風が哭く

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「そんな馬鹿な!」と、正男は無意識に言葉となって口を突いて出てきた。

「どうかしましたか?」と村役場の職員から声をかけられた。正男は両手で否定するなり外へ飛び出した。正男は周りを一巡し、人気のないことを確かめて、もう一度戸籍謄本を出して、一字一句見落とさないように目を通した。紛れもなく父親の欄が空白になっており、続柄の欄が長男でなく、ただ「子」と印されていたのである。二度、驚いた。

 正男は透かして見ようと、裏から見ようと父親の名は出てこない。消した跡もないし、書き忘れたとも考えられない。その横の欄に目を移したところで、また驚いた。弟の悟の欄が弐男ではなく、長男と記されていたのである。

「可笑しい。可笑しい」と九官鳥が言葉を覚え始めたときのように、正男は口の中でぼやきながら当てもなく歩いていた。村役場前のバス停を通りこし、丸山小学校前のバス停に立っていた。

 バス停に三十過ぎの女性が三、四才ぐらいの女の子の手を取って、バスを待っていた。女の子は自由になる方の小さな手で、空から落ちてくる綿雪をしきりに掴もうとしている。

 空はどんよりと曇り、綿雪は垂直に落ちてくる。正男は防寒コートを脱いでいたのを忘れていた。間もなく米田駅行きのバスがやってきた。女は娘を抱きかかえるようにして乗り込んだ。バスの運転手はクラクションを二回鳴らし、黒煙をまき散らして出て行った。

 バスが体育館の角を曲がるのを正男は見届けて、逆方向へどこへいくともなく、その場を逃げ去るように早足で歩いているかと思うと、ふっと立ち止まって考え込んでいることもある。

 もしかしたら戸籍謄本のとおり、自分は父なし子ではあるまいか。いや、そんなはずはない。何かの間違いとしか考えられないと、都合のいいように考えてはみるものの、そんな初歩的なミスをするはずはないと、その場で打ち消されてしまうのであった。

 このまま家に帰る気がしない。誰の顔も見たくない。正男は自分なりに納得いく結論を見い出さない限り、心を偽り、何ごともなかったように、両親の前で演技するだけの図太い神経は持ち合わせていなかった。

 村役場を出た時には絶え間なく降っていた雪も、古城地区の溜め池がある所まできた所で止んでいた。正男の乱れた呼吸が正常になりつつあったが、心の動きまでは鎮まっていない。

 正男は今、自分がなぜこの位置に立っているのか分からなかった。正男は当てもなく溜め池の周りを歩き、湖面に映っている冬景色を見ているうちに不思議と心が和んできた。風が吹くたびに、木々の枝に積もっていた雪が落ちて、白い粉をまき散る。

 確かに人の呼び声がした。雪の落ちた音ではない。母親のだみ声に似ていたのはいたが、正男がここにいるのを知る訳がない。ましてや父親が探しにくるようなことはまずないと、自分で勝手に決めつけているところがあった。

 正男は溜め池の周りを一巡しながら、十五歳になった頭であれこれ、過去の経緯を繰ってみたが、自分を納得させるとこまでは辿り着かない。やはり自分は父親の子ではないのだろうか。だからといって、今さら母親を責めても始まらない。お互いに傷口を舐め合うめ合うようなものだ。自分がここで何も知らない振りで通せば間題はないのだ。家族の者は表面上かも知れないが、家に残って父親の大工仕事を身につけて百姓をすることを望んでいるのだから、願ってもないことではないか。と、正男は肯定してみるが、心についた傷を癒す特効薬はみつからない。

 疑えば際限がない。今の父親も本当のことは知るまい。知っているといえば母親だけである。今、この場に至っては、どうすることもできない。原因を突き詰めていけばいくほど、周りの者まで傷口を負わせることになりかねない。と、正男が自分にそう言い聞かせていく内に、高揚していた感情が、所定の位置に納まった。

 山の天気は気まぐれだった。正男は足元の雪を拳大に丸めて池の中に投げ込んだ。.対岸まで届くのではないかと思っていたが、池の中程までしか飛ばなかった。水面に落ちた自分の黒い影が大きく揺れる。粉雪交じりの寒風が遠慮無く正男の頬を撫でていく。諦めたつもりだったが、正男は月明かりの下でもう一度、戸籍謄本を出して見直した。

「ええ、これはおかしい、自分の見間違いだったのか」

 正男は目を近づけて見ると、空白になっていたはずの父親の欄に「下田一作」という文字が黒々と印されていた。正男はしきりに瞬きした。

 こんなことだろうと思ったよ。と正男は自分の早とちりを責めた。

 それにしてもおかしい。確かに空白になっていたはずだ。と正男は戸籍謄本を上から下から、表から裏から眺め回した。すると、その内に黒々と印されていた「下田一作」の名前が、二重になり、三重になり、次第にぼやけて何をする問もなく消えてしまった。

 ほんの束の間の喜びだった。正男は雪の上に座り込んだまま、地を叩いていた。

 これで何もかもがふっ切れた。正男の顔はかつての明るさに戻っていた。水面に残響した声が消えると、何ごともなかったように凜としていた。

 溜め池を下りる正男の足は軽かった。地区の入口にさしかかったところで、提灯の明りが目に入った。正男の口から思わず声が出かかったが、母親の方が少し早かった。

「正男かい」

「・・・」 、

「たいてい心配してたよ」

 母親は提灯の薄明りの中で、ぐちゃぐちゃに歪んでいた顔で笑った。正男は母親に、父親の名前を聞き出そうと思ったが、その気持ちは頬に当たった粉雪のように瞬く間に消え失せてしまった。

「お前はもう子どもじゃないんだ。少しは母さんの気持ちも分かっておくれ」と、母親はぽつんと言ったつもりだったろうが、声が震えて最後まで聞き取れなかった。

 雲の切れ間から覗く冬の星が、二重三重に正男には重なって見えた。

       ※ 

 不幸は続くものだ。正男が大阪へ就職した翌年、祖父が亡くなった。享年六十五歳だった。医者へ罹ったらと祖父に勧めても「自分の体は自分が一番よく知ってる」と、片意地を張り、亡くなる三日前に村医者に診察してもらい、最後の薬まで飲み終わらずに亡くなった。

「なぜ、もっと早く連れてこなかったのか」と、村医者から叱られたらしい。死因は悪性の胃潰瘍だったという。

 父方の身内の者たちから「あんたの責任ではねえ。爺さんは頑固もんだったから、自分で自分の命を縮めたようなもんだ」と口々に言って祖母を慰めてくれるが、本人が嫌がっても強引に連れて行けばよかったと悔やまれる。正男は今でも忘れることはない。祖父から口癖のように「長い間にはいろいろなことがあるが、男の子はめそめそするもんじゃねえ」と、よく言われたものだ。正男はまた祖父は同じことを言っているくらいに聞き流していたが、この歳になって真意が分かれば分かるほど、言葉の持つ深さが読めてくる。

 もう二度と、正男は祖父の大きな背中に負んぶされ、あの汗臭い匂いを嗅ぐことはない。盆踊りの十八番だった抑揚にきいた「六調子」の口説きも聞くことはなかった。


 やろうなやりましょうか、六調子やろうな

 アヨーヤセヨヤセ

 親の代から、桝屋をなさる

 アヨーヤセヨヤセ

 他人に貸す枡は、八合の枡よ

 アヨーヤセヨヤセ

 家に取る枡は、一升に余る

 ・・・・・・


 正男は祖父の枕元で唱える枕教のリズムや、屍を焼く薪のパチパチ弾く音が、六調子の口説きに聞こえるのであった。

 祖父の十三回忌をすませた後、祖母は享年七十二歳で息を引き取った。正男は大阪から着の身着のまま祖母が入院していた病院に駆けつけた。祖母は正男の帰りを待っていたかのように、酸素呼吸のマスクをつけたまま「母ちゃんを大事にせんとなあ」と言った。腕に着けていた血圧計の曲線が、一旦、正常に戻ったかに見えたとたん曲線の波が小刻みになり、すーっと糸を引いたように続いた後、ぷつんと切れた。と同時に酸素呼吸の泡も、ぷくぷくと弾けて消えた。担当の医者から死を告げられた。母親は祖母の胸に顔を伏せたまま、声をたてずに涙をぽとぽとと流していた。正男は祖母の死後の処置をすませる間、廊下の窓から目に入る光景を眺めていた。

 病院と病院との限られた空間を、さまざまな形をした雲が通り過ぎていく。親戚の者たちがそれぞれあちこちに電話をしていた。祖母親のすぐ下の叔母は、夫に喪服を用意してくるように申しつけていた。正男には細かな話は聞き取ることはできなかったが、生花はしなくてはならないだろうという結論らしかった。

「正男、そんなとこに立っていないで、世話をしてやらんかい。お前がおばあちゃんには一番心配かけてるよ」と母の姉に当たる伯母から指示された。人から言われなくても分かっている。夜、休むときも祖父と祖母の間に寝ることがほとんどだった。

 地区での祖母の評判は、女性にしては気性がさっぱりしていて、くよくよするようなところはない。盆踊りだって口説きが始まっても、なかなか踊りの先頭を行く人がいないと「じゃ、わしが先に行くからついてくればいい」と男衆をさておいて踊り出すことも少なくない。アルコールは梅焼酎の梅を食べても顔が赤くなるくらい、ほとんど口にしなかったが闊達で冗談をよく口にしては、周りの者を笑わせるところがあった。

 盆踊りの囃子は踊り子が務める。声が小さかったり、間延びしていたら口説きをしている人もやる気を失う。祖母は囃子にかけても、その時、その場によって自分から囃子の文句を変えて、踊り子たちの威勢をもり立てていた。


   ハレワイサーコレワイサというところを

   ナニカココラデ、シナカエマショウナー


 と踊り子の方から口説き手に催促をしていた。


   夜もふけてきたところで、唐傘たたもうか


 と口説き手が踊り子へ聞いてくることがある。すると祖母は、自分からしゃしゃり出て囃子を返す。


ネンニイチドノ、オボンジャネエノ、ナニカシナカエマショウナー


 と、祖母は口説き手に催促する。すると口説き手も踊り子の囃子に煽られて、唐傘をたたみかけたところで、もうひとつ品をかえる。踊り子たちは疲れているが、笑顔は消えることはない。笑いながら、品をかえて踊り出す。ことに、最後の弘法様の供養踊りとなると、ついつい踊りの時間がのびる。子どもたちは目をこすりながらでも家に帰る者はいない。最後の最後まで踊りの輪の中から離れようとはしない。

 祖母は盆踊りだけではない。地区の決めごとだって「自分の利害だけいっていたら何にもきまらん。長い間には、いいこともあれば悪いこともある。ここらで話をまとめんと、いくら時間をかけてもまとまらんで」と祖父が亡くなってから、地区の常会があると自分が出席し意見を述べていた。地区の人たちは顔を見合わせながら小言を口にしていたが、最後は男衆たちを差し置いて、祖母の意見に落ち着く男勝りのところがあった。が、その祖母も病気には勝てなかった。

       ※ 

 正男は大阪へ集団就職で自動車の整備工場で働き出してから、実家や親戚で生き死にがない限り帰ってくることはない。姉や弟の結婚式は家で一泊したきりだった。正男自身の結婚式は、身内だけで挙げた。父親は入院中で出席できなかった。

 父親は養父母の死を看取って、やっとこれからという矢先に肝臓を患い、その後に、胃を三分の一ほど残して摘出してしまった。母親の言うのには酒の飲み過ぎで癌が膵臓まで転移しているらしく「長くて半年の命だろう」と申し渡されていたらしい。正男は父親が胃の手術をした際、一度顔を見せに帰った。父親はベットに横たわったまま「身から出た錆だ」と、空を見たまま口にした。正男は自分の体を壊してまで飲む父親が好きになれなかった。ところが「もう後半年の命だ」と母親から聞かされ、正男の考えがかわった。せめて好きな焼酎ぐらい飲ませてやってもよいのではないかと思うようになり、母親に遠回しに「姉や弟はどう思うか知らないが、好きなようにさせてやったら」と、言ったことがある。

「それが、あんなに好きだった焼酎が飲めんのよ」と母親は自戒の念に嘖まれたようにぽつんと言った。

 よく姉と正男は父親が焼酎を飲み出すと一人で帰れないものだから、母親から迎えにやらされていたものだ。薄暗い提灯の明かりを頼りに山道を迎えに行った。父親は焼酎が入れば入るほど威勢がよくなり、日頃は無口な人とは思えないほど、声を荒げて口論していた。これまで溜まった鬱憤を口に出せない分が、酔いが回り出すにつれて一気に噴き出す。それも相手が目上の人であろうと、どこのお偉方であろうとかまわず、不条理な事に対しては一歩もひかないところがある。すると、酒の席をいいことに相手は受け答えを避けていた。いくら父親が酔っていても言うことは間違いなかっただけに、最後は喧嘩になることが多々ある。正男と姉は提灯の明かりを手にし、父親が腰の上げるのを庭先に立ったまま待ち続けていた。正男と姉が父を連れ出そうとすると「子どもたちには関係ねえ」と怒鳴りはね除ける。自分の身の始末もできないほど酔いつぶれていても、政男や姉の言うことなど聞き入れるものではない。

 父親が出てくる時は一人で歩けない状態が多かった。正男と姉が父親の両脇を抱えて、山道を右に左に揺れながら家まで連れて帰ったことは一度や二度ではない。姉がかける一言、二言で、父親の怒りも砂時計の砂が落ちるように静まるのであった。

 医者から父親は長くて半年だろうと宣告されていたが、もともと辛抱強い正直者だっただけに、約一年近く生きながらえた。母親から「今晩が山だろう」という電話がかかってきて、正男はそのまま夜行列車に乗って帰ったが、息を引き取った後であった。父親はこれまで腹に溜まっていた不満や鬱憤を吐き出してしまったのか、死の顔は今まで見せたこともない、角の取れた丸い顔をしていた。正男が結婚し、二人の子持ちになって、父親の気持ちが読めるようになった時には、すでに時期を失していた。正男がいくら父親の名を呼びかけようと無反応のままだった。

       ※ 

 盆踊りの中に棒踊りというのがある。この棒踊りは地区の若い男女が、二人一組になって踊る。男性はタオルで頬被りし、フンドシ姿になって短い竹の棒を持ち、女性は編み笠を深く被って顔を隠し、膝から下は赤い腰巻きを巻いて、手には扇子をもって踊る。口説き文句は子どもには意味の通じない、卑猥な言葉が飛び出す。踊り手たちは囃し立てる。


今宵は、月も隠れた所で

ソレハヨカトコ、マッテタトコバイ

嫁にするなら、尻の大きい方を選べば いい

ソウチコナア、ソウチコナア

たまにゃ、つまみ食いもしてみたかろに、

オナジスルナラ、トナリノカカサンガイ イヨ


 と口説きと囃子手がかけ合いながら、男の踊り手が腰を突き出し、一回転したところで手にした棒を女性の方へ向ける。女性は手にしている扇子で棒を打ち鳴らす。一度の場合と二度叩く。一度の場合は女性から否定されたことになる。二度の場合は男性の要求を受け入れてもいい。一度か二度かは当人同志でないと分からない。

 次の口説きで、男性が一回転しながら次の女性の前に踊り出る。単純でしかも卑猥な踊りがくり返される。踊り手は未婚の男女が多いが、離婚した者や他の地区から、この踊りに参加する者もいた。中には焼酎を飲んで一杯かげんで、側にいる奧さんの手を掴んで引っ張り出して、踊りに参加する連中もいる。周りから拍手が起こる。子持ちの奧さん連中ともなると、誘われたら最初は躊躇しているが、声のかかるのを待っていたといわぬばかりにさっそうと踊りに加わる。

「そうこないと」と周りから野次が飛ぶ。笑いが渦巻く。

 この棒踊りは初盆の供養踊りこそ披露されなかったが、観音様や弘法様の供養踊りには、決まって最後のシメに踊られていた。

 待てよ。正男は棒踊りの口説きを聞いている内に、もしかしたら自分は棒踊りの晩に生まれたのではないだろうか。そうだとしたら、母親の相手、すなわち正男の父親は、一体だれだろうかと、あれこれ頭の中を過ぎる。

 父親は自分の口で、戦争にいっていた期間は五年だと言う。正男と弟とは歳が七つ違う。父親が出征したのは昭和十六年三月三十日だった。正男が生れたのは戸籍上、翌年三月二日に生れたよことになっている。

「正男が生まれたのは実際の日は、その年の一月十五日の大雪の日だった。ただ、役場へ届け出るのが遅くなったもんだから」と母親は公言していた。正男が一月十五日に生まれていれば、父親が出征する前の子であるから、実父であることが成り立つ。と結論をそこへもっていこうとする一方で、悲劇の主人公みたいに、次から次と出生の謎を創作しているもう一人の自分がいた。

 もしかしたら正男は生まれてくるはずの子どもではなかったのではないか。父親が戦争にいった間に生まれた子どもであったら、誰からも望まれず、祝福もされず、人の目を憚るようにひっそりと生まれてきたのではあるまいか。宮詣りも、初節句もしてもらえず、身内の者からも除け者扱いされていたのかも知れない。母親は勿論、実父も自分の存在はなかった方が良かったに決まっている。まして今の父親にしてみれば、口に出せないだけに精神的苦痛は大きいに違いなかった。正男は自分のような者が生まれてきたばかりに、当事者はもちろん、どれだけ周りの人たちに、精神的苦痛を与えたかしれない。

 正男はできることなら、父親の欄を炙り出し絵のように熱を加えれば、ありのままの実名が浮かび上がってきそうだったが、今更、そこまでする気は起こらない。

 祖父が盆踊りの口説きの中で


長い間にはいろいろあるもんだ

ソウチコナ、ソウチコナ


 もし、正男にしてみれば、空白になっている父親の欄に記された実父の名前より、祖父の盆踊りの口説き文句が、そのまま書かれていて欲しかった。

          ※  

 昨晩、夜半まで飲み食いしたが、目が覚めたのはいつも通り、六時三十分には目が覚めた。周りに気遣いなが床を出て、朝風呂へ入った。油にまみれた鉄屑の匂いとは違い、鄙びた温泉の町の朝のたたずまいを散策していると、子どもの時分に肌に染みついていた汚れのない空気が否応なく蘇ってきた。

「朝食の準備ができました」

 と宿の女将さんから声がかかったとたん、正男は現実に引き戻された。

「ああ、そうだったなあ!」 

正男は大阪へ帰ったら、三日後に年に一回の受けていた大腸検査へいく予約をしていたことを、ふっと思い出していた。


 終わり


 ▼正男は思い違いかもしれないが、弟や姉みたいに、父親と一緒にじゃれ合ったような記憶がない。また、父親と一つ床に入って眠った覚えもなかった。正男のひがみかも知れないが、同じ悪いことをしても姉や弟より自分の方が強く叱られていたような気がした。弟や姉の場合は、手心を加えるようなところがあった。正男が一寸でも悪戯すると容赦なく、感情を剥き出しに叱る。よく、弟と些細なことで言い争いをする。二言目は「父ちゃんに言うき」と、脅されるとたとえ正男は自分が悪くなくても、腹が立つことがあっても、父親に告げ口されることを恐れて、手を引いた。


「遺言じゃねえが、わしが死んだら、死に花はさかせんでもいいき、元気なときうまいもんでもたべたほうがましだよ」と冗談半分にいっていた。母親はそれを聞いていたので、喪主である父親に「無駄な金はできるだけかけないように」と言っていた。中には花輪や生花を飾り立てて派手に葬儀をする人がいた。そのかと思うと「せめて死に花ぐらい咲かせてやらないと可愛そうだ」という者も少なかったが、祖母はそれとはまったく逆だった。

 葬儀の華やかさを競うような風潮が残っていたが、祖父の時は別として一通りのことは自分が仕切ってやったが、生前に機会あるごとに父親や母親に「お経あげてもらったら、山でも川でも骨は撒いてもらえばいい」と言っていたのを正男も自分の耳で聞いている。

 正男は祖母にはひとかたならぬ世話になっている。どちらかというと、正男は男の子にしては気が弱い方だった。いじめられて泣いて帰ってくると、いじめた相手を責めたりはしなかった。「めそめそ女の子みたいに泣くもんがあるかい。何があった知らんが、悔しかったら同じ事を二度とせんようにせんと」と逆に叱られていた。祖母は正男の性格まで見抜いていて、意志の強い子どもに育てようと思って、心を鬼にして正男を叱りつけていたとしか思えない。決して快活な祖母であっただけに、正男が泣いて帰ったら自分から出向いていって、子どもたちの事情を聞きただして、理由もなくいじめたら叱りとばすような正義派の祖母であった。それが、何の理由も正男に聞かずして、叱り飛ばしていたところを考えると、正男は今にして祖母の心の奥深さがしみじみと感じ取れるのであった。

 祖母は自分が暇さえあれば正男を連れ出し、遊び相手をしてくれたり田畑の仕事を手伝わせていた。というり、何も仕事らしいことをしないのに「疲れただろうから、そこらで遊んでいればいい」と言って自分の目の届くところで、ひがんの一日近くの小川で遊ばせてくれていた。家に帰ると幼い頃は、自分の膝の上に座らせて、食事を摂らせてくれていた。田舎芝居や秋祭りの晩は、自分の着ていた綿入りの反転を脱いで正男の体を包み込むようにして暖めてくれていた。帰りは祖父か祖母の背中の上で、眠ったふりをして満天に散らばっている星を眺めていた。祖母は年を取ってはいたが、祖父の背中の汗臭さとは違って、祖母の背中は柔らかい布団を干したような太陽の匂いがしていたのを、今でも忘れることができない。

 祖母の死を知らされた時、正男はこれから先の自分の運命がどう変わるかまでは考えつかなかず、ただ呆然として母親の言われるままに行動を取っていただけであった。

 祖母の死が直接正男の中で寂しさを感じさせるようになったのは、仕事を終え、そのまま夜間高校へ駆け込み、授業が終えて湿り気のベットへ横になった時であった。昼間仕事している時だとか、学校で授業を受けているとはすっかり忘れているが、一人の時間になると、幼い頃の思い出ふつふつと湧き上がってくる。ことに神社に立てられている幟登りや、盆踊り口説きが聞こえて出すと、正男自身の意識の外で反応し出す。のに合わせて、田舎芝居や盆踊りの際はいつも側にいた祖父母がいないという事実を感じ取ったとたん、無性に言葉では言いしれぬ寂寥感に打ちのめされるのであった。


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