野の家

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※離婚して知恵の遅れた子どもを連れて実家へ帰る。自分として田舎を嫌って出て行くが、夫の浮気で仕方なく田舎に帰って実家の牛飼いを始める。牛飼いをするためには、春先に野焼きをしなくてはならない。その作業に母親の代わりに、共同作業に出る。村の人たちは知恵遅れの子どもに遠回しから理由を聞く。子どもはありのままに答える。野焼きを通して、野焼きの手順、田舎の人間模様、風習等を描いみた。特に田舎で生活した野山は、離婚した理由は一言も聞かないまま受け入れてくれる。やっと心が慰められる。牛飼いの苦労、限界集落になっていく様子など、織り交ぜて最後は、知恵の遅れた子どもが最後に、野焼きをしていた危険を防ぐのである。祖父は「お前の言うとおりだ」と、久方ぶりに笑いが戻るのである

           

        【一】


 ヒサズミ牧場をすっぽり覆っていた厚い雲がわずかながら動いている。春分の日を過ぎても久住山の頂には、雪の塊がまばらに残っていた。風の動きに合わせ枯れ葉の先端が揺れている。これまで延び延びになっていた牧場の野焼きが、日の落ちるのを待っておこなわれることになっていた。真智子の汗ばんでいた体も牧場の風に触れただけで引いてしまった。

「こん風じゃと、野焼きはできんかもしれんなあ」

 父親の亀雄は牧場につくなり、だれに言うともなくぽつりと口にした。

「ええ、今日もできんの!」

 真智子は言葉尻をとらえて問い返した。亀雄はマッチの頭で耳を掻きながら天を仰いでいた。山の天気は気まぐれである。気象台の予報通りにいかない。先程まで陽が射していたのに、急に雨雲に覆われることだって少なくなかった。ことに、野に火を入れると風が出てくる。その分も計算に入れておかねばならない。

 真智子は夫・輝久との折り合いが悪く、中学一年になる真太を連れて実家へ帰り、半年前から牛飼いの手伝いをしていた。真太は学校には行きたがらないが、牛の世話はよくする変わり者だった。暇さえあれば牛小屋までやってきて、ものを言わない牛を相手に「前の担任は腹が出ていた」とか「かかの乳首は二つしかないのに、なぜ、あんたの乳首は四つあるんかい?」と真面目な顔で話を持ちかけていた。牛は反芻しながら、時折、荒い息を吐きかける。すると、真太も負けずに口を尖らし、牛の鼻の頭に息を吹き返すのであった。

「火を甘くみちゃいかん。火が暴れ出したら手がつけられんからなあ」

 亀雄は無表情のまま語気を強めて打ち切った。真智子は反論するだけの経験を持ち合わせていなかった。当初の予定では三月に入った最初の土曜日に、牧場に火を入れることになっていた。それが、強風のために一週間延び、次の週は雨で延びた。

 この時期になると、久住高原のあちこちから黒煙が上がり始める。真智子はこの黒煙を見るたびに、土の中で眠っている草花たちへ、春を告げる目覚まし時計のような気がしてならなかった。

 火入れの日は決められていても、あくまで予定であって、当日のしかも、その時点にならないと判断は下されない。牧場の火入れが一日遅れれば牛を野に出すのが一日遅れることになる。牧場の登り詰めたところに道神様の祠がある。村人たちは祠の周りに二人、三人と固まって、思い思いのことを口にしていた。真智子は木の株に腰を下ろし、地下足袋のハゼを止め直した。一緒についてきた真太の姿が目につかないと思っていたら、道神様の祠の陰に隠れて見えなかった。

「そんなところでなにを・・・」

 真智子は声をかけかけて止めた。今年生まれた鴬だろうか、道神様の裏側にある牛の水飲み場当たりでぎこちない声で鳴き続けていた。真太は石の頭に座ったまま鴬の相手をしていた。口笛で鳴き返したかと思うと「随分、上手になったなあ」と柔らかい声で話しかけていた。おかしなことを言うものだ。鴬に人の言葉が聞き分けられるはずはないではないかと、真智子は思いながら真太の言動を追っていた。すると真太の口笛につられて、鴬が視界の届く位置までやってきて枝から枝へ飛び交っていた。真太が一声かければ、鴬も一声鳴き返す。それも最初の鈍りは消えて、真太の口笛に合わせてリズミカルに鳴けるようになっていた。

「亀さん、これくらいの風なら、火を入れてもいいんじゃなかろうか?」

 ヒサズミ牧場の組合長が腕組みしたまま声をかけてきた。亀雄は犬が臭いを嗅ぎ分けるように、風の動きを確かめていた。

「そうじゃなあ。風も止んだごたるから大丈夫じゃろうと思うが、彦市さん、どうじゃろうか?」

 亀雄はこの村の最年長者である彦市に判断をあおいだ。

「雲の動きもないごたるから、いいじゃねえんかなあ」

 彦市から同意が得られた。村人たちの間から賛同の声があがった。野焼きの話がとんとん拍子に決まったことで、真智子はかえって心配になってきた。南側はなだらかな草野が広がっていたから心配ないものの、東側から北側にかけては急傾斜のために火の周りが早い。神経を遣うところであった。隣接する櫟山を挟んで樹齢百年は有に経つ杉山がある。この杉山に火でも入ろうものなら、牛飼いの儲けぐらい吹っ飛んでしまう。

        【二】

 真智子は二十二歳の時、車のセールスをしていた輝久と結婚した。仕事柄とはいえ、毎晩こんなに遅くなるのだろうかと、真智子は疑わぬこともなかったが、輝久の言葉を信じて待った。輝久はそれをいいことに朝帰りが度重なり、たまに早く帰ってくることはあったが、ただ、睡眠不足を補うだけの時間でしかなかった。

 真智子は結婚前に編んだセーターを解いては、真太のセーターに編み替え、夜の時間を費やしていた。部屋の外で物音がするたびに、帰ってくるはずはないと思っていながら、居間にかけてある時計に目がいく。午前零時を過ぎると、側を通る車の量が少なくなる。床へ入っても眠れない。二時、三時と時間が刻まれていく間に、一瞬、ピタッと無にかえる時があった。真智子はこの無の時間の中にいるのが重なるにつれ、理性と感情を結んでいた糸が一本、一本切れていくのであった。

「かか、ばばのとこ、行く」

 真太の一言で真智子は決心がついた。その晩のうちに自分が持てるだけの荷物をボストンバックに詰め、夜の明けるのを待って家を出た。ヒサズミ牧場行きのバスの中は、湯長小学校前のバス停で一人降りてから、運転手の他に乗客は真太と真智子だけになった。いつもの真太だったら窓に顔をへばりつけて、行き交う車に手を振っていたが、その日は自分から「百足す百は二百だ」とか「かかは牛飼いしたことがあるのか」と言った話を持ちかけてくる。真智子が生返事していると「かかは疲れているから、ボクはおとなしくしてないと悪いなあ」と真太にしては珍しく素直であった。普通の子供であれば、中学へ上がる年頃ともなれば、親を毛嫌いし始めるのだったが、真太は真智子の射程内から出ようとはしなかった。

 牛の糞尿の染み込んだ実家だっが、真智子は玄関を入ったとたん張りつめていた糸がぷつんと切れた。亀雄は真智子が両手に下げている荷物を見るなり無言のまま牛小屋へ行ってしまった。母親のトメは連絡なしに帰ってきたものだから、最初、勝手に思い込み「姑が勝ち気じゃから」と同情していたが、輝久との不仲であることが分かると「近所の者に顔向けできん」と急に怒り出した。真智子は弁解すればするだけの材料は持ち合わせていたものの、短い時間の中でトメを納得させるだけの心の余裕はなかった。

 体が熱っぽく頭が重い。真智子は昨晩の寝不足だけではなさそうだった。トメは神経痛の足をさすりながら「真太のことを考えてみよ」と涙ながらに言い出した。真智子の心が揺らぎ出したのは、トメから言い含められたこともあったが、年老いた両親に心配をかけまいという思いの方が強かった。牛小屋では発情のきた牛が間断なく鳴き続けていた。

 翌朝、一番のバスで帰った。トメは干し椎茸を持たせてくれた。姑は開口一番「輝久があんなにあるのも、あんたがしっかりせんからだ」と棘のある言葉を頭ごなしに浴びせられた。真智子は黙るしかなかった。

        【三】

「それじゃ、道神様に火が暴れんごとお参りして、早速、仕事にかかるとするかなあ」

 組合長の言われるままに村人たちは従った。道神様というのは、山ん神の別称であった。山で暮らす人々の安全を願う素朴な願いと畏敬の念が込められていた。

 道神様の頭に注連縄がかけられていなかったら、どこにでも転がっている、ただの自然石としかとれなかった。組合長が前もって供えてあったのだろう、地元で製造されているラベルの清酒が一本置かれていた。組合長は清酒の栓を抜き、湯呑み茶碗に注いで手を合わせた。村人たちも後へ続いた。亀雄は首にかけていたタオルを外して、深々と頭を下げたまま口の中で念じていた。真太は村人たちのするのを横目で見ながら、頭を下げれば頭を下げる、手を合わせれば手を合わせていた。

 火入れの時間を夕刻に選ぶのは、それなりの理由があった。夜露が上がる時刻だと、火が暴れずに雑草の根っこから燃える。害虫が死滅し芽吹きがいい。当たりが暗くなるために、飛び火したのが目につきやすいから、山火事を未然に防ぐことができるのであった。

「それじゃ、仕事の分担を決めるんで、よろしゅう頼むばい」

 亀雄は仕事になると声に張りが出る。動きが違う。今度の誕生日がくると七十三になるが、少し血圧が高いくらいで他に悪いところはなかった。トメから「飲むなとは言わんが、少しひかえればいいのに」と悪態を言われていたが、当の本人は「好きな焼酎まで止めて長生きしようとは思わん」とせせら笑って耳を貸そうとはしなかった。

「組合長さんに一番手にいってもらって、二番手は浩志さんに頼もう。迎え火を放すのは彦市さんにしてもらわんと、他のもんじゃ難しかろう」

 迎え火役に彦市は当てられると、歯のない口を開けてニタッと笑った。浩志というのはヒサズミ牧場組合の中では一番多頭飼育していた。彦市は妻に先立たれてからは口数が減った。子供が三人いたが、三人とも家を出ていき年金生活をしていた。彦市にしろカナ婆さんにしろ律儀なところがあって「かえって邪魔になるかもしれんが、出られる間は出ちょかんとなあ」と言いながら村の共同作業には率先して出てくれていた。

 迎え火役は牧場の尾根からつけた火が降りてくるのを見計らって、裾野から火を放す。早過ぎると火が風の勢いで一気に駈け昇り、防火線を越えて飛び火しかねない。だからといって、用心し過ぎると火の勢いが衰えて時間がかかる。あちこちに焼き残りができる。そのまま放っておくと、ダニが発生するし、翌年の野焼きの際に火が暴れて、山火事を引き起こしかねなかった。長い経験に裏打ちされた腕と勘がなければ火つけ役はできなかった。

「それじゃ、わしは下に回っちょくばい」

 彦市は言いながら立ち上がりかけたところで足元が乱れた。

「おっとっと」

 側にいた真太が大仰に言って手を添えた。

「すまんのう。ちょっと見らん間に、大きくなったのう」

 彦市は真太の頭を撫で、竹の根で作った杖をついて牛の道を下って行った。

        【四】

 かって、ヒサズミ村では、牛を一戸に二・三頭は飼っていた。農家にとって牛は労働力には欠かせない存在だった。田畑を耕すのも荷物を運ぶのも牛の力を借りなければならなかった。ところが、機械化が進み、堆肥が化学肥料に代わり、牧草地が改良地に転換され、粗飼料を濃厚飼料でまかなうようになった。それに輪をかけ、若者は家を捨てて村を捨てて出て行った。行政はそれを見逃し放置してきた。農家の人たちは自分たちのしてきた苦労だけはさせたくないとでも思っていたのか見逃してきたところがある。その結末が今の農村の姿そのものであった。

 その一方で、牛の頭数は増えながら、牛飼いの戸数は減るばかりである。ということは、これまで牛を飼ったこともない者が金の力で、牧場の権利を買いあさり、大型機械を導入して多頭飼育を始めていた。

 亀雄は成牛を五頭に子牛を三頭飼育していた。野焼きさえしておけば、半年近く放牧しておかれる。子牛が生まれれば手間賃ぐらい出る。田畑の肥料は堆肥を使い、できるだけ農薬を使わずに栽培するから体にいい。味が違う。

 真智子には三つ上の和夫という兄がいた。福岡で老人介護の仕事をしている。その嫁ではないが「ヒサズミのお米を食べだしたら、他のお米は食べられない」と言って和夫を取りに帰らせる。トメは孫たちの顔が見たくなると、和夫の好きなラッキョウが漬かったからとか、柿が熟す時期になると電話をかけて呼び寄せていた。時たま嫁が一緒に帰ってくることがあったが、牛小屋から飛んできた蠅が止まった食べ物には箸をつけなかった。

「帰ってきていいもんは帰ってこんし、帰ってこんでいいもんは帰ってくるし・・・」

 トメは真智子に直接言えないから亀雄に不満をぶっつけていた。

「なんか言ったかい?」

 亀雄は白をきるなり飯台の上にあった沢庵をつまみ食いした。

「本当にしょうがねんじゃから。真智子は男勝りだし、和夫は嫁の言いなりになるし・・・」

 トメの愚痴は続く。それにしても、トメのおちょぼ口から、よくもあんな毒々しい言葉が間断なく出てくるのだろうか。最近、和夫は嫁の実家の近くに新築した。「これじゃ養子に取られたのも同じじゃ」とトメは言い切る。相手が聞こうが聞くまいが関係ない。ぶつぶつ言い出したらお経でも唱えているようなものだ。腹の中に溜まっているものを、一通り吐き出してしまわなければ終わらなかった。

 亀雄も亀雄で、自分に都合のいいことだと話を先取りし、入れ歯をガクガクさせながら講釈を捲し立てる。焼酎が入ると話が長くなる。

 どちらもどちらである。それでいて、互いに悪たれ口を叩き合いながら五十年近く、同じ屋根の下で暮らしてきたことになる。

「代われるもんがおれば代わりたいが、それがおらんからしょうがねえんじゃ」

 亀雄は牛の体につきまとう虻を尻尾で追い払うように、トメの嫌味を一言で断ち切った。

        【五】

「じゃ、頼んだで!」

 組合長の一言で、それぞれ持ち場に着いた。残りの者は飛び火したのを火ボテ(火消し道具)で消す役であった。

「はいよ」

 浩志が威勢のいい声を上げた。真太は真智子の目を盗んで、村人たちを相手に筋書きのない話をだらだらと持ちかけていた。浩志は今年が厄年だと言っていたから四十二歳のはずだが、未だに独身だった。亀雄も嫁の世話を何度かしていたが、今度こそうまくいくかと思っていると、土壇場になって体よく断られるのであった。人柄もいいし、金も溜めているらしい。なのに、うまくいかないところを見ると、牛の糞尿の臭いが原因の一つになっているのかも知れないと、真智子は思ってみたりもした。

「真太、何をしよるの。言うことを聞かないと、これから絶対連れてこないからね」

 真智子は呼び戻した。

「はいはい、分かりました。気をつけます」

 真太は調子がいい。右手で自分の頭を軽く二回叩いて言った。親子とはいえ輝久が気まずい時にする仕草そのものである。まるで、輝久を縮小コピーしたようなものだ。真智子は真太の何気ない言動を見るにつけ、自分の取った行動がこれでよかったのだろうかという自戒の念に苛まれるのであった。

「ちょっと、ちょっと、火を入れるのを待っておくれ」

 組合長が火をつけかかったところで、亀雄が慌てて制止した。一体、何があったのだろうか。真智子は周りを一巡したが、別に変わったことはなかった。

「どうかしたんかい?」

 組合長が聞き返した。

「火を入れる前に、あいつらの逃げ場を作ってやっちょかんと」

 あいつらと言うのは、この牧場に棲む生き物たちのことであった。昔から野焼きにかかる前に、火に巻かれて焼け死なないように山の生き物たちの逃げ場を作ってやらねばならなかった。亀雄は忙しさに紛れて、つい忘れるところだった。

「そうじゃったなあ、わしも行こう」

 カナ婆さんは言うなり真っ先に腰を上げた。ヒサズミ牧場の北側に面した窪みに、夏は冷たく、冬は暖かい清水が湧き出る場所があった。周りには大小の石が転がり、奥まった所に十畳敷きほどの空間になっている場所があった。真智子は子供の時分、遠足の行き帰りにこの水飲み場で休憩し、競い合って咽の渇きを潤していた。真竹の枝を取り手代わりに作ったコップが、いつ見ても置かれていた。

 亀雄は手のすいた者を連れ立って、水飲み場の周りを焼き払った。真智子は遅れて後をつけて行った。周りを焼き払うと言うより、水飲み場の周りを清掃するようなものだった。

「これくらいしとけば大丈夫じゃろう」

 だれの口からともなく出てきた。真智子は水飲み場に降りた。岩と岩との間から、今、生まれたばかりの清水がコクコクと湧き出ている。真智子は手を浸けてみた。人肌でも触れたみたいな仄かな温もりが指の先から、体全身に伝わってきた。真智子は時間の経つのを忘れて聞き入っていると、人間の鼓動そのものだった。ということは、この山が生きていると言うことなのだ。

        【六】

 真智子が小学校へ通っている間、春の歓迎遠足の場所と言えばヒサズミ牧場に決まっていた。春から夏にかけワラビやゼンマイが採れる。村の人たちだけでなく近郊の人たちまでやってきて楽しむ。秋口になると村人たちは競ってキノコ採りに出かける。村の人たちにとってはヒサズミ牧場は生活の場であり、慣れ親しんだ草原であった。

 ヒサズミ村にまつわる笑い話にこんなのがある。

 村の者が正月の買い物に町へ出た。ヒサズミ牧場の水飲み場から湧き出た水と、大船山の麓から流れ出した水とが合流する地点がある。それを見た村の者が「これが、話を聞いた海のこっかい?」と連れの者に尋ねたそうだ。すかさず、連れの者が「そんなこっを大きな声で言っていたら笑われるばい。海と言うのは、この川の三倍あるばい」と見てきたように自慢げに話したそうだ。

 この笑い話の舞台で、真智子は学校を終えるまで牛飼いの手伝いをさせられた。牛の朝草刈りをしたこともあるし、子牛の競り市にもついて行ったことがある。真智子は牛飼いの仕事は嫌いでもなかったが、すすんで好きにもなれなかった。

 あの鼻をつく糞尿の臭いに真智子は慣れたとはいえ、牛の肥出しの日など湯に浸かったくらいでは体に染みた臭いは落ちるものではなかった。ただ、過去の屈辱から逃れるためなら牛飼いだろうが、土方仕事だろうができないことはない。真智子は考えに考えぬいた末、牛飼いの道を選んだのだ。

 村では田植えが終わると、家で飼っていた牛を牧場に放す。真智子も何度かついて行ったことがある。亀雄が牧場に牛を放す前に、頭から首筋を撫で回しながら自分にしか通じない声をかけていた。あの甘い声といい、日焼けした浅黒い顔に滲ませる笑みといい、どこから出てくるのだろうか。真智子は不思議でならなかった。

 牧場に放された牛は、亀雄が側にいる間は安心して草を喰っている。ところが「それじゃ帰るぞ」と亀雄が声をかけると、放牧された牛たちはとことこと入り口までやってきて、語尾を引きながら鳴く。「これまで田植え仕事で疲れたじゃろうから、うんと食べち、ゆっくり休むといい」と亀雄は声をかけ牛の頭をぽんぽんと軽く二回ほど叩いて牧場を後にした。

        【七】

「それじゃ、火を入れようか!」

 亀雄の合図で、それぞれ持ち場についた。真智子は野焼きに立ち会うのは始めてだけに、不安と好奇心とが入り交じり複雑な心境はいなめなかった。

「ほら、どいた!。どいた!」

 一番手である組合長が声をかけながら、竹の棒に油で浸した種火で、防火線の内側から順に火を入れていく。一番手の火つけ役が声をかけるのは、牧場に住む動物たちに「今から火を入れるから、早くここから出ていかないと焼け死ぬぞ」という合図でもあった。真太は組合長の口にする言葉を真似て後をつけ回す。二番手の浩志が、一番手の火の燃え具合を確かめながら順に火をつけていく。亀雄は風の動き、地形、燃え草の量、乾燥の具合など見ながら「ヨシ」「マテ」「ケシ」の声をかけながら火つけ役を指図する。

 パチパチと音をたてながら炎は燃え広がっていく。亀雄は炎の色や煙の色で燃え具合が分かる。青味かかった白い煙だと完全燃焼しているので、安心して亀雄は見ていられるのであった。少しでも煙が黒味かかってくると、不完全燃焼で気が抜けなかった。風が出てき出した兆候である。火の音が高くなるし間隔が狭められる。

「一番、マテ」

 亀雄は火の音を聞き分けるなり一番手を制止した。笹の葉のように音だけが高くても燃え方がおとなしいことがある。萱藪になると音も高いが火の勢いも旺盛である。

 一番手の足が止まった。あまり先を急ぐと二番手がついて行けず、一番手がつけた火が回って、二番手を火に巻き込む恐れがある。

「亀さん、これくらいの早さでいいかい?」

 一番手を行っていた組合長から声がかかった。

「一番ヨシ。二番ヨシ」

 火の勢いがおとなしくなると、亀雄の声まで角が取れて丸くなる。パチパチと子供たちのはしゃぎ声に似た軽快な音で燃えてくれれば申し分なかった。

「野焼きは、今年が最後になるかもしれん」と村の人たちは寄ると障ると口にしていたのを、これまで、真智子は何度となく聞いている。だからといって、「それじゃ、止めようか」と手を挙げる者はいなかった。自分が言い出しっぺになれば、善きにつけ悪しきにつけ話題に持ち出される。一生汚名を背負うことになるだけに、村人たちの間では禁句になっていた。

 だからと言って、この村に残された者は、牛飼いするしか他に術はなかった。真智子自身他人事ではない。田畑といえば谷間に家族が食べるほどしかなかった。しかも、高冷地とあって平坦地より小一ヶ月近く早目に田植えをすませても、採り入れ時期は同じだった。真夏でも朝方にはかけ布団が欲しくなるほど冷え込む。毎年のように冷害で悩まされる。そうでない年は水不足で穂に実が入らない。台風は毎年やってくる。となると、高冷地でしかも山間地の立地条件に合った、昔ながらの原野を利用した牛飼いしかなかった。

 枯れ草が燃えていく端から、牛の道が山肌に浮き出てくる。牛の道というのは、牧場の急斜面を牛が登ることができないために、下から上にジグザグに青草を食べながら移動していく際にできた道のことであった。牛の道はやっと一頭が通れるほどの細い道であったが、牛たちは転げ落ちることはなかった。互いに譲り合いながら牛の道を一列に並んで青草を食べていく。頂上についた時分には、前に食べた草が芽を吹く。それを食べれば柔らかい青草をふんだんに食べられることを牛たちは知っていた。

 村人たちの間では牛の道のことを「急がば廻れ!」と言う諺につかったり「牛がいなくなったら、牛の道で待っちょったら、必ず返ってくるもんじゃ」とも言われていた。

 火をつける人、飛び火を守る人、それを指図する人、それぞれが声をかけ合いながら作業がすすめられていく。煙と煙の間を村人たちが走り回る。どの顔もススで汚れた額から汗の粒が噴き出ていた。

「キャン、キャン」

 山鳥がけたたましい鳴き声を発し萱藪の中から飛び立った。炎で焦げた真っ赤な夜空の中に消えていった。真智子は火ボテを持ったまま火の鳥の後を追っていた。

 その時である。間延びした真太の声が炎の弾ける音に交ざって聞こえてきた。真智子は真太の声には敏感に反応する。

「お父さんは、最近、顔を見ないがどうしたんかい?」

 煙に遮られて顔は確かめられないが、この嗄れ声はカナ婆さんに間違いない。真智子は真太の居場所を探したが、煙に遮られて確かめられなかった。煙が目に染みて涙がポロポロ出てくる。

「そりゃ、長い間にはいろいろあるわ」

 真太は亀雄が焼酎が入ると、よく口にしていた言葉をそのまま返した。煙の流れが変わったところに真太の黒い影が立っていた。真太は調子に乗るとなにを言い出すか分かったものではない。いくら、前もって注意しておいても、その場限りである。大人の話をかじり聞きし、言葉の意味を理解できないまま鸚鵡替えしにぶっつける。相手の笑いが自然に出てきたものか嘲笑なのか区別がつかない。それでも本人は一生懸命である。

「もう、お父さんのところにゃ帰らんのかい?」

 カナ婆さんはしつこい。真智子は咳払いしたが真太には通じなかった。

「帰る訳はないよ。かかとととは喧嘩してきたもん」

 真太は誇らしげに喋っていた。真智子はいらいらするが、この場に至って自分が出ていく訳にはいかなかった。

「家のととは、これの癖が悪いから別れた方がいい」

 これというのは女癖の悪いことだった。真太はどこで汚い言葉を覚えたのだろうか。真智子はドキッとした。真太は相手が聞きもしないことを順不同に捲し立てていた。

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