嫌なことから全て逃げてきた

僕は25歳の会社員。

基本的に嫌なことから全て逃げてきた。

僕の逃げ腰人生は幼稚園からスタートする。

幼稚園

僕はチーズが大嫌いで、給食にチーズが出ると必ず残す子供だった。当時は教育上、給食を残すことが許されなかったため、残した日には担当のおばちゃんに呼び出され、無理やりチーズを食べさせられることもあった。その頃から、親に引きづられながらでないと幼稚園にいけない日が何度も出てきた。熱が出たとズル休みしたこともあった。こうして僕の逃げ腰人生が始まった。


小学生

僕が小学生の頃、逃げたのは、野球クラブ、柔道、ペン習字、学校の授業である。野球クラブは、父とキャッチボールをしていて、球のスピードが早くなることに喜びを感じたのがきっかけで入った。しかし、クラブの監督が非常に怖い人だった。僕はバッティングが下手で、というより向かってくる球が怖くてバッティングを敬遠する傾向にあった(なのでいつも8番だった)。しかし、野球をする上でバッティングができないのはまずいということで、監督は、僕の球へのビビりグセを直すために、バッティング練習の時に直接球を体にぶつけることもあった。僕は精神的にも肉体的にも痛い思いをすることがとても嫌だった。結局1年くらいしか続かず、親が買ってくれたグローブやバット、ユニフォームは物置に眠ることになった。柔道も似たような感じで、体が痛いのが嫌でやめ、ペン習字は文字をうまくならなければいけない理由がわからず、続けることが精神的に苦になったため、やめた。学校の授業は、中休みのドッチボールが楽しすぎて、授業を受ける気になれず、また怒られるのも嫌だったので、お腹が痛いふりをして保健室によく逃げていた。友人からはドッチボールをするときだけお腹痛くないんだな、と疑われていた。この頃から、好きなこと以外のことに時間を使いたくないという思いが膨らんできた。


中学生

中学生の頃に逃げたのは、テニスだ。テニス部には退部せずに3年間所属した。あれ?逃げてないじゃんと思うかもしれないが、部活はよくサボっていた。顧問の先生が優しい人で、サボっても文句は言われなかったから続いたのだと思う。テニス自体は好きだった。徐々に狙ったところに打てるようになったり、サーブが打てるようになったり、速球を打てるようになったり、そういう自分の成長が好きだった。だから、試合とかには全く興味が持てず、出場した大会はわざと負けるようなことも多かった。僕は、その頃から競争することが嫌いになった。競争を意識すると、心が汚れていく気がいて、他の人を蹴落とすような気がして、自分の成長に身が入らなくなった。テニス部には所属していたが、大会では活躍せず、ほとんどいてもいなくてもわからないくらいの存在だった。


高校時代

高専の頃に逃げ出したのはバンド。友人がバンド活動に僕を誘ってくれた。僕をドラマーとして任命してくれた。しかし、みんなの熱意がすごすぎて、体育会系のノリについてくことが精神的に難しくなってた。結果、途中で離脱を表明。基本的に熱意満点の人と相入れないと理解できたのはこの頃から。それからというもの、誘ってくれた人をはじめ、バンドメンバーは僕のことを毛嫌いするようになった。当たり前なんだけどね。僕は、高校ではノリの悪い、約束を守らない奴になった。辛かったけれど、嫌な思いをするくらいならやらない方が良いと不思議と思えた。


大学時代

大学時代に逃げたもの。それは人との雑談。僕の行った大学は色々複雑なのだけど、高校の延長みたいな大学だ。基本、延長する人はいなく、ほとんどが外部の大学に行ったり、就職をしたりする。そのため、僕の周りにいる友人は減り、雑談も減った。意図的に外部の人と雑談を増やすこともできたのだけれど、それより、当時は英語や科学の知識、心理学の知識を学んでいる方が好きだった。もちろん、全く何も話さなかった訳ではない。とても気の合う、雑談に興味のない友人が他にもいたため、科学の議論や心理学の議論をよくした。それ以外の会話は本当にしなかった。だけれど、とても居心地が良かったのを覚えている。所属していた研究室も、基本的に放任主義だったため、自分には非常に合っていて好き勝手研究をやっていた。好き勝手やった結果としてだが、21歳までに国際学会で2回英語でプレゼンできたり、論文を書くことができた。


大学院時代

大学院時代に逃げたのは研究室。あまりにも手を動かす実験のセンスや、実験計画を立てるセンスがなく、教授にしこたま怒られたのが原因だ。当時は、怒られたせいか、パニック症状になってしまった。学校の紹介でメンタルクリニックに行き、適応障害という病名をつけられた。それからは、学校の提案もあり、非常に放任主義の優しい先生のもとで、研究活動を再開することになった。やはり自分には放任主義が一番合うようで、研究活動に身が入るようになり、大学時代は二進数にも触れたことのなかった僕が、プログラミングを覚え、研究を進めていけた。結果的に奨学金の免除もしてもらうことができた。ちょいちょい自慢挟んでるけど、この後ひどいんで大丈夫ですよ笑 


新卒入社

はい、わずか4ヶ月で退職。理由は、社会人だからこうしなきゃダメ、朝はこの時間、夕方はこの時間まで働くこと、上司の顔色を伺うこと、君は新人だからこれしなきゃダメだよとか、そういうのが全部嫌だった。あげるとキリがない。社会人になると、今挙げたことに従えない人のことを甘えといい、負け犬のような扱いを受ける。実際、会社がどれだけ、性格や個性を尊重すると言っても、マジョリティが上のように考えてるから、多様性なんてものは皆無。そして、僕には、この常識をいとも簡単に受け入れられる周りの人がとても不思議だった。僕にはオウム真理教の信者に見えた。結局、この信者にならないと会社で生きてはいけないと思うと、僕はどっちにしろ会社では生きられない人間だと思うようになった。なので全く後先考えずにやめた。なんかバイトでもして生きられればいいと思って。


フリーター生活

僕は退社後、フリーターをしていた。彼女の家に転がり込み、半分養っていただいていた。そんなヒモのような生活を漫画にし、ブログに投稿しているのが日常の楽しみだった。漫画なんて書いたことなかったけど、パワポを使って曲線を使いこなすと案外いろんな絵がかけることに気づいて、ひたすら漫画を書いていた。徐々に上手くなる漫画も少し嬉しかった。下の四コマで、上に書いてるのが初めて4コマを書いた時、下は最近更新した漫画だ。

半年でこのくらいまでかけるようになった。あー楽しかった。こんな漫画を更新していたけれど、そろそろ手に職をつけろという周りのプレッシャーに耐えきれなくなった僕は転職活動をすることに。。。自分に会社は合ってないとわかっていたんだけどね。

転職

結局、現在会社員として働いているが、やはり同じ苦痛に苛まれるようになった。皆オウム真理教の信者のごとく、会社員としての正義を言う。労働規約に従わないといけないと書かれているから、従わないといけないのだけれど笑  社会はどうしてこうも息苦しいのか。。その自問自答を繰り返す日々。自分が楽しいと思えることだけをしてはいけないのか。なぜ、楽しく生産活動ができる環境はないのか。そういう環境は自分で作るものなのか。もしくは自分で見つけるものなのか。。


終わり

多分、ここから大どんでん返しストーリーを期待している人もいたかもしれませんが、これで終わりです。僕がよくわからないのは、こういう"自分は辛かったです"とかのストーリーの後には必ず、大逆転秘話が出てくるけれど、それも決まった型にはまった人生だと思ってしまう。大逆転ストーリーよりも、"まだ途中です"の方がよっぽど型にはまった感がない。だって、成功までの経過は必ず、個性溢れるものになるから。みんなアプローチ違うし。僕は逆にみんな今どのように中途半端なのかを知りたいです。

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