バトンタッチ

※某老人施設に入院している老人、慰問にきた老婆が年上にあるのに感動し、老人が自分にできることを、地区の子どもたちに伝統芸能を受け継いでいくのである。そこで老人の生きがいを感じる。

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 今日は花咲きセンターに入所しているお年寄りたちにとっては、待ちにまった月一回の芸能大会であった。

 午後一時のチャイムの合図で、各部屋のお年寄りたちが大ホールに集まってきていた。一人で歩ける者もいれば、車椅子に乗せてもらっている人もいた。岡田利允は今のところ介護の手を借りずに一人で歩ける。岡田のことを本名で呼ぶ者はいない。センターの人たちは「岡さん、岡さん」と気さくに呼んでいた。

 月一回の芸能大会の日には、カラオケのグループがやってくることもあれば、皿回しの名人もくる。また幼稚園の園児たちが歌ったり踊ったりしてくれることもある。

 今日、予定されているのは、地元の幼稚園のの子どもたちの歌と踊りと、日本舞踊をやっている橘会のメンバーたちであった。昔懐かしい童謡も踊ることもあれば、義理と人情を織り交ぜた舞踊劇もあった。

 トップバッターは派手な花柄の着物をつけた女性が、蛇の目傘をくるくる回しながら、舞台の上を所狭しと舞い始めた。岡さんは最前列を陣取って見ていた。

「ヨッ!。千両役者!」とヤジが飛ぶ。踊りが終わった。拍手が鳴りやまない。

 二番手は橘会の代表である橘小百合であった。岡さんはバナナを半分ほど食べかけたまま、舞台の上で踊っている代表の黒田節に目を奪われていた。

 次は三歳ぐらいの可愛い女の子の番である。おかっぱ頭に花のリボンをつけ、別れても好きな人の曲に合わせて踊っていた。舞台の袖で母親らしい人が見守っている。お年寄りの中には涙を溜めている者もいた。

 中入れの後は舞踊劇であった。継母からいじめられる子がいると「悪い方は、実の子の方だ」と本気になって怒る人がいた。中には舞台に上がっていき、いじめられている子どもを宥める者もいた。それを見て、また涙を流す人もいる。

「今日は、これくらいにします。また呼んで戴ければ、いつでもやってきますので、それまで、みなさん元気で、また会いましょう」と橘会の代表の方から挨拶がなされた。

 岡さんが部屋へ戻りかけると、ホールの出口に橘会のメンバーが並んで握手を交わしていた。岡さんも気恥ずかしかったが、避けて通るわけにもいかず一人、一人握手をしながら出てきた。最後に握手したのは橘会の代表であった。

「岡さんは、いくつになられますか?」と代表から岡さんは手を握られたまま聞かれた。岡さんの年齢は大正十年の十二月二十五日だから、当年とって八十歳であった。体の方はいたって健康で、強いて探せば、血圧が少し高い程度であった。

「わしの歳かい。八十になったばかりじゃら」と岡さんはぶっきらぼうに答えた。

「へえ、そうですか。私より一回り若かったのですねえ」と代表の女性は顔をほころばせながら、声を弾ませて言った。

「ええ、そりゃ本当かい?」と岡さんは素っ頓狂な声を上げた後「そりゃ失礼しました」と丁重に頭を下げた。

 岡さんは自分の部屋に戻ったとたん、もし、それが本当なら、代表の歳は九十歳ということになる。本人がいうことだから嘘をつくはずはない。ということは、自分の方が年下である。そうなると、岡さんは自分よりも年上の人から慰問されていたことになる。これは、まったく逆ではないか。岡さんはショックが大きかった。

 これまで、岡さんは悲劇の主人公のように思い込み、何をするにも投げやりで、しかもマイナス的な考えしかできなかった自分が、いかに甘えていたかということを、今日ほど思い知らされたことはなかった。

 岡さんは体が不自由ならいざ知らず、いくら何でもこうした受け身的な生活ではいけない。それでは、自分に何ができるのかと、岡さんの中で自問自答が続いた。自分には何の特技もないし、これといって自慢できることもない。

 待てよ、ボランティァーにやってくる人たちのように、上手にやろうと思うからできないだけではないだろうか。これまでやってきたことなら、岡さん自身にも何かあるはずだ。

 早速、岡さんは自分にできる身の回りのものを拾い上げてみた。歌や踊りは苦手だが、百姓仕事だったら田植えでも、稲刈りでも、かけ干しでもできないことはない。

 ああそうだ。岡さんは忘れていたけど、三百年続いた郷土の伝統芸能である白熊(はぐま)なら、歌もできるし、練り方だってやれる。岡さんは自慢ではないが白熊を練るのにかけては、この村の中では自分の右に出る者はいないと自負していた。

                                    ※

「所長さん、ちょっといいかなあ」と岡さんは自分から所長室に出向いていって相談をもちかけた。

「何だろうか?」と所長さんは言いながら椅子から立ってきた。

「一度、わしの白熊の練るのを見てくれんかい」

 所長さんは急に白熊の話を持ち出されたものだから、さほど小さくもない目を見開いてくるくるさせていた。

「また、急にどうしたのですか?」と所長さんから聞かれた。

「わしの白熊でよければ村の子どもたちに教えてやってもいいけどなあ」と岡さんは遠慮がちに言って、ここへ至るまでの経緯を事細かく説明した。

「岡さんの白熊の上手なのは聞いています。もう見なくていいから、ぜひやって下さい。できるだけのことは応援しますから」と所長さんからその場で快い返事がもらえた。

 岡さんの白熊の発案をきっかけに、所長さんはこれまでやってきていたボランティァーを断り『一人が一つ、私にできるご恩返しを!』と機運が花咲きセンターの中で展開されることになった。これまでのように、周りから援助の手を差し伸べてもらうだけでなく、こちらから地域に積極的に参加する形式をとることになった。

 これまでやってきた、月一回の慰問の日を、地域の人たちと合同でやる友好祭に模様替えした。これまでの歌や踊りだけではない観たり聞いたりするだけでなく、センターに庭師がいれば地域の人に剪定の講習会を開いたり、漬け物の名人がいれば、そのやり方を伝授して、地域の人たちと交流を深めることにした。

 岡さんのように白熊を地域の子どもたちに教えたり、わら草履や竹馬の作り方を教える者もいた。その中でも大工や左官をやっていた人たちなんか、周りの人たちから引っ張りだこだった。岡さんはもう引っ込みはつかない。自分から言い出したことである。何があろうと、やるしかなかった。所長さんの紹介で、地元の小学校の生徒を、毎週土曜日の午前中に二時間、白熊の歌と練り方の指導をすることになった。

 学校側から数年前から毎週、土・日が休みになったために、ぜひ郷土の伝統芸能である白熊を、子どもたちに指導してほしいとの強い要望があった。岡さんはもともと無口な方であったが、奥さんに先立たれてから、センターへ入所するまで自分の部屋に閉じこもったまま、ほとんど出歩くことはなかった。

 慣れとは恐ろしいものだ。最初は退屈だったが、ものの何日もしない内にどっぷりこの生活に浸かっていた。ところが、ふっと気がついてみると、のんべんだらりとした、その日が経てばいいという、一歩ひいた生き方に満足していたところがあった。

                                    ※

 話が決まると、早速、岡さんは子どもたちを集めてもらい、白熊の練習に取りかかった。岡さんは自分の体で覚えていることは、子どもたちにすべて教えてやろうと意気込んでいた。

「それじゃ、歌から入るとするかなあ」と岡さんが方言丸出しで喋り出した。子どもたちはきょとっとして聞いていた。岡さんは白熊で最初に歌う歌詞を読み上げ、それに節をつけて唄った。

 御拝殿より練り出す白熊

これは当社のおたて道具

ハリャー、ヨイー、ヨイー

「おじちゃん、白熊というのは何ですか?」と一人の子どもが質問してきた。岡さんは首を傾げながら考えた末に、こう答えました。

「難しいこっは分からんが神様にお願いする歌のこっちゃら」と岡さんは思いつくままに説明した。ただ、岡さんが子どもの時分に聞いたことは「農作物の豊作と家内安全を御祈念した祭りだ」としか知らない。

「それじゃ、最初にわしの歌に合わせて唄っておくれ」と岡さんは身振り手振りで子どもたちに教えていた。人に教えることなど岡さんにとってみたら初めてであった。

「簡単に引き受けたが、人に教えるより百姓仕事の方が楽でいい。しなれんこっをすると肩が凝るなあ」と岡さんはぼやきながら首を回したり、肩を回したりしていた。

 子どもたちは最初はもの珍しさもあって、小学校四年生から六年生まで二十三名いた内の一人が病気でこれなかっただけであった。

 ところが、回を重ねていくにつれ一人減り、二人減り、白熊の練習を始めて二ヶ月足らずで半数近くなっていた。岡さんは人数には関係なかった。一人でもやる者がいたら続けるつもりだった。子どもたちの中には岡さんのことを「白熊の先生」と呼ぶ者もいた。岡さんは先生などと呼ばれてもピーンとこなかった。

「今日も、壮大君は休んだかい」

 壮大君というのは小学校五年生になる男の子であった。親は学校の教師をしていて、見るからに頭も賢そうだったし、練習熱心な子であった。岡さんが楽しみにしていた子どもの一人である。その壮大君が前の週と今回と続けて休んだのである。親の連絡では「家庭の事情で休ませます」という理由だけであった。

 一度休めば、覚えるのに倍時間がかかる。壮大君が病気ならば仕方がないと岡さんは思っていたが、他の子どもたちの噂によると塾通いをし出したらしい。

 例年十一月の闇夜の晩に白熊の祭りが催されることなっている。後三月足らずである。ぜひ、それまでに子どもたちに一通り覚えさせ、祭りに参加させようと岡さんははりきっていただけに、壮大君のクラスの担任に相談した。

「もうしばらく待ってくれませんか。私の方から話してみますから」と担任から返ってきた。岡さんの頭を嫌な予感が過ぎった。

「先生、何かわしに隠しているこっがあるんじゃねんかい?」と岡さんは担任に詰め寄った。

「いや、別に・・・」と担任は言葉を濁した。岡さんは担任の心が読めないで白熊ができるわけはない。この白熊には村人たちの祈りが凝縮されているのであった。

 ある年は旱魃で稲が実らないこともあっただろうし、またある年は、台風の被害で農作物が壊滅状態に陥ったこともあったに違いない。すると、多くの家族を抱えた家では、人減らしのために子どもを身売りした悲しい歴史が込められている。また、疫病でも流行ろうものなら、今みたいに医療が進んでいないし、病院は少ない。もしあったとしても、生活は貧窮していたために、薬代が払えずに幼い子を亡くした親もいた。

 岡さんは村の先輩たちから「白熊はちょっと練習すればだれでもやれるが、人前でやれるようになるには、村人たちの気持ちが分からんと一人前の白熊師とはいえ」と机の上では学べない貴重な体験を、村の先輩から知らされることが多かった。

「先生、あんたの気持ちは分からんこっはねえ。壮大君の親とわしとの板挟みで、本当のこっが言えんのじゃろう」と岡さんは平静を装っていながら、言葉の端々にやるせない気持ちが滲み出ていた。

「せっかく好意でやってくれているのに・・・」とクラス担任が言いかけて止めた。壮大君の欠席の理由は、これから国際化時代に入るので、小学校の時から英語を習わせておきたいというのが親の考えであったらしい。

 そのことは壮大君ところの親だけではなかった。これまで白熊の練習にきていた子どもたちが辞めていった理由も、これに似たようなものであった。

「まあ、考えてみると、白熊なんかやったって、一銭の得にもなるわけじゃねえからなあ」と岡さんは心にもないことを口にした。

「私にはよく分からんが、子どもに賭ける夢があるのでしょうねえ」と担任から曖昧な返事が返ってきた。

「わしゃ難しいこっは分からん。わしにできるこっといったら白熊しかねえ。勉強も運動も大事かもしれんが、白熊を守るというこっも大事なこっちゃねえかなあ」と岡さんにしては珍しく興奮していた。

「その通りだと思いますので、保護者の方ともう一度相談してみます」と担任は自分が悪いことでもしたように頭を下げていた。

「先生、あんたがそういうてくれるのは嬉しいが、その必要はねえ。好きでもないのにやっても長続きせん」と岡さんはきっぱり断った。

「まあ、それはそうですが・・・」

「ただ、こんなに物が豊かな時ほど、逆に心が貧しいもんなあ。そういっちゃ何じゃけど、物や金では買えんもんがあると思うけどなあ」と岡さんも今でこそ、口幅ったいことが言えるが、白熊を始めた頃は何が伝統芸能だ。ただ、村の先輩たちは白熊を口実に酒を飲んで、馬鹿騒ぎしているだけでないかと不満だらけであった。

 尋常小学校を卒業した年から、岡さんは白熊にかかわってきてから、戦争にいっていた五年を差し引いても六十年にはなる。毎晩のように仕事が終わってから、村の先輩たちが集会所に集まって練習していた。

 村人の間では、白熊の歌五年、練り方十年といわれていた。岡さんは自分みたいに覚えが悪かったら、人の倍も練習をしなくてはならないと心に決めていた。

                                    ※

 祭りの当日まで、残すところ一ケ月を切った。岡さんは気が焦るが上達しない。欠点ばかりが目につく。練習の時間が短い。とうてい無理だ。これでは恥をさらすようなものである。

「もう一回」と、つい岡さんは感情が入り過ぎると、声が荒くなる。子どもたちは顔を真っ赤にして白熊を練っていた。

「しょうがねえなあ。白熊を上に上げる時と同じで、下に下げる時も一ひねりするんじゃら」と白熊の練習に熱が入り出すと、岡さんの棘のある声が多くなる。一旦、練習に入ると子どもたちの間から、無駄口一つ聞かれない。目の色が違ってくる。

「よっしゃ、今日はできるまで、やめんからなあ」

「はい、分かりました」と子どもたちから元気な声が返ってくる。

「何回、言うたら分かるんかい」と岡さんは手が上がりかけたが、急いで引っ込めた。

「はい、すみません。もう一度お願いします」

「最初からやり直しだ」と練習場に使っていた白熊神社の境内に、岡さんのゲキと子どもたちの甲高い声とがぶっかり合う。

「あら、壮大君じゃねえの。いつきたんかい?」と同級生の一人が言うなり駆け寄っていった。

「・・・」と壮大君は黙ったまま岡さんの顔をちらっと見て目を伏せた。

「おお、ようきたなあ」と岡さんは言いながら年甲斐もなく照れた。

「すみません」と壮大君は一言口にするなり、頭をちょこっと下げた。

「今日は塾にいかんでもいいんかい?」と岡さんは聞いてみた。

「お母さんが、僕の好きなようにしてもいいと言ってくれたから、白熊の練習にきた」

「そうか、そうか」と岡さんは言いながら壮大君の頭を撫でてやった。

「さあ、それじゃ、最後の仕上げに入るで」と岡さんは言って白熊を手にした。手遊びしていた子どもたちも、その場に投げ出して立ち上がった。岡さんは白熊を唄いながら練り歩く。それに合わせて子どもたちがついてくる。壮大君が一人増えただけであったが、子どもたちの間に活気が戻ってきた。

「もし、これでよくできたら、止めるぞう」と岡さんは声をかけ気を引き締めた。気を集中させておかないと声がはずれる。練り方が合わない。一人が乱れると、全体が壊れる。

「よっしゃ、この調子だといいぞ」と岡さんはそう言ってにんまりしていた。

「この、呼吸の合わせ方を忘れるな」と岡さんの口から弾んだ声が漏れきた。ここへきて、やっと歌と練り方との息がぴたっと合った。

「今日は、これまでじゃ」と岡さんがいったとたん、子どもたちの顔に笑みが浮かんだ。

 岡さんは練習の成果よりも、みんなが顔を合わせることの方が嬉しかった。いくら熱心な者が一人二人いても、郷土芸能というものは続かない。村の者が一丸になって、やってきたからこれまで続いてきたのである。

                                    ※

 いよいよ本番である。岡さんは朝から何度となくトイレに立っていた。子どもたちは白装束の揃いの衣装を身につけていると、凛としたたくましさを感じた。

「今までやった通りにすればいいんじゃからなあ」と岡さんが本番開始の前に声をかけた。

「今朝から、何回も聞いたわ」と壮大君がぼそっと言った。岡さんはニタッと笑ってその場をかわした。

「じゃいいなあ」と岡さんが一声かけると、子どもたちは一斉に頷いた。岡さんが先頭に立ち、その後に子どもたちが続いた。カメラのフラッシュがたかれる。テレビのカメラが子どもたちの後を追いかけてくる。岡さんもついテレビカメラを意識すると、白熊を握っている手が固くなる。壮大君のお母さんもつききりでビデオを撮っていた。

「壮大君、こっち」とお母さんが声をかけるが、本人は恥ずかしいらしく視線を避け放していた。

「こうやって、郷土芸能である白熊を、大人たちから子どもたちへ順にバトンタッチしてくれると助かるけどなあ」と白熊を守る会の会長が、テレビのインタビューに答えていたのが、岡さんの耳に飛び込んできた。

「バトンタッチとはいい言葉だなあ」と岡さんは思いながら何度となく口にしてみた。そうかそうか。この子たちがバトンタッチしてくれたお陰で、後六、七十年は大丈夫だなあと岡さんは思ったとたん白熊を練っていた手が止まった。

「先生!」と後に続いていた壮大君から声がかかったところで岡さんは我に返るなり、白熊を大きく天に向けて突き上げた。白熊の歌と練り方が一つになった。子どもたちの一点の曇りのない緊張した顔が、周りの聴衆の拍手を誘った。

 岡さんの額の皺の間から笑みがこぼれていた。

              


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