ボクとアニキの起業物語 ~町工場から医療機器の会社を立ち上げた話~

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特になぜカーターなのか、という質問は最も多い。

隠すこともないので、あっさり説明しますが、「カーター」とは金型の「型」をもじって作った造語である。カーター…そう、カタを伸ばしただけである。(カーターさんという人物が関係していることは100%ありません)テクノロジーズは、やはり型の製作技術という意味で、こちらはそのまま英語を複数形にして合体させた。

このビジネスの原点は関根製作所の金型事業であり、金型を絡めた社名にしたいと思ったのは、ボクもアニキも共通の想いだった。一方で、本当に事業が立ち上がったらボクは海外展開をしたいという気持ちがあった。シンガポールのベンチャー企業で進めていた医療機器の開発は途中で資金ショートしてしまった失敗のリベンジにも強い想いを持っていた。ということで、ベースになっている金型事業をもじり、海外でも通じる社名を作り出した。本来ならば医療を行うという意味ではメディカルを入れるべきかも知れなかったが、この時はあくまで部品事業ということもあって、テクノロジーズを優先してしまったが、今思うとメディカルを入れれば良かったと少し後悔もしている。


ということで、ネット上でカーターテクノロジーズという医療機器の部品加工業者が誕生した。(あくまでネット上で)



世の中はそんなに甘くない。

出来上がったホームページには結構満足していた。

自作にしてはイイ感じだと思っていた。


関根製作所で製作したことのある医療機器部品の写真を撮り、どのように加工したのか一口メモを加えて紹介した。設備も関根製作所の加工機の写真を全て掲載した。サービスの紹介としては、オーダーメイドの医療機器を作りますよというコメントも記載した。

そして、売りは、兄弟2人で経営している医療機器の会社であること。これは、関根製作所で参加した展示会の時の気付きを取り入れた形だ。父親が作った小さな町工場をベースとして、兄弟2人が新しく医療機器の会社を立ち上げた、こんなストーリーを紹介した。

宇宙兄弟をもじって「医療兄弟(メディカルブラザーズ)」なんていうものも掲載してみた。この辺りは、展示会に出展した際に得られた『気付き』をもとに設定した。

 

これで、問い合わせがくるはずだ。ホームページの制作を開始してから1ヶ月。夜な夜な作ったホームページは、関根製作所の新しい未来を切り開くための、テスト結果を与えてくれるはずだ…と大きな期待を持って公開した。


 ボクの友人で、今は当社の営業課長のカツマタは、こんなことを良く言う。

カツマタ
関根さん、ビックリするぐらい売れないから…

 これは何かのアクションに対して、良い結果を期待して待っているんじゃない。

 むしろ悪い結果が出ることを想定して、次のアクションを準備しておけ。


という意味かとボクは解釈している。

なので、最近では、例えば新しいサービスを開始したり、新製品を発売したりしたとしても、良い結果が起こることを想像するよりも、ダメだった時の対処方法を準備するようになった。また、この心の準備が、ダメだった時の精神的ダメージも軽減してくれる。

しかし、このホームページを公開した時は、ダメだった時の次の手を考えるどころか、必ず問い合わせがくると大きな期待をして公開してしまった。

そして、毎日のようにカーターテクノロジーズホームページのアクセス解析を楽しみに行っていた。


最初の数日、1週間、2週間…


まだ公開したばかりだからと言い聞かせながらも、1日で10 Page Viewsぐらい。まったくホームページが見てもらえていない。一応、ホームページに加えてFacebookも立ち上げてみたが、こちらも完全に内輪でやり取りしているだけのページとなっていた。キーワードとして医療機器はビッグワードなので、医療機器部品や医療機器試作品等の合わせ言葉で、検索エンジンにヒットするように設計していたが、上手く上位表示されることもなく、そもそもそのキーワードで検索をかけている人が少ないような結果であった。日々、素人ではあるが、SEO対策を頑張っていたボクは、毎日心が折れそうになることを堪えながら、ページの更新作業を対応していた。

ボク
そんなに甘くないか…

特にお金を投資した訳ではないので、金銭的なダメージはないのだが、精神的なダメージがジワジワとボディーブローのように効いてくる。夜な夜な自作したホームページは、自分的には良くできたと思っていたが、集客できなければ、完全なボクの自己満の創造物でしかない。我流で仕掛けたSEOもまったく効果が得られない。やはりボクが考えた「医療機器専門の部品加工」というビジネスは、本当に仮説で終わってしまうのか…


問い合わせがあるのは、変なセールスや海外の工場からの売り込み。特に中国、仕事くださいな的なメールが良く来ていたが、こっちが仕事欲しいんだよ、と言ってやりたい気持ちであった。いまだに良くメールが来る。しかも5MBぐらいの資料を添付して送ってくる、かなり迷惑…

また、インタビューしたい、雑誌に掲載したい的な電話がかかってきたこともあり、これはスゴイと張り切って話を聞いていたら、こちらがお金を払って雑誌に掲載してもらう…つまりセールスであった。

本当に毎日、心折れそうになりながらも、テストマーケティングを続けるていると、1つの奇跡が起こった。



ついに問合せがキタ!

実にテストマーケティングを開始して8ヶ月が経過した頃である。8ヶ月は物凄く長い時間であったと記憶している。ほぼ、諦めかけていた時期でもあった。

そして、その問い合わせは、新規の開発案件であった。


問合わせメールには、オリジナルの医療機器を開発したくモノづくりできる企業を探している。一度、詳細な話をする機会が欲しいという内容であった。既にそのメールには医療機器の一般名称が記されていたので、すぐにどのような機器かを調べ、アニキに連絡した。(医療機器は一般名称と販売名称があり、一般名称は国が定めたリストがあり、そこに名称、機器の概要が説明されているので、一般名称さえ教えてもらえれば、直ぐにどのような機器なのかを知ることはできる)

ボク
アニキ、ついにちゃんとした問合わせが来たよ!医療機器の開発。どうやら手術で使うような器具のようだ。調べると金属系だから、ウチで加工できるのでは?
アニキ
うん、これなら作れそうだ!

力強いコメントである。

今でこそ、少しは加工屋の技術的な話もボクは理解できるようになったが、当時は何が作れて、何が作れないか、まったく想像できなかった。おそらく、そのままボクだけで、営業活動していたら、


「何でも作れます!」


という、とんでもない営業をやっていたことだろう。

やはり、餅は餅屋に任せて判断するのが最良である。


ということで、アニキが作れると判断できるのならば、ここから先は、ボクの営業の力で話を前に進めるだけである。早速、先方様にアポを取り、打合せを設定した。


この時の作戦、後にカーターの基本戦略の1つになる「先にモノ作っちゃいました作戦」を決行したのである。これは何かと言うと、ボクたちは、誰からも知られていない、謎の会社である。(謎の会社どころか、当時はテストマーケ中の身であった)そこで、ボクたちを信じてもらう、一緒にビジネスをやりたいと思ってもらうためには、どんなアピールが適切かと考えた結果、モノづくり企業の特徴を生かして、先行してモノを作ってしまい、最初の打合せ時に持ち込むという作戦である。



例えば、この時、最初の打合せで持ち込んだのは、想定される開発品の部品の一部を試作して持って行った。材料は何でもよい、廃材を使って製作している。ドンピシャでなくても良いぐらいのスタンスで製作することも重要である。アニキはモノづくり職人であるため、当たり前であるがモノづくりに強いこだわりがある。ただし、この最初のアタックでモノを提示する目的は、あくまで


「あっこの会社は実際にモノが作れそうだな」


という印象を付けさせるための施策であり、何も正確な部品を仕上げろと言っている訳ではない。この辺りは職人と営業マンの気質的に異なる部分であるが、とにかく仕事のスピードも重要なことから、訪問日時をなるべく近日に設定し、訪問するためにも、とりあえず話のネタになる程度のモノを仕込めれば十分である。ということをアニキに理解してもらい、モノの準備をお願いした。


そして、打合せ当日。


ボクとアニキで初めて臨むお客様との打合せ。


スゴく緊張したけど、やはり先にモノ作っちゃいました作戦は大変効果的であった。

お客さん
えっもう作っちゃったんですか?

お客様から、このようなコメントが得られたら、作戦は8割方成功したと言っても過言ではない。ここから先は、具体的な要求仕様の話を行い、実際にモノが作れるかどうか、設計を行うことになった。

ボク
やったねー
アニキ
うんうん、なんか出来そうだな。
なんか、宝くじに当たったみたいだね。
ボク
うん…?

ちょっとした違和感を覚えた。

ボクは宝くじとは決定的に違うと思った。

宝くじにも「何処で買うか」、「いつ買うか」、「いくら買うか」、確かに戦略はあるかも知れない。それでも一般的には、ただ買って待つというのが宝くじだ。

ボクたちも外から見れば、ただホームページを作って顧客から連絡が来ることを待っていただけだと言われるかも知れないが、そこは大きく違う。どのようなホームページにするのか、例えば医療機器専門というキャッチコピーは考えて設定したものであるし、Facebook上では、部品の製作風景の動画を用いたクイズの企画など、宝くじとは大きく異なる戦略を立案し、このテストマーケティングに入れ込んできた思いがある。


そして、何よりもボクたちは思い切って新しいことにチャレンジしことが大きい。


誰だって新しいことを始めるためにはストレスがかかる。現状の場所にいた方が安泰だし、楽なのはその通りだと思う。だけど、ボクたちは新しいチャレンジをする方を選択した。チャレンジの理由は、関根製作所の経営状態が悪く、このままではマズいことになる…という追い詰められた状況であったことが原動力になった。人間は負のエネルギーがあると爆発的なパワーを生むとボクは思っている。


この野郎!今に見てろよ!

全体に見返してやる!


実は、関根製作所の経営状態が悪くなったころから、色々良くないことを言ってくる人たちも多くいた。だからボクは、そういった人達を絶対に見返したいという強い想いを持っていた。その気持ちが原動力になり、ボクたちの行動に移っていったと思っている。



そして、このお客様との最初の打合せを契機に、ボクとアニキの最初の仕事が部品製作だけではなく、新製品の開発という大きなプロジェクトとなり、そのスタートを切った。



それでも世の中は甘くない。

開発は順調に行かないのが定説であり、ボクたちのプロジェクトも例外なく、順調には進まなかった。第1号機の試作品はそれなりに出来上がったが、実際の臨床研究では、思っていたような成果は上げられず、改良改良が続いた。ボクたちのプロジェクトは、依頼者がいて開発の依頼を受ける所謂「受託開発」というビジネスモデルであったため、試作品のスペックを予め決めて、試作品を製作し、臨床研究を行う訳だが、その試作費用は、都度、依頼者が負担することになる。なので、受託開発というよりは、試作品の製作の依頼を受けていたといった方が良いかも知れない。それでも、どう作るか考えたり試作品を作るための試作をやったりと、もらえるお金以上に出ていくお金も結構あり、結果的にお金を持ち出している状況にあった。


この辺りは、ルーキーによる見積の甘さである。


後に当社の営業を担当することになる、カツマタに話を聞いたところ、試作費用は自分たちが算出した見積額の2倍程度で提示しないと大赤字を食らうことが良くあるとのこと。


そりゃー極端だな… ボッタくりだな…


と思ったが、それほど的が外れていないことも直ぐに気が付いた。

実際に試作をやるということは、やったことのないことをやる訳であり、想定できないトラブルも多く起きる。そのリスクマネーを考えずに、ただ試作品を作るための製作コストを算出し、見積書を提出していたのでは、ビジネスにならないと、注意を受けた。

そういうことからも、最初の開発プロジェクトは結構な赤字を食らってしまった。

ただし、ボクたちは初めての開発であり、勉強代だと考えていたし、何より製品化すれば、ボクたちに製品の製造委託をするという約束だったことから、そこまで頑張れば十分に利益は出せるという思いでプロジェクトを進めた。

モノづくりを担当していたアニキは、試作品を持って病院を訪問し、臨床研究の現場にも立ち会うようになり、これまで話したこともない「お医者さん」と機器の話をするようになっていった。だいぶ、医療機器の開発者としての雰囲気が出てきた頃である。


ちょうど、プロジェクトに没頭していたころ、大きな出来事が起こった。


オヤジの死である。


入退院を繰り返していたオヤジは、ボクとアニキが新しくビジネスを模索していたことは知っていた。こんな依頼がきて、ボクとアニキで試作品を考えて作ってるんだという話にも、病院で嬉しそうな顔をして聞いてくれた。おそらく元気だったら一緒にモノづくりをしたかったであろう。オヤジは根っからの職人である。そしてアイデアマンである。今、生きていたら相談したい案件は山ほどある。もっと早く、ボクがこのビジネスを立ち上げていれば、オヤジの大好きなモノづくりをやらせてあげられたのに、それこそが最も大きな親孝行であったのではないか、まだまだ親孝行しきれていない…。


ボクは大人になって、こんなに泣いたことはないぐらい、泣いた。


もともと、オヤジは口数が少ない。それでも病院で聞いたら

オヤジ
ウチの次男はオレと違って、医療系の人間だからな、変な薬なんか使ったら、直ぐにわかるからなー

とボクのことを自慢の息子として話をしていたようだった。

オヤジに直接褒められた記憶はないが、このように聞き伝えられると効果は倍増する。


そして、オヤジとのお別れの時、棺にボクとアニキの初めての開発品の設計図を入れた。


「オヤジ、天国からボクとアニキを応援してくれ!」


そう祈った。



ビジネスを本格化させる。

オヤジの死からボクとアニキはオヤジのモノづくりの魂を継承すべく、新しい医療機器のビジネスに全力で取りかかった。

試作も複数回行い、部品の種類も何パターンか試しながら、製品化に向けてプロジェクトは進んでいた。また、その間、スポットではあるが医療機器部品の製作依頼や、他の開発品の相談、投資会社からの連絡?等、それなりにビジネスになりそうな要素は出てきていた。


そして、開発品の完成も目前に迫った時、ボクとアニキは正式にカーターテクノロジーズを法人化させ、本格的なビジネスを行うことを決めた。


会社の設立日は、このビジネスのルーツであるオヤジの誕生日である9月18日にした。


この日、ボクはカーターテクノロジーズ株式会社の代表取締役となった。

合わせて、医療機器製造業の取得にも取り組み、無事に業許可を取得した。


そして、満を持して、ボクとアニキで開発した第1号品は無事に製品化された。


現在、会社設立から丸3年が経過し、受託開発の製品が3品目、更には製造販売業を取得し、昨年、自社オリジナルの製品も上市することができた。

まだまだ利益がしっかり作れるような安定したビジネスには育っていない。これからもっと頑張っていかなくてはならいが、少しだけ何か道筋が見えてきたことは確かで、ボクとアニキで始めた医療機器ビスネスは、少しずつではあるが歩みを始めている。


そう、歩みを始めたことが重要なことなのだ。


良く言われることだが、本を読んだり、テレビを見たり、セミナーに行ったり、そして最近はネットから、多くの情報が入手できる時代になった。その得た情報を自分なりに考え、行動に移せる人間は実は数少ないと言われている。ボクとアニキで医療機器のビジネスを立ち上げられたのは、共に考え、テストを行い、会社を作りと、とにかく怯むことなく実行を続けた結果だと思う。


精神的にはキツイ時期もあったが、2人でやっていたから何とか乗り越えることができた。

よく「兄弟ケンカしないのか?」と質問を受けるが、そりゃ想像通り、ケンカはする。ただし、お互いの専門性が強くあり、その分野に関しては、お互いを認めているので、結局はその専門性を活かして、お互いに判断は委ねる流れで、ケンカは終息する。


いつまでも兄弟2人という訳にはいかない。今後はビジネスの本格化を目指し、人材も含め、次なるステップへのチャレンジが必要になってくる。


ただ、会社がどのようなフェーズになっても、ボクとアニキは、オヤジのモノづくり魂を受け継ぎ、その技術を医療機器というモノに仕上げ、患者さんに届けるというスタンスは、変わることはない。


モノづくりを実直にやっていく。


これがボクとアニキのビジネスである。

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