15歳の社会人。
私は
不動産会社 代表取締役社長。
不動産の仕事が大好きだ。
なぜなら、きのこが生えてた家で育ったからだと思う。
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小学一年生の入学式。
私は1人で入学式に出席した。
式が終わると、周りの子は楽しそうに保護者と写真撮影をしている。
私は一人で帰宅しようとしたら、同じクラスのリカちゃんが不思議そうに言った。
『洋子ちゃん何で一人なの?』
私はこの質問は慣れっこだ。
淡々と話した。
『お母さんは仕事で来ない。お父さんは離婚したからいない』と。
みんな、保護者につれられてポツポツと帰って行き、私も帰ろうとした時、リカちゃんと、リカちゃんの両親が、入学式のお祝いだと食事に私をに誘ってくれた。
そして帰り道に、リカちゃんのお母さんは色とりどりのチューリップをお花屋さんで買ってくれてプレゼントしてくれた。
私は、心が驚く体験をした初めての出来事だった。
私の家は、横浜市の久良岐母子寮といって、母子家庭で生活困難者が、一時的に社会で独立生活できるまでの、いわばシェルターだった。
3階建の母子寮は、1階が保育園、2階が乳児園、3階が母子寮と、学童になっていた。
当時実際に暮らしていた母子寮
母子寮は、10室あり、一世帯、六畳一間である。
母と、4つ上の兄と、2つ上の姉。そして、私。
4人暮らすには常に足を重なり合わせるくらい狭い部屋だった。
3階から窓を開けて、遠くの電車の音を聴くのが大好きだった。
その頃、母は、離婚した父の借金と、先行きの不安と仕事のストレスが重なり、精神が崩壊しつつあった。
寮長室にいくたび、泣きながら死にたいと母が部屋に帰ってくる日常。仕事も休みがちになっていった。
それでも、別れた父の借金を、少しでも返済しようと、お金を消費しないように切り詰め、私が小学2年生の頃には、主食のご飯ですら、ほとんど与えてくれなくなってしまった。
時にはパン屋から耳を買うため、握りしめて親子で耳が売り出すタイミングまで並んでまった。後に取り寄せた寮母による日報には、うさぎ小屋からキャベツを盗んだりもしていたという。
姉は、外国の難民がなる栄養失調におかされ、お腹だけ妊婦のように膨れていた。
とにかく飢えていた。
学期末に母子寮でお楽しみ会があり、唯一のお腹が満たされる時だった。
焼きそばをたくさん食べすぎて、お楽しみ会では兄弟全員、お腹を壊した。
そんな生活を過ごし
小学2年生の春。
学校から帰宅したら母の姿がない。
部屋がとても綺麗に片付けてあった。
すぐに不安がおそってきた。
その日の夕方、兄弟全員そろったのをみて、寮長先生が部屋に来て母の説明をした。
寮長が、母の精神状態をみて、強制的に精神病院へ入院させてしまったのだ。
私たちは、今日から子どもだけで母のいない間、暮らしていく説明をうけた。
生活費は、母が貯めていた貯金を切り崩し、寮長が管理することになった。
食事は夕ご飯だけ、学童の先生が交代で作ってくれることになり、食料の買い出しは、私たち兄妹でおこなった。
私はその晩、半畳ほどの押入れにはいり、兄弟にわからないよう声を押し殺して泣いた。
母がいない生活は、悲しみの反面、喜ぶ出来事も多々あった。
そう。夕食の時間である。
ある日は、ミートオムレツ。
そのまたある日は、唐揚げ。
ご飯もたくさん炊いてあった。
お味噌汁まで作ってくれている。
母が作るご飯は、3日間に1回しか炊いてくれず、ご飯は茶碗に半分ほど。
そして、ご飯は黄ばみ、なんとも言えない臭い匂いを放つ。
おかずは、伊藤ハムのミニウィニーを1本ずつ食べたり、マヨネーズや、ケチャップをご飯にかける。
そんなものしか食べてこなかったので、母がいなくなってからの食事がご馳走で、母の寂しさはすぐに飛んでしまった。
2ヶ月そんな生活が続いた七夕の夜。
母が、病院を強制的に退院して、私たちの所へ帰ってきてくれた。
実は施設の七夕の短冊に、
『お母さんが帰ってきますように。洋子』と書いていたので、七夕様は本当に叶えてくれたのだと飛び上がって喜んだのも束の間。
寮長先生と母と、茨城から来た叔父と祖父が険しい顔をして難しい話をしていた。
話会いが終わると、叔父がランドセルを持てといった。微妙な空気に流されたまま、寮生の皆に見送られ母子寮をあとにした。
ランドセルを背負ったまま、電車乗りつぎ茨城について、タクシーで常総市までいき、たどり着いた家は、まるでお化け屋敷のようだった。
当時住んでいた家の写真
『ここが、お前たちの新しい家だよ。』
叔父が言った。
夜逃げ同然で、横浜から茨城に来てしまい、お世話になった学童の先生たちや、友達に2度と会えないと理解した。
夢だったらと泣きながら寝付くが、朝起きては夢でない現実という悲しみに襲われ3日間涙が枯れるまで泣いた。
4日目の朝、横浜に泣いても戻れないんだと覚悟を決めた。
泣いてばかりもいられない。
新しい生活を受け入れるしかない。
この家には、母の叔母が一人暮らしをしていた。
私たち一家は、母の叔母が引き取ってくれたのだ。
母の叔母は、『くに』という名前だった。くにおばさんと呼ぶようにした。
くにおばさんは、70すぎているのに、商人(あきない)で生計をたてていた。
小女子や佃煮などの食品を籠にいれ、背中に30キロの籠を乗せて売り歩いていた。
母はまだ、精神病がひどく、働けず、家事もできなくなっていて、次第に幻聴などが聞こえてくるようになり、怯えるように毎日寝てすごしていた。
お化け屋敷のような家は、くにおばさんが、この時は18000円で賃貸していた。くにおばちゃんは、50年前から賃貸していた。
おそらく築100年の、この古家は、長年手入れもされておらず、階段の下や、壁際の畳にキノコが生えていた。
一階は玄関入ると土間があり、奥に薪で炊く釜戸と、今は使っていない氷を入れて冷やす旧式冷蔵庫が置いてあった。
その隣に、小さな冷蔵庫と火鉢といって、ヤカン等がのせられる石油ストーブが配置してあった。
おばちゃんの部屋は、窓ガラスがらなく、障子と、木材で出来た雨戸で外と仕切っていた。
家の玄関ドアは薄いガラスの引き戸で、鍵はなく、長い棒を突っかかる様に入れて、外から開かないようにしている。
二階は6帖と8帖の和室があり、その2部屋を間借りさせてもらった。
そして、おばちゃんとは、家庭内別居だった為、家事は別に行った。
洗濯機も三年間なく、私が洗濯担当になっていた。もちろん手洗いだ。
兄はこのころ野球部にはいっていたので、とにかく冬の手洗い洗濯が大変だった。
竹竿で洗濯を干し終えるまで2時間かかり、いつの日か、学校にもいかず洗濯をするほどになっていた。
母の病気も悪化し、食事に睡眠薬を大量にいれられたり、自殺行動とも見受けられる行動がしばしばあった。
食事も私が担当することにした。キッチンまでは土間を通り、朝から薪をいれ、かまどでご飯を炊いた。これは今でも貴重な経験をさせてもらったと思っている。
幸いお米と、じゃがいもは農家の叔父がたくさん持って来てくれるようになり、空腹で過ごすことはなくなった。
ガスはもちろん通っていないので、火鉢型石油ストーブの上で卵焼きを焼くのに点火してから10分以上かかった。
テレビがない我が家は、風速5メートル以上にはなると家が壊れるほどゆれたので、電話で毎日、天気予報の風力を聞く。
台風が発生すると上陸しなくても毎日が憂鬱でならなかった。
この台風で、この家は崩れてしまうんだっと思うほど、家がきしみながら耐えていた。
少しの風でも瓦が飛ばされ落ち、割れる音は今でも鮮明に覚えている。
雨が降ると、あちこちで雨漏り。
洗面器を置いて、水がたまると外にすてた。
そんな生活をして数年がたち、父方の祖母が不憫と思ったのか、徐々に洗濯機や、炊飯器、テレビをプレゼントしてくれて家事は軽減できた。
私が5年生頃になると、社会復帰ができない母を、近所の民生委員が市の職員に告げ、職員が生活状況が酷いから、生活保護を受けなさいと何度も説得に訪問にくるようになった。
背骨が、90度曲がっている病に侵された職員の方は、よほど同情してくれたようで、その後もたびたび訪問してくれた。
母は『市の皆さんの税金で厄介になりたくない』と、生活保護を拒みつづけた。
生活費は、結局、母子扶養手当という母子家庭に受給される毎月4万円から生計を立てていたと思う。
中学生になった。
朝シャンが流行っていた。
わ我が家にはガスがないので給湯器もない。兄弟で屋外の立水栓で、冬でも朝シャンプーをするのが日課となった。
冬至の季節だと、朝は水栓が凍っていて、ひばちでお湯を沸かし、凍結してた水栓を溶かしてから、修行のように冷たい水を頭にかけ、すすぐ頃には耳は真っ赤で、洗いあがりは外は寒くても、南国のように温かいと錯誤するほど水は冷たかった。
虫も多く、家の中でもカマドウマ(通称 便所こおろぎ)が飛び跳ねていた。水道や風呂場はナメクジだらけ。
室内は屋外にいるようなクモだらけ。
朝起きると頭の下に、大きな黒いクモが潰れていたことが何度もあった。
トイレはボットン便所。紙はティッシュより硬いA4コピー用紙くらいの紙である。今では見かけないが、当時は、その様なトイレ紙が売っていたのだ。
天井や壁際には大きなクモだらけ、便所下にも、虫どもの聖地のトイレだけは慣れることがなく、いつも虫どもに警戒しながら用を足した。
そうして小学2年生から住ませていただいた家は、15歳で取り壊されることになり、くにおばちゃんと離れ、私たちは叔父が借りてくれた2DKのアパートに住むこととなった。
これからは、5万円の家賃がかかる。
中学生3年生の冬から、友達のお母さんが事務をしているスーパーで、学校も休みながら特別にレジのバイトをさせてもらった。
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