15歳の社会人。

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小さい頃から、早く大人になって仕事をしたいと強く願って過ごしてきたので、本当にバイトでも、気合いの入れ方は違ったと思う。


全身全霊で、「いらっしゃいませ、ありがとうございます」と伝えてたと思う。


そうして、初給料の8万を手にした時、高校に進学するのではなく、すぐにでも働こうと決意し生活費に当て込んだ。


そうして受験もせずに、中学の卒業式を迎え、私の短い学校生活が終わった。学校生活は楽しい事が多かったが、唯一、学生時代にできなかった望みがある。


小学1年から兄弟で校庭の影に隠れて菓子パンを食べてた運動会だ。

母が元気ならお弁当を作ってもらい家族で堂々と昼ご飯を食べたかった。

それほど、運動会のお弁当の時間は、周囲と家庭環境が違っている

現実を目の当たりにした惨めな時間だった。


卒業後、ガソリンスタンドに就職し夜はお好み焼き屋のバイトもはじめた。


自分で働いた分だけお金を稼げる嬉しさを覚えた。


お金がもらえる喜びと同時に、接客をしたお客様から「きみ、元気がいーね?!そのまま頑張ってよ」など、声をかけてもらえることが嬉しかった。


ずっと、母の病気の事で、近所や、同居してたおばちゃんからも、気狂い(きちがい)だの、どうしようもないのが、横浜から来ただの、言われて育った。


全くの他人から、自分の存在を認めてもらえる事が、心が満たされ、こんなにも充実することとは思ってもいなかった。


きっと、愛に飢えていたのかもしれない。


それから、友達のお母さんが経営する飲食店で働きながら、もっと、まとめて稼ぎたいと、繁華街の給料が良い飲み屋を探した。


飲み屋では、ママも、姉さんも、みんな、私の境遇に同情し親切にしてくれた。


車がない私は、ヒッチハイクも得意であった。


中学生で覚えたヒッチハイクは、私の足であった。


当時、常総線というローカル電車は、北海道の電車の次に高い運賃であったので、友達と、いつもヒッチハイクで街へ買い物にでかけていた。


1度危険な目にも遭遇した。


つくば市に向かうはずの車が、反対方向の鬼怒川を渡られた事があった。まずいと思い、信号待ちの時に、手動式の鍵をあけ、飛び降り、危機をまぬがれた。


いつも、ヒッチハイクで15キロほど離れた飲み屋まで行き、帰りはママの送迎で送ってもらってたが、こんな事が起きたので、もうヒッチハイクでは通勤できないとママに事情を説明したら、それなら、私の家に住み込みしなさいっと住み込み生活がスタートした。


私は、本当にお世話になった人たちに恩返ししたい気持ち一心で働いた。


そして車の免許も取り、いくつかの飲み屋の仕事を転々し、20歳になり転機が訪れた。


毎月発行されるアパートマンション情報誌を200円で購入し間取り図をみる時が至福の時間だった私に、ルームシェアをしていた友人のあいちゃんが『そんなに好きなら、不動産屋で働けば?』といってくれた。


私は中卒だし、会社で働ける立場ではないと思っていたから拍子が抜けた。


どの求人も高卒以上と書かれているからである。でも、ダメ元でK不動産という会社に面接の電話をした。


事前に履歴書を送らなくても直接来てくださいと言われた。


履歴書など、きちんと書いたことがない私は、写真も貼らずに、面接にいどんだ。


K不動産の社長は意外にも、30代半ばの綺麗な女の人だった。


社長に挨拶をし、持ち前の明るさで対話をしたら、学歴ではなく、やる気があれば、いつからでも来てとくれと、あっさり入社が決定した。

不動産屋で働けることになった!


飛び上がるほど喜んで、ルームシェアの友人あいちゃんに報告した。


これからは、情報誌だけではなく、アパートやマンションの間取り図に囲まれながら、空き部屋を案内できる。

想像しただけで、本当に本当に天地がひっくり返るほど嬉しかった。


早速、入社してからの仕事業務は、予想以上に楽しかった。接客は慣れていて、土地勘もあったので、1日目で物件案内もした。


事務のパソコン作業もOLみたいで背伸びした自分になれ、好きな時間だった。


4月1日。入社して1カ月目の私は、社長に退職すると嘘をついて驚かせた。


思ったほど真剣に受け止められてしまい、理由を聞かせてほしいと言われた私は、『今日は何の日だか覚えてますか?』と話したら、『エイプリルフールか???こりゃやられた!』と社長は大きな声で笑いはじめた。私もつられて大声で笑った。そこから、社長との距離が縮まった。

それから、今に至るまで、いつも社長には、妹のように接してもらっている。


K不動産屋で従事してから数年たち、宅地建物取引主任者の資格を取ったらどうだ?と、社長に勧められた。


勉強するのは、中学生以来だった私は、まずは漢字の勉強から始まるほど、難しい漢字だらけの本を毎日読み返した。


1年目は見事不合格だった。


なめて勉強してたら受からないと、毎日会社の同僚の岡ちゃんや、塚ちゃんと3人で、仕事が終わってから18時から21時まで会社で勉強した。解散した後も、ファミレスに行き4時間は勉強した。

何度も何度も過去問を繰り返し間違えては正しい答えをノートに写した。

試験日が近づく頃には、常に合格ラインを超えるほどに理解できるようになっていた。そして試験当日。今まで通りだと思い、緊張せずに挑んだら見事に合格できた。


私は宅地建物取引主任者となり、そこから、仕事の視界が広がりはじめた。


この頃、社長の公認で、生活費のために水商売のバイトも、ずっと続けていた。

毎月、K不動産会社からの給料は、住民税や、社会保険、厚生年金が引かれ手取りは11万ほどだった。


いつかは、水商売のバイトもできない歳が来ると思っていた。


そしたら、K不動産だけの給料では生活できない。


社長に、夜の仕事は辞めて、昼間だけの給料で生活できるように、転職したいと伝えた。


社長は、「賃金値上げをするから、いくら生活費が必要か計算しておいで」と言ってくれた。


でも、会社の内情を知っていた私には、賃金値上げを受け入れられなかった。社長に迷惑なんてかけたくなかった。


次の日、社長に賃金値上げの話を断り、他の会社で自分の力を試したいと話したら「洋子が決めたなら行っておいで。がんばって来い!」と、背中を押してくれた。


卒業である。


皆んなが、送別会を開いてくれた。


家族のようなメンバーだった。

たこ焼きパーティー、バーベキュー、誰かが落ち込んだ時はカラオケ6時間、本当に居心地よかった。


送別会は終盤となり、社長はルイ・ヴィトンの名刺入れをプレゼントしてくれた。

同僚はサプライズでフォトアルバムを作ってくれた。

私は本当に家族のように過ごしてくれた、優しすぎるK不動産が大好きだった。わんわん子供のように泣き卒業した。



そして、誰もが知っている不動産会社、一部上場会社に私は挑んだ。


普通の人なら、きっと採用枠の範囲に入っていなければ、無理と判断すると思うが、私はブレーキが壊れているため、とりあえず試しに挑戦してみた。


大卒以上の学歴を希望する企業だったが、先ずは電話をして、私の職務経験と宅建の資格を伝え面接してほしいと伝えてみた。


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