風が哭く

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〈風が哭く〉梗概

 この作品は、還暦を迎えた、主人公である下田正男の視点から描いてみた。

 正男は田舎の中学校を卒業し、集団就職で大阪の自動車整備工場で働くことになる。還暦を機に、田舎で同級会が催されるため、父親の葬儀以来、十八年ぶりに実家へ帰ってみる。

 祖父の死後、祖母が亡くなり、父親も数年後に亡くなる。家は母親一人になるが、歳には勝てず、施設に預けられる。わずか数年足らずで、家の周りは雑草に覆われ廃屋同然になり、家の中へ入ることすらできない。正男は実家の玄関前に立って過去を回想する。

 正男は姉や弟のように、戦地から復員してきた父親に対して心が通わず、逆に溝は深まっていくばかりである。その一つの理由は、姉は父親が戦地に出征する前に生まれ、弟は復員した後に生まれたが、正男は戦地に出征している間に生まれたのである。家族の者は「母親のお腹の中にいる時に父親が出征したから・・・」と口を揃えて言う。正男も信じて疑わなかった。ところが、それを覆す事実が出てきた。

 その中の一件として、正男は中学卒業後就職する際、戸籍謄本を村役場へとりにいった。そこで見たものは父親の欄が空白になっていたことだ。それを裏打ちするように、祖父の初盆の供養踊りの最中に、一人の老人から「血は争えない」と言う父親以外の人の名前を聞く。それ以来、正男は父親の子どもではないのではないかという疑いを抱く。

 正男の生まれ育った地区は、家も人口も半減し、空き家になり、ネズミやクモの住み処になってしまいつつあった。正男は自分の生い立ちに思いをはせながら、古くから踊り継がれている盆踊りを重ね合わせ、愛着や哀愁を織り交ぜ、高齢化が進み、地区の様子が様変わりしていく姿に、メスを入れてみた。


風が哭く

 雲の塊が移動するたびに切れ間から夏の日差しが降りそそいでくる。下田正男は実家の前に辿り着いたとたん自分の目を疑った。姉弟から事あるごとに「独り暮らしの母親が施設に入所してから八年になるが、今では実家に帰っても足の踏み入れ場もない」という話は聞かされていたが、ここまで荒れ果てているとは思ってもみなかった。正男は実家の前に突っ立っていたまま、自分の意志とは関わりなく、視界がランダムに動き回っていた。

 急きょ、正男が実家に戻ることになったのは、還暦を機に中学の時の同級会が、八月十四日に実家近くの温泉場で催される通知を受けたからである。最初は(欠席)で返事を出した後、このチャンスを逃したら、正男自身、三年前に大腸癌の初期とはいえ手術を受けたこともあり、この先いつ、どうなるか分からない。それに、何か用でもなければ実家へ帰ることはない。せっかく近くまでいくのであれば足をのばし、この機に写真の一枚でも撮っておこうという思いにかられ、発起人に追加で「出席」する主旨のを記して返信を出したのである。

        ※       

生まれ育った古城地区に正男が帰ってきたのは、父親であった下田一作の初盆以来であった。ということは、正男が厄年であったから十八年振りということになる。

 昭和二十年十二月九日、父親が戦地から復員してきた。正男は数えの六つだった。今でも記憶に残っているのは、家の前の大勢の人垣の間から、始めて見た父親の顔である。父親は正男と視線がぶつかるなり、開口一番「あの子はどこの子かい?」と、傍にいた父方の祖母に聞いていた。

「何をとぼけたことを言いよるかい。父ちゃんが戦地にいった後に、お前が生れたんだ」と、祖母は古城地区の人たちの目をはばかりながら言った。側にいた人たちは顔を見合わせて黙った。母親はその場にいたたまれずに、後ずさりながら炊事場へ引き上げ、お茶の用意にかかった。

 その日の夜は遅くまで、親戚や地区の人たちが集まって酒盛りがおこなわれていた。正男は納戸の奥に引っ込んだまま、障子の隙間から父親の一挙一動を見守っていた。父親は姉を膝の上に抱き、焼酎を酌み交している。あの馴れ馴れしさはどこからくるのだろうか。正男には不可解であった。母方の祖母は納戸にいた正男の傍にやってきて「正男、そんな所で何をしている。お前の父ちゃんだよ。父ちゃんと言って抱かれろ。何も可笑しがることはねえ。さあ、早く…」と、正男の手首を掴んで連れ出しかかったが尻込みして動こうとしない。正男は恥ずかしさもあったが、姉のように自分から父親の膝の上に馴れ馴れしく上がる勇気がない。

「いい、後からいく」と、正男は邪険に言ってのけた。祖母はくもった声で「こん子ときたら困ったもんじゃ」と、悔やみごとをぼやきながら、いつもの自慢話をする時のような誇らしい笑みは消え失せたまま納戸を出て行った。祖母が何故あのような哀しい顔をしていたのか、子ども心の正男は知る術もない。

 父親が戦地から復員してきた当時、正男は「おっちゃん、おっちゃん」と呼んでいた。すると、母親は目の色を変え、その場で言い直させた。正男と父親との間に子どもには理解できない溝が生じていたとしか思えない。父親は父親で自分から正男を抱き上げたり、用がなければ声をかけてくることはまずない。正男も母親から叱られるから「おっちゃん」のことを「父ちゃん」と呼んではいたものの、口になじまず、とっさの時は「おっちゃん」と口が滑ることがある。

 正男の下に七つ違いの弟が生まれた。弟は父親をコピーしたように目が小さく、唇が厚いところまでよく似ている。地区の人たちは顔を合わせるたびに「一作さん、諭さんはあんたの子に間違いねえよ」と、からかう。

「こればかりは、どうか分からんばい」と父親は他人事のように笑ってすませていたが、その実、顔を綻ばせて喜ぶ。正男のことは地区の人たちは申し合わせたようにおくびにも出さなかった。

 父親は古城地区では数少ない大工職人であった。腕はいい。真面目に働きさえすれば、五人の家族が食べることぐらい事欠かないが、焼酎が好きで昼間からでも飲んでいた母親は事あるごとに「焼酎を飲むなとは言わん、ただ、自分の体を壊してまで飲まんでもよかろうに」と、遠回しにぶつぶつ言っていた。

「お前からとやかくいわれるこっはねえ」と、父親は強い口調で反発しながら、飲んでいた。ところが胃を手術してからというもの、自分の手の届く位置に焼酎瓶が置かれていても、父親は口をつけようとはしない。

       ※ 

 かつて古城地区は多いときは二十数軒あった。それが今では半数近くが空き家になっている。その内のまた五戸が独り暮らしの老人である。子どもたちは町に出ていて、帰ってきて先祖代々続いた田畑を受け継いで百姓をするような奇特な者はいないのが実情である。そうなると、老人が施設へ入れられたり、病気で亡くなれば、正男の実家と同様に、家屋は遅かれ早かれ風雨にさらされながら雑草に押し潰される。数年もしない内に、焼けこけた竈の石が残っていればいい方である。

 実家の祖父母が亡くなってからは、両親の他に姉弟が三人いたが、三つ違いの姉は嫁ぎ、七つ違いの弟も結婚し二人の子どもがいた。弟の嫁は一人娘であったということで、実質的には養子に取られたようなものだ。

 実家では両親二人の生活が数年続いたが、父親は焼酎を止めず肝臓を患って亡くなった。母親はしばらく独り暮らしをしていたが、年には勝てずに八十を過ぎた頃から物忘れがひどく、食事は不規則になり、火の始末も心配になってきたので、姉と弟が相談して老人施設に入れることになった。

 もともと母親は施設に入るのを拒んでいた。そのため姉と弟が「元気になればまた帰って、百姓をすればいいじゃないか」と宥めすかして施設に預かってもらうことになった。ところが、一度入所したら、面度を見てくれる人が現れない限り退所できない。姉は嫁に行っている立場であり、姑が元気だったこともあって、じぶんの思い通りにはならない。弟は嫁の家に入り込んでいたので、相手方の許可がない限り、自分の意志は通用しない。

 これまで正男自身も母親に「大阪に出てくれば」と何度か声をかけてはみたものの「マンション生活なんか檻の中に入れられたようなもんだ」と、言って正男の嫁の母親が亡くなった時、一泊したきりである。嫁の父親が亡くなった時などは、始発の新幹線でやってきて、葬儀が済むなり最終便の新幹線でとんぼ返りするくらいだから、いくら声をかけてもくる気は毛頭ない。

 正男は中学を卒業して、集団列車で大阪の自動車整備会社に就職した。実家で生活したのは、生まれてから中学校へ通うまでの十五年間だけである。時間的なことで判断すると、大阪の生活の方が長くはなっていたものの、故郷へ対する郷愁や実家への愛着は、計り知れないものがある。

 この度の同窓会は、正男にしてみれば願ってもない機会だっただけに、予定よりも一日早く夜行列車で大阪を発った。

       ※ 

 同級会は夕方の六時からということで、正男は最寄りの中津駅から、小一時間かけて、当時通っていた小中学校の跡地までタクシーを飛ばした。時間はたっぷりある。正男は前々から小中学校の通学路だった道を、歩いてみたいと思っていたが、忙しさに紛れてそのままになっていた。

 今回はいい機会だ。通学路を歩いて実家まで帰ってみることにした。当時は牛馬が通れるほどの道幅があったが荒れ果て、通学路の側を流れていた谷の水も涸れ、野の草木に覆われて人が通れる状態ではない。それでも、所々、当時の記憶を刻む岩や椎の木が残っていた。正男は草藪を払って椎の木の所まで行ってみると、獣道と化された跡がかすかに残っていた。それ以上、奥の道に入ることは雑草に遮られて無理である。

 期待していた小中学校は、当時水路を隔てたところにL字型で校舎が建っていたが、町村合併により統廃合され、跡地は村の共有地として杉が植えられていた。当時の面影といえば苔むした門柱が、掘り出された石に混ざって積み重ねられてるだけである。

 顔見知りの人に出会わないように、遠回りであったが古城地区の人たちが共同で使用していた溜め池の側を通って帰ることにした。飼い犬が地区の人でないことを嗅ぎつけて吠え止むのを待って、地区に足を踏み入れた。

 背丈ほど伸びた雑草を、杖代わりに使っていた棒切れで振り払いながら実家の玄関まで辿り着いた。戸口の横に掛けられていた、家族の名前が書かれたプラスチック板は風に吹き飛ばされて、庭の隅に転がったままなっていた。そこには戸主であった祖父の名前、下田大介、妻のマサと続き、父親の一作、母親のツル、姉の美佐、正男と続き、弟の悟と書かれていた。正男はところどころメッキの剥げ落ちた部分あったが、その部分を塗り合わせることで正確に読み取ることができた。

 正男は玄関に手をかけてみたものの、ガラス戸はとこどころが割られ、軒は傾き、手をかけてみたものの、一人の力では開きそうにない。正男が十五年間生まれ育った家である。どちらかといえば笑って過ごした生活よりも、辛いことや哀しいことの方が多かったが、長い間に自然に消えて、残された柱や壁に懐かしさだけが染みこんでいた。

 正男は家の中へ入るのを諦め、玄関の前で姿勢を正し、仏間の方向に向かって両手を合わせたまま題目を三唱した。

 祖母の父親だった曾祖父親が娘の結婚記念に植えたというサルスベリの木は残っていた。伸び放題になっていた枝先に、小さなピンクの花房をつけていた。その先にショウロウトンボが一匹止まったとたん、方向転換したところで正男と目が合った。ショウロウトンボは見慣れない顔だと思ったのか、大きな目玉をくるりとさせるなり秋風の混ざった夏の空に飛び立ったきり、舞い戻ってくることはなかった。裏庭には石楠花の老木もあった。祖父は花の時期になると、自分の方から通りがかりの者に話を持ちかけて自慢気に見せていた。その石楠花も枝葉を落としてしまい、主幹の部分を残し、もう二度と花をつけるような勢いは感じられない。正男はガラス戸の割れ落ちた隙間から、祖父が元気な時に杉の山を売って買った仏壇の開き戸も半開きになり、ネズミの住み処に占領され、風が家の中を通り過ぎていくたびに油の切れた鈍い音をたてている。座敷の畳も広間の畳も雨漏りし、床は所々落ち、ぼこぼこに痛み自由に歩ける状態ではなさそうだ。母親が内職で炭俵を編んでいた側で、正男と姉が小縄をなっていた土間には、藁葺きの煤が落ちて四方に散りばめ、足の踏み場もない。居間に目をやると、母親が元気な頃「テレビが古くなったので買い換えたい」という話を聞いた正男が、大阪から二十一インチのカラーテレビを買って送り届けたことがある。そのテレビは居間の隅に置かれたままになっていた。蛍光灯を吊してあった鎖の片方が切れてぶらぶらしている。仏間の鴨居には明治天皇が結婚した時の写真が掛けられていたはずだが、風に吹き飛ばされ視線の届くところにはなかった。祖父が元気な時分だったら考えられない光景である。

 前に一度、姉から「家にある物で欲しい物があれば持って帰ればいい」と連絡があった。姉夫婦も弟夫婦ももちろんだが、正男にとっても交通費までかけて、家にある物を持って帰るほどの高価な物はない。金さえ出せば店には品質がよくて、しかも値段の安いものがあるだけに断った。

 以前、正男は福岡へ出張した際、足を伸ばして母親の入所している施設まで見舞いに行ったことがある。田植えの時期だったこともあって「早く帰って田植えをしなければ」と、わずかな時間に何度となく口にしていた。帰り際に「何事をするのも十年同じ仕事をしないと一人前になれんから辛抱せい」と、母親から五十を過ぎていた正男に諭すように言い聞かされた。言い回しこそ違っていたが、この言葉に似たことを子どもの時分から何度も聞かされた記憶が残っている。

 母は元気な時に、子どもや孫たちが泊まりにきた時のために、自分たちはせんべい布団に寝ていたが、綿入れの布団や毛布を何組も用意し、慶弔時のためにと食器を一式、三十組用意していた。家族のアルバムや、正男が小学校の時にもらった六年間の皆勤の賞状や姉がもらった学習優秀賞の賞状は、後生大事に仏壇の引き出しに仕舞い込んでいたが、見る影もなかった。

 実家の形をかろうじて保てるのも、長くて四、五年であろう。台風でも直撃されれば瞬く間に押し潰され跡形もなくなってしまいかねない。正男はできることなら自分の寝場所が確保できれば、実家に泊まってもいいと思い、フィルムを一本買い足して持ってきたが、足しにならずじまいだった。

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