元不登校生の生い立ち①

次話: 元不登校生の生い立ち②

よくある不登校生の話です。小学生〜中学生編



良くも悪くも自分の両親が喧嘩が絶えず、いつも今日は喧嘩をする日だろうか、と怯え、ほぼ毎日隣から聞こえてくる両親のセックスを不快に耳にする日々を過ごしながら、無虚な子供時代だった。


取り立てて虐待と言ったことは無いものの、共働きで忙しい両親は自分と妹にかまう余裕もなかった。唯一、一緒に住んでいた祖父母が遊び相手だった。


両親自身も、私が聞いた限りでは、中学校はろくに行かず、高校も大学も出ずに、私たちを育ててくれた。そんな両親の遺伝子を受け継いでいるのか、それとも、絶え間無い喧嘩を目にする日々が自分の心身を疲弊させてるのか、周りの子とうまく関係が築けず、と言うよりも何を話していいのか分からず、和の中に入れない自分は一人ぼっちなことも多かった。


そんな自分は、学校で一人になる辛さや、いじめと言ったいじめは無いものの、小学生によくある、女の子同志の影口の対象にされることがよくあった。大人しくて、何も言わないからいい鴨だったんだと思う。


楽しく無い学校生活に、学校に行きたく無い!と母親に泣き叫んでは、母親を悲しませ、小学校はズルをして休んだり、熱を出すことも多かったせいか、ぽつぽつ休むことも多かった。


何故か、心身疲弊してしまうと、クラスの授業についていけない、ということが何度かあった。割り算が出来ずに、なんで自分だけが出来ないんだろうと悩み、そして親にかまってもらえない寂しさからなのか、母親につきっきりで私は割り算出来ないんだ、とずっと家の机のノートを見つめながら、「教えて」と教えてもらっても、分からないと言い張っては、机にずっと居るというようなことを思い出す。


その後、どういう風に自分が回復したのかは、分からないが、分かるようになった。また、行き場の無い感情に周りの大人に癇癪を起こすことも多々あった。


中学に入り、中学1年までは新しい地域の子が多いクラスに当たったためか、それなりに楽しく過ごせたと思う。中学2年からは、自己のアイデンティが芽生え始め、かつ小学生の時に接するのがしんどかった女の子と同じクラスになり、またクラス自体が荒れ果てていたところもあり、クラスにも馴染めなかった。


半年間は、学校に行かなかった。女の子同志で連むということが、未だにそうですが苦手で仕方がなかった。


それでも孤独に絶えられないから、なんとなく仲良くする子はできても、なんで自分はこんなんなんだ!と悩み、和気藹々楽しもう、という風にはなれなかった。


そこの居場所だけで自分のアイデンティティを確立させる、ということが苦痛で仕方がなかった。子供の幼い頭の発想による、発言できる子、勉強できる子、明るい子、楽しい子、スポーツできる子の線引きで物事の価値観が決まりきってしまう、学校という小さなコミュニティに苛立っていた。また、家に帰っても、帰宅部だった自分はやりたいことも無く、勉強をして良い偏差値を取りたい!と思っても、勉強もうまく出来ず、成績もそこまで良くは無かった。


学校に行かなかった半年間は、保健室登校のようなもので、週1で補習は受けるものの、行ったり行かなかったりを繰り返した。家に引きこもっては、泣いたり、机に愚痴を書いたり、私の時代はネットが少しずつ普及していたためか、ネットで知り合った女の子とヴィジュアル系のバンドのライブに行ったり、いわゆるそういうメイクをして、無虚な自分に救いを求めるように、遊んでいた時もあった。


ネットが普及していたためか、なんと無くグラフィックデザインを職業にしたいな、と夢に見ていた。


母親は不登校の自分を見ては、「アメリカに行ってみたら?」とよく言ってた。私にはそんな勇気無かった。父親や祖母、妹は「なんで学校に行かないの?」と責められる日々だった。行こうと思って試みても、その辺をウロウロして、家に帰ってきて、押入れに隠れる、なんてこともあった。


その半年間は、テストを受けてもほぼ勉強していないから、通知表がほぼオール1か、2だった。


何人か、なんと無く、仲の良かった子たちが、多分先生に言われて家に来たことがあった。なんで学校にこないの?と傷つくようなことをいう子もいた。ただ、他の子が来た時に、自分を思ってくれる子がいるなら、自分にグラフィックデザインを勉強したい、という夢があるなら、また学校に行こうと思う時があって、中学3年から復学した。



続きのストーリーはこちら!

元不登校生の生い立ち②

著者のよせ みてさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。