絶望の先に希望を見いだした男の話ー第1章ー
ー絶望の先に希望はあるのか、ー
幼少期と家族
1979年11月22日、
僕は鹿児島県鹿児島市に生まれました。
家族は僕と父と母と弟の4人家族、
両親はお見合い結婚で、
住宅地の一角で電気店を営んでました。
父親は温和で真面目で仕事一筋、
タバコも女遊びもせず、ただ仕事。
そういう生き方しかできない人でした。
母親は器量がよく、色々なことに挑戦し、
精力的に活動する人で
感情の起伏が激しく
主導権を握りたがる人でもありました。
温和な父はほとんど母に従うイエスマンでした、
僕は自分で言うのもなんですが、
そこそこ可愛らしい顔立ちをしていたので、
小さいころは周りの人からちやほやされてました。
ただし結構、人見知りが激しくあまり気がきかない子供でした、
弟は僕より4歳年下で、
顔は僕と瓜二つで、
甘え上手で気がきく世渡り上手な子供でした。
ある日、僕と弟と母の3人で夜中にドラマを観ていたのですが、
そのドラマに感動した弟は僕と母の傍らで号泣しました、
対して、僕は多少は感動はしていたけど、無表情で画面を眺めていただけ、
その僕の態度に対し、
僕はその言葉に子供ながら深く傷つきました、
僕が長男というのもあるかもしれないですが、
これ以降、何か母親と衝突するたびにこの話を
引き合いに出され、
母親とは溝が深まるばかり、
父は母の言うことを従うだけの人でしたので、
僕は次第に家族の中で孤立するようになりました、、、
やんちゃだった小学生時代
それでも、小学生のころは
昼休みは普通に友達と外遊びをしたり、
放課後は弟や近所の友達を引き連れて、
近くの公園の裏山で秘密基地を作ったりと
ちょっとしたガキ大将気取りの
元気で活発な子供でした、
そして、、、、中学校へ
そして、中学生になってしばらくしてから、
小学校の時、友達だった子からふとしたことで、
いじめられるようになりました、
(いじめられるきっかけは昔のことなので、
思い出せない、いや
思い出したくないだけかもしれませんが)
当時はSNSというものがなかったので、
今のようにいじめは陰湿なものではなく、
結構、顕著なものでした、
授業後の休み時間、昼休み
他のクラスメイトが見ている前で
数人に寄ってたかっていじめられました。
僕はいじめた子に対して、
憎しみという感情は生まれず
ただひたすら恐怖という
感情に埋め尽くされていました、
ただなすすべもなく、クラスメイトの前で
蹂躙されるだけの日々、
ねえ、誰か助けてよ、
なんで腫れ物を見るような目で僕を見るの?
こんな無様な姿、恥ずかしい
誰も信じられない、
学校に行くのがつらい、
人と目を合わせたくない、
いっそのことラクになりたい、
家族の中で孤立しがちだった僕は
当然、親にもいじめのことを話すこともできず、
毎日、いつ彼らと鉢合わせするんじゃないかと
怯えながら、
通学路の公園の長く続く階段を
下にうつむきながら、通学していました。
今、思えば、
僕が未だに階段を上り下りするとき、
足元を見ないと
階段を上り下りできないのは、
このいじめのトラウマをひきずっている
せいかもしれません。
僕は次第に
外で遊ばなくなり、
休み時間や昼休みの大半を
図書室で過ごすようになりました、
ただ、あの教室から逃げ出したかった、
僕は本を読み漁り、空想の世界に逃げ込んだり、
勉強に没頭するようになりました、
そして、中学の3年間を耐えて、卒業。
地元より少し離れた高校へ進学し、
ようやくいじめから解放されました。
しかし、そのころにはもう、
小学生のころの元気で活発だった面影は
ほとんどなくなっていました、
時は流れ、現在、
そして現在、会社の昼休み中に
連日のように流れるいじめの報道、
同僚が関心を持っているふりをして適当なセリフを
並べる傍らで僕は無関心を装う、
しかし、本当は胸が締め付けられるほど
苦しかった、
いじめられて命を落としていく子の
気持ちが痛いほどよく分かったから、
どうか生きて、生きてさえいれば、
その先に必ずいいことがあるから、
ー絶望の先に希望はあるからー
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