、寂しいの分かるから、「愚痴なら昼に電話して欲しい」と、母にお願いした。

「分かったよ」と言う母。

後日、そんな約束を忘れ、また深夜2時、3時に愚痴電話してくる母。

深夜の電話に、疑いながらも、緊急かも?と、布団から出てくると、愚痴…。

限界だった。それ以降、深夜の電話は、取らない事にして、日中でも、こちらからの連絡を絶つようになった。

母親を経験した事ある人なのに、なぜ?と、理解出来なかった。

小学生時のイジメ、社会人時の友達の裏切りもあり、トラウマで、友達と言える人が居なかったから、育児本と、助産師さんだけが、頼りな育児生活をしてたから、母の深夜電話を受け入れる余裕は、なかった。

これで、両親共に、連絡途絶えた生活を送っていた。

私の生きる場所は、旦那さんと子供との、この家庭しかない!と思った。

育児には、手こずったけど、2人目にも恵まれ、平穏な家族を過ごせてた。

ところが、

私が、30歳の時。また父が、私の人生に悩みを持ってきた。

父の知り合いから、「父が、胃がんの手術したんだけど、退院後の食事が大変だから、見に行ってあげて」と。

色々あったから、悩んだけど、病気になった家族を放っておけない、と、アパートに向かった。

そこには、例の浮気相手が居た!

だから手土産を渡して、すぐ帰った。

病気だと知りながらも、また父とは、連絡を絶った。

浮気相手とは仲良くやっていーよ!と、投げやりに思った。

それから、5年後、予想もしない電話が来た。

「母が亡くなった」と、兄からの電話。一人暮らしの母は、孤独死してしまった。地元に、兄夫婦、弟は、居たが、たまたま母を訪問出来なかった日に、亡くなってしまった…。64歳だった、

私の意地もあり、最後に電話したのは、3年前。最後に会ったのは、6年前という状況での、訃報電話。全く信じられなかった。

でも、現実だった。親不孝すぎる私の行動に、すごく後悔した。深夜の電話なんて、許してあげれば良かった。もっと沢山、仲良く買い物行きたかった。

あんなに母のお酒飲む姿が、大嫌いだったのに、スーパーのお酒コーナーで、涙どんどん出てくる。仲良し親子見ると、泣けてくる。

お母ちゃん、全部、全部、ごめんね。

父にも、連絡した。久々に話した内容が、母の死を伝えるなんて、辛すぎる。

だけど、父は、「そう」だけだった。ショックだから?

結局は、兄弟、親戚に顔向け出来ないからか?自分の病気があるからか?葬儀は、欠席。

父を、とことん嫌になった。葬儀に来ないって…。

そんなモヤモヤした月日が過ぎ、母の死から5カ月絶ったある日。

病院から深夜に電話きた。「父が、危篤で、今夜が山」と。複雑な気持ちもあり、深夜だし、行かなかった。

が、やはり父。翌日、病院に行ったら、浮気相手と、その娘。その娘の子供が居た。まるで、夫婦と娘。その孫がいる雰囲気。

嫌な気分だったけど、最期かもしれないし、父と二人にしてもらった。もう会話出来ず、うなずくだけの父。

病室出る前に、浮気相手が、「あなたのお父さんが、お母さんの葬儀の時に、離れた場所なのに、線香の匂いした、と、悲しんでた」と。

今の父は、一点を見つめて、「うー、うー、」話してたから、「もしかして、お母ちゃんいるの?」と話しかけたら、大きくうなずいた。

「お母ちゃんに、ごめんね。と伝えてほしい」と、とっさに行ったら、父は、うなずいた。

そして、息を引き取った。65歳だった。

立て続けの不幸に、悲しみばかりの日々だった。だけど、育児しながら、それを支えに、悲しみを隅に置いて生活してた。

とある夜、

母の遺品の靴下履いて、テレビ見てたら、なんか気配が。直感で、母と思った。

次の日、それは、確信になった。

「昨日、祖母が亡くなった」と、兄から電話きた。

昨日、母が、知らせにきてくれたみたい。

立て続けに、亡くなった。私達兄弟は、寂しがりやの母が、皆んなを連れて行ったと思っている。

天国で、今は、寂しくないよね?お母ちゃん!


5年経った今も、悲しみは、なくならない。

だけど、今築いてる新しい家族を大切にしていき、幸せになることが、親孝行かな?と、自分なりに考えて、前向きに生きていきます!



















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