あらすじ

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後編: 【第1話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

父子家庭として生きることになったのは、平成17年のことだった。

そのきっかけは、よくある夫婦の揉め事の末に決めた「離婚」だったのだが、その際二人の子供たちは僕が引き取ることになった。

理由は「私には他にやりたいことがある、だから子供の面倒は見られません」というものだった。何度かの不毛な話し合いの末、家を出ることになった妻は、その後戻ることは無かった。

突如としてわが身に降ってわいた、この「父子家庭」という生き方は、30歳という働き盛り、自分の人生という物を真剣に考えるのならば、一番重要なタイミングで突然に強いられる事となった。

父子家庭として子供二人を育てるという生き方に対して、当然何のビジョンもない。

それは、たった一人、男手一つで子供二人を育てるという生き方が、一体どのようなものになるのか自分でもよくわかっていなかったからだ。

離婚調停の際に「男が子供を引き取って育てるのは無理だ、奥さんに引き取ってもらえるよう頼んでみなさい」と何度も説得された。

それは、後日知ることになるのだが、平成17年18年当時は、父子家庭という生き方そのものにスポットが当たっておらず、支援策としての法も整備されていない状態。

父子家庭に一切の支援は無いと、市役所の児童福祉課の職員に言われ、唖然としたのは父子家庭になって数カ月が過ぎたころだった。

僕には両親がいない。

僕が小学校2年生の時に定年退職した父は、その後酒に溺れるようになり、毎日正体もないほどに酔っ払っていた。

夫婦喧嘩が絶えない家庭で幼少期を過ごし、半ば逃げるように家を出た18歳の春からほとんど会うことも無かった両親は、僕が父子家庭生活を強いられた僅か数か月後に、立て続けに亡くなってしまった。

死にゆく両親の最期を整えるべく、一つ上の兄の命令により、水戸の借家住まいから隣町の実家に転居していた。

長年病気で入退院を繰り返していた老夫婦の住処は、人が住まなくなってから荒れ放題で、とにかく誰かが転居してきて、家としての体を保たなければ、両親を自宅に戻してやることもままならなかったのだけれども、兄弟の誰もが出来ないといったから、なし崩し的に僕の役目になったのだった。

その甲斐があったのか、両親の亡骸を長年住み慣れた自宅に戻してやることも出来たし、出来の悪い息子であり親に迷惑をかけ続けて生きてきた僕だったけど、最後の最後でようやくほんの少し親孝行ができたような気持にもなれたから、これで良かったのだと思っていた。

子供たちはこの転居に伴い、上の子は小学校を転校しなければならなくなったし、下の子は隣町から幼稚園に送り迎えをすることが出来ずに、卒園まで残り半年を残し、退園することになった。

父子家庭になって三人暮らしを余儀なくされた子供たちにとっては、突然にママがいなくなり、転居に伴い仲の良かった友達と離れ離れになり、全く知らない環境に飛び込んでいかなくてはならなくなり、幼稚園生活を全うするという、ごく普通の家庭ならさして当たり前のことですら、許されなかった。

下の子は幼すぎて、自分が置かれている状況を理解できず、上の子は僅か9歳でひっきりなしに続く環境の変化に嫌気がさし、それはそれは見事なまでの抵抗を見せたのだが、自分たちの置かれた環境がどんなに理不尽なものであったとしても、それらを受け入れることでしか、僕達は前には進めなかった。

大人の僕でさえも受けいれるのに相当の覚悟が必要なのに、幼い子供たちにとってはかなりの試練だったに違いない。

それでも、このへんてこな父子家庭という生き方をどうしても成立させるためには、子供たちの協力が不可欠だった。

どんなことがあっても、自分に与えられた環境でベストを尽くす。

 そして必ず乗り越えて前に進むのだという強い意志が無ければ、立っていることも出来ないほどに不安だった。

どんなに過酷な状況でも、卑屈にならず、腐らず受け入れる方法はないのだろうか。子供たちの人生がこれからどのようなものになっていくのか想像もできなかったけど、どんな時でも前向きに自分の力で乗り越えていけるような人間になってもらうために、僕はどのようにこの子たちと接すればよいかいつも考えていた。

そして、たどり着いた一つの答え。

それは「笑う」という事。

どんなことがあっても、何があっても「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせて、声を出して笑う事。

そう、信じることにした。

辛いことや悲しいことがあったら笑えよと、子供たちにはいつも呪文のように言って聞かせた。

今という時間を、歯を食いしばってもがいてあがいて、それでも前に進む勇気が持てなくなるほど不安に襲われそうになったら、開き直って笑うしかない。

笑った先には希望が生まれ、そしてその先には必ず「明日」があると、僕は信じていた。

だから子供たちがいつもいつも笑顔になれるように、そして「寂しい」と思う時間をほんの少しでも減らしてあげられるように、僕は毎日毎日冗談を言っては子供たちと大声を出して笑った。

「大丈夫、大丈夫」

この言葉を言えば、どんなことでも本当に大丈夫になるような錯覚。

たとえそれが錯覚だとしても、僕と子供たちの未来にとっては、とても重要な錯覚だった。

時には悩み落ち込む僕に、いつしか子供たちがこう声をかけてくれるようになった。

「パパ、大丈夫だよ、何とかなるから笑いな」

一日中手を煩わし続ける二人の子供たちも、いつしか僕の生きる意味そのものになっていったし、父子家庭という生き方の末に、絶対みんながびっくりするようなすごい人間に育てるんだと、強く心に念じていた。

それが出来ると思っていたし、どんなことがあっても三人で力を合わせれば乗り越えられると、僕は本当に信じていた。

しかし、そんな僕の覚悟をあざ笑い、試すかのような試練の数々がその後わが身に降りかかるとは、このころの僕にはまだ想像すらできなかった。

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