風が哭く

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〈風が哭く〉梗概

 この作品は、還暦を迎えた、主人公である下田正男の視点から描いてみた。

 正男は田舎の中学校を卒業し、集団就職で大阪の自動車整備工場で働くことになる。還暦を機に、田舎で同級会が催されるため、父親の葬儀以来、十八年ぶりに実家へ帰ってみる。

 祖父の死後、祖母が亡くなり、父親も数年後に亡くなる。家は母親一人になるが、歳には勝てず、施設に預けられる。わずか数年足らずで、家の周りは雑草に覆われ廃屋同然になり、家の中へ入ることすらできない。正男は実家の玄関前に立って過去を回想する。

 正男は姉や弟のように、戦地から復員してきた父親に対して心が通わず、逆に溝は深まっていくばかりである。その一つの理由は、姉は父親が戦地に出征する前に生まれ、弟は復員した後に生まれたが、正男は戦地に出征している間に生まれたのである。家族の者は「母親のお腹の中にいる時に父親が出征したから・・・」と口を揃えて言う。正男も信じて疑わなかった。ところが、それを覆す事実が出てきた。

 その中の一件として、正男は中学卒業後就職する際、戸籍謄本を村役場へとりにいった。そこで見たものは父親の欄が空白になっていたことだ。それを裏打ちするように、祖父の初盆の供養踊りの最中に、一人の老人から「血は争えない」と言う父親以外の人の名前を聞く。それ以来、正男は父親の子どもではないのではないかという疑いを抱く。

 正男の生まれ育った地区は、家も人口も半減し、空き家になり、ネズミやクモの住み処になってしまいつつあった。正男は自分の生い立ちに思いをはせながら、古くから踊り継がれている盆踊りを重ね合わせ、愛着や哀愁を織り交ぜ、高齢化が進み、地区の様子が様変わりしていく姿に、メスを入れてみた。


風が哭く

 雲の塊が移動するたびに切れ間から夏の日差しが降りそそいでくる。下田正男は実家の前に辿り着いたとたん自分の目を疑った。姉弟から事あるごとに「独り暮らしの母親が施設に入所してから八年になるが、今では実家に帰っても足の踏み入れ場もない」という話は聞かされていたが、ここまで荒れ果てているとは思ってもみなかった。正男は実家の前に突っ立っていたまま、自分の意志とは関わりなく、視界がランダムに動き回っていた。

 急きょ、正男が実家に戻ることになったのは、還暦を機に中学の時の同級会が、八月十四日に実家近くの温泉場で催される通知を受けたからである。最初は(欠席)で返事を出した後、このチャンスを逃したら、正男自身、三年前に大腸癌の初期とはいえ手術を受けたこともあり、この先いつ、どうなるか分からない。それに、何か用でもなければ実家へ帰ることはない。せっかく近くまでいくのであれば足をのばし、この機に写真の一枚でも撮っておこうという思いにかられ、発起人に追加で「出席」する主旨のを記して返信を出したのである。

        ※       

生まれ育った古城地区に正男が帰ってきたのは、父親であった下田一作の初盆以来であった。ということは、正男が厄年であったから十八年振りということになる。

 昭和二十年十二月九日、父親が戦地から復員してきた。正男は数えの六つだった。今でも記憶に残っているのは、家の前の大勢の人垣の間から、始めて見た父親の顔である。父親は正男と視線がぶつかるなり、開口一番「あの子はどこの子かい?」と、傍にいた父方の祖母に聞いていた。

「何をとぼけたことを言いよるかい。父ちゃんが戦地にいった後に、お前が生れたんだ」と、祖母は古城地区の人たちの目をはばかりながら言った。側にいた人たちは顔を見合わせて黙った。母親はその場にいたたまれずに、後ずさりながら炊事場へ引き上げ、お茶の用意にかかった。

 その日の夜は遅くまで、親戚や地区の人たちが集まって酒盛りがおこなわれていた。正男は納戸の奥に引っ込んだまま、障子の隙間から父親の一挙一動を見守っていた。父親は姉を膝の上に抱き、焼酎を酌み交している。あの馴れ馴れしさはどこからくるのだろうか。正男には不可解であった。母方の祖母は納戸にいた正男の傍にやってきて「正男、そんな所で何をしている。お前の父ちゃんだよ。父ちゃんと言って抱かれろ。何も可笑しがることはねえ。さあ、早く…」と、正男の手首を掴んで連れ出しかかったが尻込みして動こうとしない。正男は恥ずかしさもあったが、姉のように自分から父親の膝の上に馴れ馴れしく上がる勇気がない。

「いい、後からいく」と、正男は邪険に言ってのけた。祖母はくもった声で「こん子ときたら困ったもんじゃ」と、悔やみごとをぼやきながら、いつもの自慢話をする時のような誇らしい笑みは消え失せたまま納戸を出て行った。祖母が何故あのような哀しい顔をしていたのか、子ども心の正男は知る術もない。

 父親が戦地から復員してきた当時、正男は「おっちゃん、おっちゃん」と呼んでいた。すると、母親は目の色を変え、その場で言い直させた。正男と父親との間に子どもには理解できない溝が生じていたとしか思えない。父親は父親で自分から正男を抱き上げたり、用がなければ声をかけてくることはまずない。正男も母親から叱られるから「おっちゃん」のことを「父ちゃん」と呼んではいたものの、口になじまず、とっさの時は「おっちゃん」と口が滑ることがある。

 正男の下に七つ違いの弟が生まれた。弟は父親をコピーしたように目が小さく、唇が厚いところまでよく似ている。地区の人たちは顔を合わせるたびに「一作さん、諭さんはあんたの子に間違いねえよ」と、からかう。

「こればかりは、どうか分からんばい」と父親は他人事のように笑ってすませていたが、その実、顔を綻ばせて喜ぶ。正男のことは地区の人たちは申し合わせたようにおくびにも出さなかった。

 父親は古城地区では数少ない大工職人であった。腕はいい。真面目に働きさえすれば、五人の家族が食べることぐらい事欠かないが、焼酎が好きで昼間からでも飲んでいた母親は事あるごとに「焼酎を飲むなとは言わん、ただ、自分の体を壊してまで飲まんでもよかろうに」と、遠回しにぶつぶつ言っていた。

「お前からとやかくいわれるこっはねえ」と、父親は強い口調で反発しながら、飲んでいた。ところが胃を手術してからというもの、自分の手の届く位置に焼酎瓶が置かれていても、父親は口をつけようとはしない。

       ※ 

 かつて古城地区は多いときは二十数軒あった。それが今では半数近くが空き家になっている。その内のまた五戸が独り暮らしの老人である。子どもたちは町に出ていて、帰ってきて先祖代々続いた田畑を受け継いで百姓をするような奇特な者はいないのが実情である。そうなると、老人が施設へ入れられたり、病気で亡くなれば、正男の実家と同様に、家屋は遅かれ早かれ風雨にさらされながら雑草に押し潰される。数年もしない内に、焼けこけた竈の石が残っていればいい方である。

 実家の祖父母が亡くなってからは、両親の他に姉弟が三人いたが、三つ違いの姉は嫁ぎ、七つ違いの弟も結婚し二人の子どもがいた。弟の嫁は一人娘であったということで、実質的には養子に取られたようなものだ。

 実家では両親二人の生活が数年続いたが、父親は焼酎を止めず肝臓を患って亡くなった。母親はしばらく独り暮らしをしていたが、年には勝てずに八十を過ぎた頃から物忘れがひどく、食事は不規則になり、火の始末も心配になってきたので、姉と弟が相談して老人施設に入れることになった。

 もともと母親は施設に入るのを拒んでいた。そのため姉と弟が「元気になればまた帰って、百姓をすればいいじゃないか」と宥めすかして施設に預かってもらうことになった。ところが、一度入所したら、面度を見てくれる人が現れない限り退所できない。姉は嫁に行っている立場であり、姑が元気だったこともあって、じぶんの思い通りにはならない。弟は嫁の家に入り込んでいたので、相手方の許可がない限り、自分の意志は通用しない。

 これまで正男自身も母親に「大阪に出てくれば」と何度か声をかけてはみたものの「マンション生活なんか檻の中に入れられたようなもんだ」と、言って正男の嫁の母親が亡くなった時、一泊したきりである。嫁の父親が亡くなった時などは、始発の新幹線でやってきて、葬儀が済むなり最終便の新幹線でとんぼ返りするくらいだから、いくら声をかけてもくる気は毛頭ない。

 正男は中学を卒業して、集団列車で大阪の自動車整備会社に就職した。実家で生活したのは、生まれてから中学校へ通うまでの十五年間だけである。時間的なことで判断すると、大阪の生活の方が長くはなっていたものの、故郷へ対する郷愁や実家への愛着は、計り知れないものがある。

 この度の同窓会は、正男にしてみれば願ってもない機会だっただけに、予定よりも一日早く夜行列車で大阪を発った。

       ※ 

 同級会は夕方の六時からということで、正男は最寄りの中津駅から、小一時間かけて、当時通っていた小中学校の跡地までタクシーを飛ばした。時間はたっぷりある。正男は前々から小中学校の通学路だった道を、歩いてみたいと思っていたが、忙しさに紛れてそのままになっていた。

 今回はいい機会だ。通学路を歩いて実家まで帰ってみることにした。当時は牛馬が通れるほどの道幅があったが荒れ果て、通学路の側を流れていた谷の水も涸れ、野の草木に覆われて人が通れる状態ではない。それでも、所々、当時の記憶を刻む岩や椎の木が残っていた。正男は草藪を払って椎の木の所まで行ってみると、獣道と化された跡がかすかに残っていた。それ以上、奥の道に入ることは雑草に遮られて無理である。

 期待していた小中学校は、当時水路を隔てたところにL字型で校舎が建っていたが、町村合併により統廃合され、跡地は村の共有地として杉が植えられていた。当時の面影といえば苔むした門柱が、掘り出された石に混ざって積み重ねられてるだけである。

 顔見知りの人に出会わないように、遠回りであったが古城地区の人たちが共同で使用していた溜め池の側を通って帰ることにした。飼い犬が地区の人でないことを嗅ぎつけて吠え止むのを待って、地区に足を踏み入れた。

 背丈ほど伸びた雑草を、杖代わりに使っていた棒切れで振り払いながら実家の玄関まで辿り着いた。戸口の横に掛けられていた、家族の名前が書かれたプラスチック板は風に吹き飛ばされて、庭の隅に転がったままなっていた。そこには戸主であった祖父の名前、下田大介、妻のマサと続き、父親の一作、母親のツル、姉の美佐、正男と続き、弟の悟と書かれていた。正男はところどころメッキの剥げ落ちた部分あったが、その部分を塗り合わせることで正確に読み取ることができた。

 正男は玄関に手をかけてみたものの、ガラス戸はとこどころが割られ、軒は傾き、手をかけてみたものの、一人の力では開きそうにない。正男が十五年間生まれ育った家である。どちらかといえば笑って過ごした生活よりも、辛いことや哀しいことの方が多かったが、長い間に自然に消えて、残された柱や壁に懐かしさだけが染みこんでいた。

 正男は家の中へ入るのを諦め、玄関の前で姿勢を正し、仏間の方向に向かって両手を合わせたまま題目を三唱した。

 祖母の父親だった曾祖父親が娘の結婚記念に植えたというサルスベリの木は残っていた。伸び放題になっていた枝先に、小さなピンクの花房をつけていた。その先にショウロウトンボが一匹止まったとたん、方向転換したところで正男と目が合った。ショウロウトンボは見慣れない顔だと思ったのか、大きな目玉をくるりとさせるなり秋風の混ざった夏の空に飛び立ったきり、舞い戻ってくることはなかった。裏庭には石楠花の老木もあった。祖父は花の時期になると、自分の方から通りがかりの者に話を持ちかけて自慢気に見せていた。その石楠花も枝葉を落としてしまい、主幹の部分を残し、もう二度と花をつけるような勢いは感じられない。正男はガラス戸の割れ落ちた隙間から、祖父が元気な時に杉の山を売って買った仏壇の開き戸も半開きになり、ネズミの住み処に占領され、風が家の中を通り過ぎていくたびに油の切れた鈍い音をたてている。座敷の畳も広間の畳も雨漏りし、床は所々落ち、ぼこぼこに痛み自由に歩ける状態ではなさそうだ。母親が内職で炭俵を編んでいた側で、正男と姉が小縄をなっていた土間には、藁葺きの煤が落ちて四方に散りばめ、足の踏み場もない。居間に目をやると、母親が元気な頃「テレビが古くなったので買い換えたい」という話を聞いた正男が、大阪から二十一インチのカラーテレビを買って送り届けたことがある。そのテレビは居間の隅に置かれたままになっていた。蛍光灯を吊してあった鎖の片方が切れてぶらぶらしている。仏間の鴨居には明治天皇が結婚した時の写真が掛けられていたはずだが、風に吹き飛ばされ視線の届くところにはなかった。祖父が元気な時分だったら考えられない光景である。

 前に一度、姉から「家にある物で欲しい物があれば持って帰ればいい」と連絡があった。姉夫婦も弟夫婦ももちろんだが、正男にとっても交通費までかけて、家にある物を持って帰るほどの高価な物はない。金さえ出せば店には品質がよくて、しかも値段の安いものがあるだけに断った。

 以前、正男は福岡へ出張した際、足を伸ばして母親の入所している施設まで見舞いに行ったことがある。田植えの時期だったこともあって「早く帰って田植えをしなければ」と、わずかな時間に何度となく口にしていた。帰り際に「何事をするのも十年同じ仕事をしないと一人前になれんから辛抱せい」と、母親から五十を過ぎていた正男に諭すように言い聞かされた。言い回しこそ違っていたが、この言葉に似たことを子どもの時分から何度も聞かされた記憶が残っている。

 母は元気な時に、子どもや孫たちが泊まりにきた時のために、自分たちはせんべい布団に寝ていたが、綿入れの布団や毛布を何組も用意し、慶弔時のためにと食器を一式、三十組用意していた。家族のアルバムや、正男が小学校の時にもらった六年間の皆勤の賞状や姉がもらった学習優秀賞の賞状は、後生大事に仏壇の引き出しに仕舞い込んでいたが、見る影もなかった。

 実家の形をかろうじて保てるのも、長くて四、五年であろう。台風でも直撃されれば瞬く間に押し潰され跡形もなくなってしまいかねない。正男はできることなら自分の寝場所が確保できれば、実家に泊まってもいいと思い、フィルムを一本買い足して持ってきたが、足しにならずじまいだった。

 正男はその場に突っ立ったまま、もう一度仏間に向かって手を合わせた。クモの巣が張れ巡らされた実家の奥から、聞こえてくるはずもないのに、どこからともなく盆踊りの口説きが聞こえてき出した。正男は金縛りにあったように、その場に立ちすくんだまま盆踊りの口説きを聞いていると、硬直していた体が次第に解きほぐされ心が和んできた。

 この声はどこかで聞き覚えがある。そう思ったら、喉を鍛え抜いた粘りのある祖夫の語調であった。それに合わせるように、祖母のリズミカルな囃子の声が聞こえてき出した。正男は自分では涙が出しているつもりはなかったが、哀愁の染みこんだ声に誘われ目頭が熱くなるの覚えた。

       ※ 

 祖父が享年七十五歳で亡くなったのは、正男が大阪へ就職した翌年の、しかも年末の迫った雪の舞う夜であった。正男にとっては父親が復員してくるまでは、祖父というより父親的な存在だった。

 初盆の家庭では、坪庭の中央に縁台をおき、口説き手がたちが集まり、戸主から「よろしくお願いします」と口説き手の長老者に頭を下げ、そこで唐傘を渡される。唐傘を渡された口説き手は「千本搗き」の門入り踊りから始まる。


  東西南北おごめんなされ

  ハレワイサー、コレワイサー

  家ござるか、ご主人様よ

  ヨイトコセノヨイーワナー

  アレワイサーコレワイサ

  (ホイ)ヨイトコナーナ

  家にござれば、お願いがござる

  ハレワイサ、コレワイサ

  風の便りでうけたまわれば

  〈以下の囃子は同じ〉

  どこかこちらの、ご父堂様の初盆そうでよー

  さぞやご家内、おさみしゅござろう

  みんな心をうちよせまして、今宵一夜を踊ってあげよう

  坪は貸してもらうが、お世話はいらぬ

  ・・・・・ ・・・・


 仏壇前の両脇には親戚一族から供えられた提灯や盛り篭が所狭しと置かれ、その中央にお膳が置かれ、これまで故人に関係のあった者たちが飲み食いしながら、踊りの輪を見守っていた。中には盆踊りの口説きに加わる者もいれば、踊り手の輪に加わる人もいた。

「じいちゃんは踊りが好きだったので、賑やかに踊ってもらうのが一番の供養になる」と、祖母は酒を注いで回りながら声をかけていた。正男はここ、二、三年踊ってなかったが、踊りの輪の中に入って、見よう見まねをしている内に、自然に手足が動き出してくる。

 踊りの輪の外には、お盆に帰省した者や地区の人たちが、それぞれ一塊になって飲み食いしながら談笑していた。町に働きに出ていた人が結婚して、相手を連れて帰ってくる者もいれば、嫁いだ先で生まれた子どももいた。

 盆踊りは千本搗きで始まり、千本搗きで終わる。


  そこれ連中さんにゃ、願いがござる

  もはや今夜も、だいぶんおそい

  こちらのご主人にゃ、おいとまもらい

  我が家我が家と、引き取りましょう

  千秋万歳ちゃ、この珠よ

  千秋万歳、唐傘おさむ

どなた様にも、お世話になりました

  次の合いの手で、唐傘たたむ


 この一声で祖父の初盆の供養踊りの輪が崩れた。

「みなさんのお陰で義父の供養ができました。」と、主人である一作のお礼の挨拶で、踊り子たちは次の初盆の家へ移っていく。

       ※ 

 祖父が元気な頃は、正男は盆踊りだけでなく、どさ周りの田舎芝居を見に祖父の背中に負んぶされて連れて行かれたものだ。義理や人情話になると、あちこちから野次が飛ぶ。ことに継母親に育てられた子どもが、健気に家の手伝いなどしていると「そんなことまで、子どもにさせるもんがあるかい」と祖母は本気になって、継母を叱りとばしていたものだ。中入れになると、自分は食べなくても竹の皮に包んで、楽屋裏まで手作りの煮物やいなり寿司を、継母からいじめられた子どもに差し出していた。

 そうかとおもうと、両親の反対を押し切って、極道の道に染まり、父親の死に目にも会わずに放蕩していた息子が、風の便りに聞きつけて、自分の住んでいた地区まで帰ってくる。昼間は人目につくので日の落ちるのを待って家の前まで帰ってくるが、家に入れずにそのまま引き上げかかる。老婆はそれをやぶれた障子の穴から見ているが、呼び止めようとしない。

「親の気持ちが分からんのかい」と焼酎の入った老人が本気で叱りとばす。祖父は飲みかけの焼酎を手にしたまま「いいかげんに足を洗って、母親に頭を下げれば、今なら許してくれるぞ」と舞台のそでまで立っていき説教していた。役者と観衆とが一体化する時間であった。祖母は日焼けした顔を真っ赤に染め、皺伝いに落ちる涙を素手で拭いていた。

 盆踊りを祖母から正男は習ったわけではなかったが、同じ年頃の子どもたちに比べると、とうてい真似のできない手足の動きの踊りだった。

 盆踊りは初盆の家はもちろんだが、三日前には地蔵供養踊りから始まって、十三日はその年に亡くなった方の供養踊り、十七日は観音供養踊りと続き、最後は二十一日に弘法供養踊りがおこなわれる。地区の人たちは弘法様の日は、午後から地区ごとに当番に当たった家が子どもたちに、簡単な手料理で接待するのが習わしであった。正男たちは家の者から一円札を戸数分ほどもらって、地区ごとに当番に当たった家を、順番に出かけていっては手料理や駄菓子をもらっていた。夜は今年の盆踊りの納めということもあって、いつもになく口説きの人たちも日頃踊り慣れない音頭をとって、夜中の十二時を過ぎることは毎年のことである。

 ことに正男の子どもの時分は盆も正月も旧暦で行われていたので、正月が三学期に入っていることが多い。盆も夏休みが終わり九月に入っていることもあっただけに、弘法様の供養踊りの時分の夜ともなると、半袖姿では夜風が寒く感じられることもある。丸かった月も欠け、同じ盆踊りの口説きであっても、子ども心に秋の匂いの含まれた夜風に当たり、これで今年の盆踊りも終わりかなあと思うと別れが辛かった。

 盆踊りの口説きは少なくとも十四、五種のものがあった。その中でも千本搗き、左右衛門、三つ拍子、トコヤン、マツカセ、サッサなどがある。

 地区の者にとってはお祭り以外には、大きな娯楽はない。嫁いでいく先も同じ地区内か隣り地区ぐらいの狭い社会の中で生活が強いられていた。その中で盆踊りは、単なる祖霊供養行事を越えて、若者にとっては大切な娯楽の場であり、男女の交流の機会でもある。

 そのことが盆踊りをますます興隆させ、唄い継がれ、踊り継がれてきた。踊りは品よく、口説きは流暢に、いわば集団見合いの色合いが強よい。

 初盆の家庭では大抵が八月十三日の夜、供養踊りが行われていた。地区の多い時期は二十戸近くあったから、初盆がない年はまれで、多いときは四、五戸あったことがある。一戸が一時間踊ったとしても、中入れや次の家まで移動を入れると三十分はかかる。明け方までなることもめずらしくない。

       ※ 

 父親は三日と酒をやめなかった。母親が愚痴れば父親は倍になって飲む。

「こんな飲ん兵衛と一緒になったばっかりに、一生苦労がたえん」

 母親は腐す。夫婦喧嘩は絶えない。正男の目から見て、この頃、父親はただ好きだから飲んでいるのではないような気がしてならない。酒の力を借りて積もり積もった鬱積をはらしているとしか受け取れなかった。深酔した翌朝などは、目は落ち窪み、顔からは血の気が引き、目が覚めるが早いか空咳をしていた。弁当を腰に下げて仕事に出る後姿など、五十盛りの男とはどう見ても思えない。母親が悪態を並べたてると、父親はその場で一喝した。

「お前らに、俺の気持ちが分かるか。黙れ」と、この短い言葉の底に、父親にしか分らない心の傷痕がついているように思えならなかった。

 母親が夜なべ仕事で編む炭俵は一俵二十円であった。編み上げるまでに三、四十分はかかる。野良仕事の合い間に茅を切っておく。母親の編む茅の擦れ合う音を聞いていると、床下で啼く地虫の声によく似ていた。

 同じ屋根の下で生活していながら、家の者は個々ばらばらであった。仲陸まじい親子の対話もなければ、夫婦の笑いも見られない。

 その点、姉は飲ん兵衛の子にしては、成績が良い上に親孝行者だった。姉は中学を卒業と同時に、区長の世話で隣り村の造り酒屋に住み込みで働いていた。職種は事務員であったが、食事の世話から家の洗濯、掃除までさせられていたのである。世話をしてくれた区長に言わせれば「他人の飯を食わねば家にいてもしつけができない」と、恩着せがましく言うが、それは、表向きな理由であって、内情は違う。姉は借金の穴埋めでもあったし、口減らしでしかなかった。

「何も言わず辛抱してくれ。その内に正男が中学を卒業したら、必ず暇取りにいくから・・・」と、母親が夜なべ仕事をしながら姉に言い聞かせていたのを、正男は側で聞いたことがある。察しの早い姉は、むしろ自分から進んで働きに出ていった。父親はその晩もヘベれけに酔っ払って帰ってきた。

正男は両親から事あるごとに、下田家の長男であることをことさら強調され、家に残って父親の大工の仕事を覚えながら、そのかたわら百姓するようにと言われていた。当の正男自身は、両親の意見とは真反対で、口うるさい親元や古いしきたりを重んじる家、世間体ばかり気にするこの地区から逃げ出す機会を狙っていたのである。

 中学三年になって間もなく、進学するか、それとも就職するか決めなければならず、三者面談がもたれることになった。これまで正男はいくらこの家が嫌いだからといって、逃げ出す勇気もない。そうなれば卒業という機会を狙うしかない。

 その絶好のチャンスがやってきた。

 父親はこれまで授業参観に、仕事が忙しいという理由で、ただの一度も顔を出したことがないし、大工仕事が途切れているからといって顔を出すような人ではない。

 正男の家は父親より母親の意見が強かったが、こと自分の事に関しては、姉や弟に対する一方的な押しの強さとは違って、どちらかというと優柔不断なところがあった。正男が将来のことを相談しても「自分の好きなようにすればいい」と言っておきながら「お父さんとよく相談して決めない」と父親の指示に従わせるような、ちぐはぐなことを言う。

 正男は早くから母親を通して、父親の意見を聞いてもらう事にしていたが、三者面談が催されるという前夜まで、話は宙に浮いたままになっていた。

 正男はこれまで父親に対し、正面切って口答えした覚えはない。ところが、今度の就職が具体化し始めた直後であった。自分でも思いもしないことを、この時とばかりに言い募った。母親は涙ながら正男の口を塞ごうとするが、火に油を注ぎかけるようなものだ。今まで自分の中に積もり積もったごみを焼き払うかのように捲し立てた。

「俺は誰が何と言おうと、この家を出ると言ったら出る。俺がこの家を継がなくても弟がいる。俺はこの家にいてもいなくてもいいようなものだ。もうこれ以上・・・」

「正男、黙らんかい。それが親に向かって言うことかい」

 母親は必死になって正男の口を制止してきた。父親は煙草ばかり吸っていて相手にならない。正男は相手が聞こうと聞くまいと腹にたまっているものを一通り吐き出してしまわないと気分が鎮まらなかった。

「別に俺がいなくても悟さえおればいいじゃないか」

 正男と母親の激しい口論が続いた。両親に向かって、正面切って反抗したのはこれが最初で最後だった。

 母親は父親の顔色を窺いながら遠回しに「正男はあんたの跡を継がせた方がいいかなあ」と、焼酎を注ぎたしながら切り出した。正男は父親の意見を聞く前に、その場から逃げ出したい衝動にかられたが、他の人のことではなく自分のことだけに、ここはどんな悪態をつかれようと耐えるしかないと、腹を決めていた。父親は黙ったまましばらく焼酎を飲んでいた。母親も祖父母もその場にいたが、珍しく他人事のように固く口を閉ざしたまま、父親の出方を待っているようであった。

「あえて大工仕事をしたくなかったら、することはねえ」と父親は抑揚のない口調でぽそっともらし、コップに残っていた焼酎を一口で煽り、自分から席を立っていった。正男は一波乱あると覚悟していたものの、当てが外れた。

 こんなに丸くおさまるとは、正男はもちろん母親も、そこにいた祖父母も、顔を見合わせ無言の視線を交わしていた。母親は父親の背中に向かって「じゃ、正男の好きなように決めてもいいじゃなあ」と念を押した。

「俺がとやかく言う前に、お前たちの間で話は決まっているじゃだろうから」と、父親はたっぷり皮肉のこもった言葉を投げ捨てるなり立ち去った。あっけない幕切れだった。正男は子どもなりに父親と母親との短絡的な言葉の遣り取りの中から、埋め合わせることのできない溝が生じていることがあるくらい読めた。

        ※

 三者面談の結果、正男は学校の世話で大阪の自動車整備会社で働きながら、夜間高校へ通うことに決まった。提出書類の中に戸籍謄本が必要であった。早速、正男は学校帰りに村役場へ取りに行った。そこで、正男は始めて自分の家族の戸籍謄本を目にしたのである。

 とたん、予想だにないことが記されていた。父親の欄が空白で、母親の欄に、下田ツルと記されていた。

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