ラスト・ステージ

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※地方の競馬場に、日本でも最高齢の競走馬がいる。この馬は勝率が悪い。最後の競技である。できれば勝たせてやりたいがうまくいかない。この馬の行き先はとさつ場ある。フアンの子どもが紙で作った首飾りをつけてやる。調教師が馬からおりると、馬の目に涙を溜めていたのである。

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 場内放送を通じて、第七レースの発走馬が読み上げられた。九頭の発走馬の内、最初に読み上げられたのはタカコフサであった。そのタカコフサに乗るのは、中津競馬場に一人しかいない、女ジョッキー(騎手)である大井富子であった。

 タカコフサは十五才馬で、競争馬としては日本では最高齢馬であった。人間の年齢に換算すれば七十歳を優に越えていた。どう見ても、年齢からくる体力の減退は歪めない。富子はタカコフサに乗るたびに、これがラストステージになるのではないかと、危惧の念が頭から離れなかった。競争馬は一旦、馬場(コース)に出たら、ただ走ればいいというものではない。制限タイムが課せられている。ダートコースだと一着馬より五秒遅れたら、一ケ月間の出場停止になる。馬はもちろん、その馬に乗ったジョッキーにとっても不名誉なことであった。

 これから、馬のウォーミングアップを兼ねた馬場の点検が行われるところだった。富子が身につけている乗馬服は、格子縞や縦縞模様のような派手さはないが、白地に朱色の星型を散りばめた単調なデザインであっただけに、遠距離からでも見分けられる。

 いつ、一太がやってきたのか、馬場の出入り口に張り巡らしてある金網の柵によじ登って、コースへ入っていくジョッキーたちを見守っていた。そこへ、母親である富子の乗ったタカコフサがさしかかったところで、

「母チャン、シッカリ頼ムデー」と一声かけるなり指笛を吹いた。一太はいつ見ても上着のボタンが一つ、二つ外れていた。いつもであれば、富子は白い八重歯を覗かせて笑い返すのであったが、今日のレースにはそんな余裕はない。富子が所属している山田調教師から申し渡されていた。

「タカコフサにとっては、勝っても負けても、このレースがラストステージになるのだからな」と。

 山田調教師はタカコフサのレースが決定してからというもの、他人任せではいられないのか、側に付ききりで世話をやいていた。タカコフサの手入れから体重の調整まで余念がない。レース当日に向けて、タカコフサの体調をピークにもっていかなくてはならない。いつもだったら、当日追い(レース当日の朝)はやらないのだが、山田調教師は夜の明けないうちから起き出し、タカコフサを馬房から引き出して、軽く脚慣らしをやっていた。

 馬場を覆っていた冬の雲も、レースが後半にさしかかる頃から動きが出てきた。雲の割れ目から頼りない日の光が漏れて、屋根のないスタンドの一隅を照らしている。裸のベンチに観客が二、三人づつ固まったまま頭を突き合わせながら、予想紙を見比べていた。スターテイングゲートの周りでは、黄色い上下続きの作業着を着た五、六人の係員が、慌ただしく動き回っている。その中には赤と黄色の小旗を持ったスターターも目に付く。

 本レースが近付くに連れて、富子は聞こえるはずもない蹄(ひづめ)の幻聴に悩まされ始める。それも、タカコフサに乗るとなると、気のせいか幻聴がひどくなるみたいだった。昨晩など一晩中、夢と現実との境界線を出たり入ったりしていた。富子にとってタカコフサはデビュー戦を飾ってくれた馬でもあった。どんなハプニングが起きようと、制限タイムを割るような、みっともないレースだけはしたくなかった。

 富子は馬に乗ったら、できるだけ観客とは視線を合わせないことにしている。知り合いとでも目が合えば、つい心が動かされる。集中していた神経が拡散しかねない。ジョッキーが興奮すれば、馬が落ち着くわけはない。観客の目は騙せても、馬の目は騙せないことは分かっている。

 富子はタカコフサのウォーミングアップをやっているというより、発走前の動悸を整えているようなところがあった。富子は大きく深呼吸するなり、肩にかかっている力を振り払った。


 馬券の投票が締め切られた。

 まばらだった観客が、どこからとなくぞろぞろとスタンドへ出てき出した。監視塔の中にいる男が双眼鏡を手にし、立ったり座ったりして落ち着かないらしい。着順掲示板の上にカラスがスタンドに尻を向けたまま体を休ませていた。

 ここへきてタカコフサは勝手な動きをし出した。タカコフサは富子のお手馬(乗り付けた馬)である。性質はもちろん癖まで知り尽くしていたはずだった。いつもだったら、タカコフサが興奮していても、富子が鞭の握り手の部分で、肩の当たりを軽く押えると、魔法にかかったように柔順になるのに、今日ばかりは勝手が違う。イレ込み(興奮)がひどい。これでは勝負にならないと、富子は独り言をつぶやいていた。

 スターティングゲートの後方に集合した馬は、それぞれに小さな輪乗り(輪を描きながら乗る)待機していた。中にはうっすらと汗をかいている馬もいれば、小刻みに震えている気の弱い馬もいた。富子は遅れて輪乗りに加わったが、心が鎮まらない。

 一旦、ジョッキーが馬に乗ると、互いに口を利かない。視線を避ける。何であんなに殺気立った目付きをしているのだろうか。所属している厩舎こそ違え、顔見知りばかりである。ジョッキーが競争心を煽れば、馬に以心伝心する。それでなくても発走前の緊張で、スターティンゲートに入ってからでも、便をする馬がいた。馬は一レース走ることで、体重が十二・三・減退する。

 発走時間は刻々と迫ってくる。富子はこんな状態で馬に乗っても勝てるわけのないことは、自分が一番よく知っていた。

 発走の時刻を告げるトランペットが、スピーカーを通じて高々と鳴った。

 スターターが黄色い旗を振り下ろしたのと同時に、スターティングゲートが外された。九頭の馬が横一線に飛び出した。カラスが一声上げて、馬場とは反対方向へ飛び立っていった。

 タカコフサは第一コーナーを廻ったところで、先頭馬から一馬身遅れて、後をつけていた。五紙ある予想紙はどれを見ても、タカコフサは無印である。富子はこんなレースの方が気が休まる。勝てば儲けだ。負けても元々ではないかと思うことで、富子は自分を慰めているところがあった。

 そうはいうものの、今日のレースはいつもと違う。タカコフサは競走馬として走るのは、このレースがラストステージになる。富子はどんな手段をこうじてもタカコフサに有終の美を飾らせてやりたかった。山田調教師は口にこそ出さなかったが、タカコフサの首筋を撫でながら独り言をつぶやいていた。

 富子はコタカフサに勝たせてやりたいという気持ちが一方で働けば、また一方では、脚の骨でも折ったら、致命傷だと思うと、心が揺れる。富子はどちらにしても気を緩める訳にはいかない。ことにコーナーでは外側にだれる。細心の注意が必要だ。競り合ってだんご状態でもなれば、若さには勝てない。どうしても老齢の馬が弾き出される。富子は鞭を入れかけたところで、手が止まった。引き換えに山田調教師の顔が、富子の脳裏を突き抜けた。


 それにしても、昨晩の山田調教師はいつもになく、慌てふためいていた。

「富さん、おるかい?」

 ドァの向こうから、山田調教師の掠れた声が届いた。富子は一声聞いて山田調教師であることは分かる。それにしても、一体、何があったのだろうか。

「今更、いうことはないけど、あんたが明日、乗る馬はタカコフサであることは、知っているなあ・・・」と山田調教師が言いかけた言葉が終わらぬ内に、富子が先を取った。

「勝負師なら勝負師らしく、一戦一戦、勝負にかけろというのでしょう」

「そうだよ。それが分かっていて、この前のレースはどうしたんだ。過ぎたことはいいたくないが、後、二秒遅れていたら、タカコフサは・・・」

 山田調教師の言葉には抑揚が効いていた。一瞬、富子の顔が強張った。後二秒だったのか。富子の咽喉に「すみませんでした」という言葉が引っ掛かって出てこない。

「勝負は時の運だよ。ただ、自分が乗った馬だけには、哀しい思いだけはさせないように」というなり山田調教師は煙草に火を点けて、部屋を出ていった。一太は夕食も食べるのも忘れて、折り紙をつかってレイを作っていた。同じ色紙が続いているかと思うと、広告紙を使った箇所もあった。

「母チャン、今度、タカコフサハ、イツ走ルンカイ」と一太が聞いてきた。

「近いうちだろうね」と富子は適当に答えておいた。一太の言動ときたら、一体、何を考えているのだろうか、母親の富子でさえ理解に苦しむところがある。いつ見ても一太のポケットには、馬券の外れ券ばかり詰まっていた。それも富子が発走したレースの外れ券ばかりだった。

「こんなのばかり拾ってきて、どうするのかい」と富子は口汚い言葉を浴びせかけた。一太は坊主頭を掻きながら姿勢を糺した。

「ハイハイ、コレカラ気ヲツケマス」

 一太は丁重に頭を下げるなり、長い舌を出した。一太の悪癖はいっこうに止まない。無理もない。一太ときたら生まれ落ちた時から、この山田調教師の寮であったし、中津馬場が遊び場でもあった。一太は大人たちの悪い癖ばかり覚えている。耳に鉛筆を差したり、両手をズボンのポケットに突っ込んで、家の中を外股で歩く。ついこの前なんか、一太の寝言を聞いて、富子は吹き出してしまった。「今度五・六デコナカッタラ、オレハ競馬ヲ止メルヨ」と眉間に皺を寄せていっていた。

「レイなんか作って、どうするの?」

「ナイショ、ナイショ」と一太はいうなりニタッと笑った。富子は問い詰めるようなことはしなかった。

 富子は曇ったガラスを指先で拭いて、山田調教師の動きを追っていた。山田調教師は部屋を出ていった後、タカコフサの馬房の前で足を止め、独り言をぼやきながら、素手で首から胸元を撫で回していた。タカコフサの手入れをしている時の山田調教師ときたら、どこからあんな丸い笑顔が出てくるのだろうかと思えるほど、温和な顔立ちだった。タカコフサは規則正しい呼吸をしながら、視線を一ケ所に止めて動かない。山田調教師は乳飲み児でもあやしているようであった。


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