野の家

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※離婚して知恵の遅れた子どもを連れて実家へ帰る。自分として田舎を嫌って出て行くが、夫の浮気で仕方なく田舎に帰って実家の牛飼いを始める。牛飼いをするためには、春先に野焼きをしなくてはならない。その作業に母親の代わりに、共同作業に出る。村の人たちは知恵遅れの子どもに遠回しから理由を聞く。子どもはありのままに答える。野焼きを通して、野焼きの手順、田舎の人間模様、風習等を描いみた。特に田舎で生活した野山は、離婚した理由は一言も聞かないまま受け入れてくれる。やっと心が慰められる。牛飼いの苦労、限界集落になっていく様子など、織り交ぜて最後は、知恵の遅れた子どもが最後に、野焼きをしていた危険を防ぐのである。祖父は「お前の言うとおりだ」と、久方ぶりに笑いが戻るのである

           

        【一】


 ヒサズミ牧場をすっぽり覆っていた厚い雲がわずかながら動いている。春分の日を過ぎても久住山の頂には、雪の塊がまばらに残っていた。風の動きに合わせ枯れ葉の先端が揺れている。これまで延び延びになっていた牧場の野焼きが、日の落ちるのを待っておこなわれることになっていた。真智子の汗ばんでいた体も牧場の風に触れただけで引いてしまった。

「こん風じゃと、野焼きはできんかもしれんなあ」

 父親の亀雄は牧場につくなり、だれに言うともなくぽつりと口にした。

「ええ、今日もできんの!」

 真智子は言葉尻をとらえて問い返した。亀雄はマッチの頭で耳を掻きながら天を仰いでいた。山の天気は気まぐれである。気象台の予報通りにいかない。先程まで陽が射していたのに、急に雨雲に覆われることだって少なくなかった。ことに、野に火を入れると風が出てくる。その分も計算に入れておかねばならない。

 真智子は夫・輝久との折り合いが悪く、中学一年になる真太を連れて実家へ帰り、半年前から牛飼いの手伝いをしていた。真太は学校には行きたがらないが、牛の世話はよくする変わり者だった。暇さえあれば牛小屋までやってきて、ものを言わない牛を相手に「前の担任は腹が出ていた」とか「かかの乳首は二つしかないのに、なぜ、あんたの乳首は四つあるんかい?」と真面目な顔で話を持ちかけていた。牛は反芻しながら、時折、荒い息を吐きかける。すると、真太も負けずに口を尖らし、牛の鼻の頭に息を吹き返すのであった。

「火を甘くみちゃいかん。火が暴れ出したら手がつけられんからなあ」

 亀雄は無表情のまま語気を強めて打ち切った。真智子は反論するだけの経験を持ち合わせていなかった。当初の予定では三月に入った最初の土曜日に、牧場に火を入れることになっていた。それが、強風のために一週間延び、次の週は雨で延びた。

 この時期になると、久住高原のあちこちから黒煙が上がり始める。真智子はこの黒煙を見るたびに、土の中で眠っている草花たちへ、春を告げる目覚まし時計のような気がしてならなかった。

 火入れの日は決められていても、あくまで予定であって、当日のしかも、その時点にならないと判断は下されない。牧場の火入れが一日遅れれば牛を野に出すのが一日遅れることになる。牧場の登り詰めたところに道神様の祠がある。村人たちは祠の周りに二人、三人と固まって、思い思いのことを口にしていた。真智子は木の株に腰を下ろし、地下足袋のハゼを止め直した。一緒についてきた真太の姿が目につかないと思っていたら、道神様の祠の陰に隠れて見えなかった。

「そんなところでなにを・・・」

 真智子は声をかけかけて止めた。今年生まれた鴬だろうか、道神様の裏側にある牛の水飲み場当たりでぎこちない声で鳴き続けていた。真太は石の頭に座ったまま鴬の相手をしていた。口笛で鳴き返したかと思うと「随分、上手になったなあ」と柔らかい声で話しかけていた。おかしなことを言うものだ。鴬に人の言葉が聞き分けられるはずはないではないかと、真智子は思いながら真太の言動を追っていた。すると真太の口笛につられて、鴬が視界の届く位置までやってきて枝から枝へ飛び交っていた。真太が一声かければ、鴬も一声鳴き返す。それも最初の鈍りは消えて、真太の口笛に合わせてリズミカルに鳴けるようになっていた。

「亀さん、これくらいの風なら、火を入れてもいいんじゃなかろうか?」

 ヒサズミ牧場の組合長が腕組みしたまま声をかけてきた。亀雄は犬が臭いを嗅ぎ分けるように、風の動きを確かめていた。

「そうじゃなあ。風も止んだごたるから大丈夫じゃろうと思うが、彦市さん、どうじゃろうか?」

 亀雄はこの村の最年長者である彦市に判断をあおいだ。

「雲の動きもないごたるから、いいじゃねえんかなあ」

 彦市から同意が得られた。村人たちの間から賛同の声があがった。野焼きの話がとんとん拍子に決まったことで、真智子はかえって心配になってきた。南側はなだらかな草野が広がっていたから心配ないものの、東側から北側にかけては急傾斜のために火の周りが早い。神経を遣うところであった。隣接する櫟山を挟んで樹齢百年は有に経つ杉山がある。この杉山に火でも入ろうものなら、牛飼いの儲けぐらい吹っ飛んでしまう。

        【二】

 真智子は二十二歳の時、車のセールスをしていた輝久と結婚した。仕事柄とはいえ、毎晩こんなに遅くなるのだろうかと、真智子は疑わぬこともなかったが、輝久の言葉を信じて待った。輝久はそれをいいことに朝帰りが度重なり、たまに早く帰ってくることはあったが、ただ、睡眠不足を補うだけの時間でしかなかった。

 真智子は結婚前に編んだセーターを解いては、真太のセーターに編み替え、夜の時間を費やしていた。部屋の外で物音がするたびに、帰ってくるはずはないと思っていながら、居間にかけてある時計に目がいく。午前零時を過ぎると、側を通る車の量が少なくなる。床へ入っても眠れない。二時、三時と時間が刻まれていく間に、一瞬、ピタッと無にかえる時があった。真智子はこの無の時間の中にいるのが重なるにつれ、理性と感情を結んでいた糸が一本、一本切れていくのであった。

「かか、ばばのとこ、行く」

 真太の一言で真智子は決心がついた。その晩のうちに自分が持てるだけの荷物をボストンバックに詰め、夜の明けるのを待って家を出た。ヒサズミ牧場行きのバスの中は、湯長小学校前のバス停で一人降りてから、運転手の他に乗客は真太と真智子だけになった。いつもの真太だったら窓に顔をへばりつけて、行き交う車に手を振っていたが、その日は自分から「百足す百は二百だ」とか「かかは牛飼いしたことがあるのか」と言った話を持ちかけてくる。真智子が生返事していると「かかは疲れているから、ボクはおとなしくしてないと悪いなあ」と真太にしては珍しく素直であった。普通の子供であれば、中学へ上がる年頃ともなれば、親を毛嫌いし始めるのだったが、真太は真智子の射程内から出ようとはしなかった。

 牛の糞尿の染み込んだ実家だっが、真智子は玄関を入ったとたん張りつめていた糸がぷつんと切れた。亀雄は真智子が両手に下げている荷物を見るなり無言のまま牛小屋へ行ってしまった。母親のトメは連絡なしに帰ってきたものだから、最初、勝手に思い込み「姑が勝ち気じゃから」と同情していたが、輝久との不仲であることが分かると「近所の者に顔向けできん」と急に怒り出した。真智子は弁解すればするだけの材料は持ち合わせていたものの、短い時間の中でトメを納得させるだけの心の余裕はなかった。

 体が熱っぽく頭が重い。真智子は昨晩の寝不足だけではなさそうだった。トメは神経痛の足をさすりながら「真太のことを考えてみよ」と涙ながらに言い出した。真智子の心が揺らぎ出したのは、トメから言い含められたこともあったが、年老いた両親に心配をかけまいという思いの方が強かった。牛小屋では発情のきた牛が間断なく鳴き続けていた。

 翌朝、一番のバスで帰った。トメは干し椎茸を持たせてくれた。姑は開口一番「輝久があんなにあるのも、あんたがしっかりせんからだ」と棘のある言葉を頭ごなしに浴びせられた。真智子は黙るしかなかった。

        【三】

「それじゃ、道神様に火が暴れんごとお参りして、早速、仕事にかかるとするかなあ」

 組合長の言われるままに村人たちは従った。道神様というのは、山ん神の別称であった。山で暮らす人々の安全を願う素朴な願いと畏敬の念が込められていた。

 道神様の頭に注連縄がかけられていなかったら、どこにでも転がっている、ただの自然石としかとれなかった。組合長が前もって供えてあったのだろう、地元で製造されているラベルの清酒が一本置かれていた。組合長は清酒の栓を抜き、湯呑み茶碗に注いで手を合わせた。村人たちも後へ続いた。亀雄は首にかけていたタオルを外して、深々と頭を下げたまま口の中で念じていた。真太は村人たちのするのを横目で見ながら、頭を下げれば頭を下げる、手を合わせれば手を合わせていた。

 火入れの時間を夕刻に選ぶのは、それなりの理由があった。夜露が上がる時刻だと、火が暴れずに雑草の根っこから燃える。害虫が死滅し芽吹きがいい。当たりが暗くなるために、飛び火したのが目につきやすいから、山火事を未然に防ぐことができるのであった。

「それじゃ、仕事の分担を決めるんで、よろしゅう頼むばい」

 亀雄は仕事になると声に張りが出る。動きが違う。今度の誕生日がくると七十三になるが、少し血圧が高いくらいで他に悪いところはなかった。トメから「飲むなとは言わんが、少しひかえればいいのに」と悪態を言われていたが、当の本人は「好きな焼酎まで止めて長生きしようとは思わん」とせせら笑って耳を貸そうとはしなかった。

「組合長さんに一番手にいってもらって、二番手は浩志さんに頼もう。迎え火を放すのは彦市さんにしてもらわんと、他のもんじゃ難しかろう」

 迎え火役に彦市は当てられると、歯のない口を開けてニタッと笑った。浩志というのはヒサズミ牧場組合の中では一番多頭飼育していた。彦市は妻に先立たれてからは口数が減った。子供が三人いたが、三人とも家を出ていき年金生活をしていた。彦市にしろカナ婆さんにしろ律儀なところがあって「かえって邪魔になるかもしれんが、出られる間は出ちょかんとなあ」と言いながら村の共同作業には率先して出てくれていた。

 迎え火役は牧場の尾根からつけた火が降りてくるのを見計らって、裾野から火を放す。早過ぎると火が風の勢いで一気に駈け昇り、防火線を越えて飛び火しかねない。だからといって、用心し過ぎると火の勢いが衰えて時間がかかる。あちこちに焼き残りができる。そのまま放っておくと、ダニが発生するし、翌年の野焼きの際に火が暴れて、山火事を引き起こしかねなかった。長い経験に裏打ちされた腕と勘がなければ火つけ役はできなかった。

「それじゃ、わしは下に回っちょくばい」

 彦市は言いながら立ち上がりかけたところで足元が乱れた。

「おっとっと」

みんなの読んで良かった!