怒れる者よ、しばし歌うのを止めて……

2008年の終わりごろ、私は友人からひどくののしられて狼狽していた。彼女の結婚式に、私の身内の弔事が重なってしまい、出席できなくなったことがきっかけ。普段の彼女からは想像もできない態度に、ただ圧倒されてしまった。


2009年の春になり、ようやく気持ちが落ち着いてきたころ

「次に同じような事態が起こったとき、どうするのが正解なのか?」

の答えを探し始めた。


この年、新型インフルエンザ(当時は豚インフルエンザという言葉が主流だった)が日本国内で発見された。大阪では企業や学校の活動を停止させてでも感染を防ぐ姿勢になっていた。大勢の人が集まるようなイベントは自粛するという動きもあった。

「春の結婚式シーズンだが、結婚式はやっていいのか? やめるべきか?」という問題も、新聞等で取り上げられ、結婚式に関するマナーサイトでも多数の質問や相談が書き込まれていた。


私と友人の問題は1対1のトラブルだったけれど、今は大勢の新郎新婦に、多数の問題が塊になって押し寄せているんだ、と思うと、自分が個人的な1つのことでいつまでも悩んでいて、誰かの力を借りないと解決できないでいる事実が、なんだか申し訳なくなった。


学ぶこと、相談することは「手段」

時間が経つにつれて気づいたことがある。

どうするのが正解かを、マナーなどの観点から学んだり、人に相談したりするのは良い方法ではある。だけど、「知識を得た」「相談した」という部分にエネルギーを使うだけで、いつの間にか満足してしまい、

「自分は納得できたのか?」

「その出来事を、自分の中にデータとして蓄積し、次に生かせる状態に変換できたのか?」

という部分は、放置してしまっていたのではないかと。


手段と目的を取り違えていた当時の自分は、いくら知識を得ても納得がいかないし、人と接することへの自信が戻ってこない、という状態だった。


かつて、似たような経験があったことを思い出す

それは、携帯電話がようやく「普及した」と言える状況になった時代。私はまだ学生だった。学生で親しい仲間どうしでは、夜遅くに短時間の電話くらいなら許されるという雰囲気ができつつあった時期、私は深夜1時を回って、友人からの電話にたたき起こされた。


友人は泥酔しており、あまりにも暴言を吐くので「また明日、聞きますね」と私は無理やり通話を終える。しかし、自制心を失っている友人はすかさずリダイヤルしてくる。あまりの不意打ちに頭がぼんやりしていたため、こちらも「電源を切る」といった単純で効果の高い方法をとる余裕がない。


その当時、私はパニック障害のコントロールが、まだうまくできていなかった。夜が来るたびに「電話で何か言われるのでは?」と落ち着きをなくした。ついには「いったん携帯電話を解約し、精神的な療養を優先する」という方法を選ぶことになった。


このときも、私は医師や友人などに事情を話し、助言してもらっていた。しかし「事情を話す」「何かの言葉を受け取る」ことにエネルギーを使っては、それだけで満足してしまっていたのも事実だ。「心の平安を得る」ことは、疎かになっていた。

「相談する」「事情を説明する」ことでエネルギーを使う分だけ、何か努力しているような気分になる。「その努力の方向はあっているのか?」と考えたり、時には自分自身で「私は何を欲しがっているのか?」を落ち着いて考える、ということは放置してしまった。


民衆の歌

2012年の暮れ、映画「レ・ミゼラブル」が公開されることになり、インターネットでも動画広告が配信され始めた。その美しい画面に目を奪われたし、聞き覚えのある音楽を口ずさんで楽しみにしていた。


このミュージカルの中で、「民衆の歌」はすごく有名だし、闘志を掻き立てるようなメロディが印象的だ。

この当時、在宅仕事というものを理解してもらえず、私をバカにする噂を流されていることを知り、私は怒っていた。介護と仕事を両立する苦労を、どんな思いで乗り越えてきたか知りもしないくせに、好き放題いいやがってという気持ちが、私の腹の中で渦を巻いていた。

だからこそ、歌い叫ぶという手段を手にした市民たちの姿に共感できたし、うらやましくも思えたのだろう。


しかし、時間が怒りの感情を癒してくれることもあるし、時間が違う見方を与えてくれることもある。

「私は、『怒ること』にエネルギーを使って満足しているのだけではないか?」

「『あなたが正しい、周りが間違っている』と誰かに言ってもらえば、それで私は幸せなのか?」


私の本当に欲しいもの。

それは怒りから解放され、青い空のように落ち着いた心。


それが欲しいのなら、怒れる者の歌を歌い続けることは得策ではない。それよりも、しばらく歌うのを止めて、青い空を眺めよう。

ひどい噂を流す人はいるかもしれないし、理不尽な怒りをぶつけてくる人も、酔っぱらって絡んでくる人もいるかもしれない。でも、私の欲しい答えは

「誰が間違っていて、誰が謝るべきか?」

「被害者は誰か? 謝罪をしてもらえるのは誰か?」

というものではなく、怖い思い、怒れる者の歌をいかにすれば手放せるかということなのだ。


とはいえ、私は「民衆の歌」が好きだし(囚人の歌も好き)、無実なのに捕らえられたときや、自分の権利を侵害されたときには、「無実だ」と叫ぶことは必要だと思う。怒りを覚えたときは、正当な権利について主張すべきだろう。

ただ「怒ること」「叫ぶこと」に夢中になり過ぎていないか、それだけで満足してしまって、「本当に欲しいものは何か?」を忘れてはいないか、と自分に問えるようにしたい。



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