【母の日を前に】母の日が母の命日。15年の歳月に想う4つのこと

2002年5月14日、僕は母を自殺で亡くしました。2017年5月14日、この日は母の日であり僕の母の命日です。今年2月に公開した「11歳で母を自殺で亡くした若者が生きることを諦めなかった『からあげ』の話(全5話)」は、Yahoo!ニュースや運営会社のオススメストーリーでも紹介していただき多くの人に伝えることができました。あの日から15年、改めて歳月を振り返りながら想う4つのことを今回はシェアします。

15年の歳月に想う4つのこと

僕には、ずっと知りたかったけど知らなかったことがありました。

それは、自分の名前の由来です。なぜ「政樹」という名前になったのか、名前にはどのような願いが込められているのか。そこで、昨年、珍しく父と居酒屋でお酒を飲む機会があったので思い切って聞いてみることにしました。

「ずっと気になってたねんけど、名前の由来ってなんなん?」

父はしばらく手を止めて、神妙な面持ちで答えました。「・・・分からん。」

『え!分からんのかいっ!』とツッコミを入れたくなると同時に、母は亡くなっているので名前の由来を知っている人は誰もいないのかと少し悲しくなりました。しかし、父は言葉を続けました。

「政樹の名前は、ゆきちゃん(母)がつけたからなぁ。」

この言葉に、僕はハッとさせられました。母が自殺で亡くなって以来、母に自分のことを否定されたと思い続けてきたからです。後日、実家で昔のアルバムをあさっていると生後の記録が出てきて生後4日目に『名前はやはり政樹になりそう。何となく産んだ次の日にインスピレーションを感じました。ネ!マーくん!』と母が書いてくれていました。

結局、名前の由来は分からずじまい(最後は占い師と相談しながら決めたそう)でしたが『母が僕の名前をつけてくれたこと』を確認できて抱えていた気持ちが軽くなりました。政樹という名前は母が大切に想ってくれていた証拠なんだ、と。おおげさに聞こえるかもしれませんが、自分も生きていて良い存在なんだと素直に思うことができました。

この15年間、本当にいろんなことがありいろんな感情を抱きました。孤独を感じながら強く生きねばと歯を食いしばってきた日々、東日本大震災で自分の非力さを痛感して悩んだときに「そっちの方が人間くさくて良いよ」と弱さを認めてくれた経験、ふと仕事の帰り道で『自分はきっと母親に一番認められたかったんだ』と気づいたこと。一つひとつストーリーをあげていくときりがありません。

①母は僕の心の中で生き続けている

振り返ってまず想うことは『母は今まで僕の心の中で生き続けてきた』ということです。このように思えることは何だか不思議な気持ちがします。僕は、特に宗教を信仰している訳ではありません。これは体験に基づいた実感です。しかし、この想いにたどり着くまで、そして今も葛藤があります。

同時に想うことは、やっぱり母の死は肯定できないということ。母が亡くなったことが原点となって生きてきたので、母の死がなければできなかった経験や感じることのなかった気持ちがほとんどです。それでも、できることなら、母には生きていてほしかった。母が心の中で生き続けてきたということに不思議な気持ちがする理由はここにあります。

②痛みは無理に乗り越えるものではない

二つ目に想うことは『痛みは無理に乗り越えるものではない』ということです。母の死による痛みはいつか乗り越えられるものだと思ってきたことがあります。僕は、一つひとつ階段をのぼっていくと何かが変わるはずというイメージで生きてきました。

5年前、母が亡くなってから10年経ったときに『10年踏ん張れば』と思ってきたのに変わらない自分の感情に驚きました。そこに、階段はありませんでした。母の死は向き合い続ける、そして一生きっと一緒に生き続けるもの。母はこれからも僕の心の中で生き続けるのだと思います。

③今を生きるお母さんたちにエールを送りたい

だからこそ、三つ目に想うことは『今を生きるお母さんたちにエールを送りたい』ということです。母の日に母へ直接伝えることができない代わりに、僕は今を生きるお母さんたちがもっと大切にされる社会であってほしいと切に願っています。僕が社会課題に取り組む仕事をしているのは、自分と同じような想いをしている子どもだけではなく今を生きるお母さんたちに対して僕の母と同じような想いをしてほしくない気持ちもあるからです。

友人が母の日にお母さんへ日頃の感謝を伝えようとするとき、『よかった』と僕は思います。勝手ながら今年は僕からも感謝の気持ちと心からのエールをお送りします。よければ受け取ってください。

④周りの支えへの感謝の気持ち

そして、最後の一つは『周りの支えへの感謝の気持ち』です。勤めている財団を仲間たちと立ち上げたころに昔から僕のことを知ってくれている人から手紙をもらうことがありました。

『初めてマー君に会ったのは小学校6年生の春、通知表を「ハイ!」って手渡してくれたのを今でも覚えています。そして2回目は北海道の友達と旅行で訪ねて来てくれたね。お店でいけすの鯛を釣り上げて活き造りにしてもらったら、マー君が一口食べて「人生で一番おいしいかも。。」と言ってくれたんだった。懐かしいなー(^^)

あれから10年と少し政樹くんは遠く神戸から離れた北海道で親の助けを借りずに大学に通い、本当に大変だったと思います。今こうして政樹くんが成長し社会人として活躍しているのは色んな人たちの助けがあったからかもしれないけれど、政樹くん本人がとても頑張った証だと思います。』

この手紙は、いつもスケジュール帳に入れて持ち歩いています。僕は絶え間ない小さな支えがあったから前を向いて生きてくることができました。15年という歳月をふりかえると、今まで支えてくれた人たちに感謝の気持ちでいっぱいになります。本当にありがとうございます。

次へのステップをカーネーションの代わりに

最後に、僕が目指す次へのステップを書いて終わりたいと思います。母の名前は「敬代」。これは母へ敬いの気持ちをカーネーションで送る代わりです。

僕は数年前から「20代のうちに達成したいこと」を5つ決めていました。一つ目は、今までの学びや経験を活かして国家資格を取得すること。このチャレンジは2017年3月に社会福祉士に合格して達成することができました。

二つ目と三つ目は、これからの人生の土台をつくるために大学院(修士)に進学すること、海外で一年以上滞在することです。その一歩として、今回は7月に一週間ほど休暇を取ってイギリスに行くことを決めました。大学の教授からは『グローバルな視点に立ち、ローカルに活動すること』と『実践と研究の二刀流』についてご指導いただきました。大きな世界のうねりを自分の肌で感じ、自分がどのような人生を歩むことで世のため人のためになれるのか考えてまいります。

四つ目は、同じような経験をしている子ども・若者や生きづらさを抱える人たちに今までの経験を伝えることで前を向くことのできるきっかけをつくることです。具体的には、本の出版を通して広く一人でも多くの人に伝えたいと考えています。また、本の出版は『母が生きてきた証』を形にすることで世に残すことになると思っています。

そして、最後の一つは、結婚です。母が亡くなって以来、何かをしないといけない衝動がありました。でも、自分の弱さを受け止めてくれる人の存在や『自分はきっと母親に一番認められたかったんだ』と気づけたことで意識せずにぼーっと過ごすことができるようになりました。

そんな僕にとってパートナーと生きることや子どもができることはささやかであり、何気ない日常の幸せを確かめ合える大きな目標です。自分の人生をパートナーと分かち合い、パートナーの人生を分かち合ってもらえることが僕のあこがれです。

母の日の起源は、母の死に遭遇した子どもが生前に感謝や敬いの気持ちを伝える機会をつくろうと働きかけたことだと言われています。母の日を前に、この記事が少しでもお母さんや周りの人のことを考える機会になれば幸いです。

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