私の父

私の父

私の父は田舎の小さな靴屋さんを営んでいた。一番古い記憶は、たぶん近くの養鱒場にバイクに乗って連れられていったときのこと。ヘルメットも付けずに二人乗りだから、今なら犯罪だ。三歳か四歳ころのことだから、山の上の養鱒場へ上る階段が妙に高かった覚えがある。
 そこで、日本に出回り始めていたコカ・コーラを飲んだのだが、薬のような味がして飲めたものではなかった。四歳くらいの子供に飲ませる父もおかしいのだが、昭和30年代というのは、そんなものだった。今思うと、昭和31年生まれの私は、第二次世界大戦が終わって10年くらいして生まれたわけだ。父は、戦争中は中国で戦っていたと言っていたから、ビッグモローの「コンバット」というアメリカ映画を見ていた父は、リアルな体験として見ていたはずだ。
「コンバット」の画像検索結果
父は、しばしば名古屋の靴の見本市や仕入れに私を連れていった。名古屋の駅裏のドラム缶や戸板の上に並べたような食品売り場を覚えている。「もはや戦後ではない」と言われていた時期だ。東山動物園や、デパートの屋上の遊園地、海水浴、潮干狩り、湯ノ山温泉のロープウェイ、岐阜の金華山、犬山のモノレール、長島温泉、多度のみかん狩り。本当に外出が好きな父だったので、小さい頃の思い出がいっぱいある。
後に、自分が娘たちと同じことをしていることに気づいて驚いたことがある。父が私にしてくれたことを娘たちにしていたわけだ。小学校の3年生くらいのことだったと思うが、算数の問題を3歳離れた姉に出して解かせている時に、姉より先に私が解いてしまった。姉は悔しがっていたが、父は驚きながら「コイツは頭がいい」と喜んでいたのを覚えている。
その頃、母の実家を訪問していた時に、祖父の自転車に乗せられていたら祖父が「おまえは、巌のようになったらアカンぞ」 と言われた。父を嫌っていたのだろう。私は曖昧に返事をしておいたが、何かあることは分かった。
「屋上遊園地」の画像検索結果「噴水 ジュース ...」の画像検索結果
小学校の写生大会や、コンクールのようなもので賞状をもらってくると戸棚に保存していたから、父はよほど嬉しかったのだろう。なぜ、そんなに勉強にこだわるのか子供心に不思議だったけれど、父が亡くなる前にその理由が分かった。
小学校の5年生の頃に、父は結核で岐阜の病院で1年か2年長期療養で家にいなかった。母は苦労しただろうと思う。姉や母たちがヒソヒソ話をしていたが、総合的に考えて父は岐阜で浮気をしていたのではないだろうか。私は男だから、父の気持ちが分からないでもない。私のように、バツイチにならなかっただけでもエライもんだと思っている。
 私は中学校では、学年で5本の指に入るくらい勉強ができた。四日市高校から名古屋大学に進学したのだが、1年留年した。その連絡の手紙が父の遺品の中から出てきた。トントン拍子で生きていた私が挫折したと思い、心配したのだろう。
「名古屋大学」の画像検索結果
 私が大学に入ったころ、父は靴屋を母に任せて近所の工場に働きにでた。50代だったと思う。能天気に大学生活をエンジョイしていた私は、父たちが学費を稼ぐのに苦労していたことを知らなかった。
 愛知県で塾講師を始めたころ、2時間以上かけて塾長に挨拶にきた。大正生まれの頑固な父だったから、制止してもやってきた。そんな父親の靴屋も高度経済成長で、靴が使い捨てとなり修繕を仕事にしていた父の仕事は減っていった。 
アメリカで教師をしている頃、シェリル・ラッドのテープや、日本紹介の英語の本を送ってくれるように父に頼んだ。ちゃんと届いたけれど、どうやって入手したのか分からない。おそらく、近所のレコード屋さんや書店で尋ねまわったことだろう。
 帰国後に、自分の塾を建てることになった。父は自分の住む土地も家屋も私の融資の担保にして、連帯保証人になってくれた。バカだと思う。29歳だった私が塾の経営を順調にできる保証などまったくなかった。失敗したら、自分も家を失うではないか。 私はつぶれそうな靴屋の店主で、気の小さい父をバカにしていた。だから、土地を購入して塾を建てるときに反対されたとき大喧嘩をした。私の塾は、その後30年間繁盛してきている。
「街工場」の画像検索結果
 晩年の父は、「就職情報」を握りしめて職を探していた。田舎に60歳をすぎた工場などあるはずもなく、ブラブラしていた。そして、私の塾の掃除などを手伝い始めた。
 ありがたかったけれど、勝手に塾の中をさわるので、よく衝突した。 父が亡くなったとき、母が「おまえは、父さんの誇りの子だったんだよ」 と、言っていた。どうも、近所で相手がイヤになるくらい「アイツは、俺の子だ」 と自慢していたらしい。
 ずいぶんと親不孝だと思っていたのだが、父は亡くなる寸前になぜか「俺は滋賀大を受けたが落ちたのだ」 と、言った。その後、戦争が始まり高卒で終わったらしい。それが心残りだったらしい。だから、私が勉強ができて難関校に合格していくのを見て嬉しかったらしい。
 遺書も残さず死んでいったために、遺産相続でもめたし、母は「パートでなく正社員なら年金が入ったのに」 と不満を言っていた。 欠点も多い父だったが、私には感謝の言葉しかない父だった。

著者のキョウダイ セブンさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。