パパ曰く、「人生って「にらめっこ」くらい笑えるんだよ♪」のお話
それは衝撃的な出来事でした。
こんなスゴイ父親に出会ったのです。
とある病院の待合室での出来事。
僕は子供の頃からアトピーで隔週で病院に通っています。
皮膚科の待合室っていうのは「ここは小児科か?」と思うくらい子供たちであふれ帰っているんです。
毎回それはそれはワイワイ、ギャーギャーで大~変。
この子供たちを観察していて面白いのは、子供って親が嫌がることばかりやるんですね。
親が「お願いだからそれだけはやらないで」って言うことを全部やります。
ママさんが「そんなところに寝転ばないで」って言えば、必ずそんなところで寝転びます。
パパさんが「静かに座ってて」って言えば、必ず立ち上がって騒ぎ出します。
なぜかって子供って親の気を引くために必死なんですね。
親が自分から気をそらすと必ず、親の嫌がることをして親の目を自分にむけようとする。
子供は親を困らせようという意識は無く、ただ親の目を自分にむけてほしいという一種の愛情表現だということが傍目にはよく分かるんです。
そうと分かっていても親にとってはそれは本当に大変。だって自分が嫌がることを全てやってくる小(子)悪魔たちを相手にしなきゃいけないんですから。
気持ちが病むこともあるでしょう。
でもそんな「壮絶」な場面の中で、一人スゴイ父親がいたんです。
4~5才くらいの娘さんを連れた僕と同じ年齢くらいのパパさん。
僕の隣に座ったその父親は娘さんにこんな風に話しかけていました。
「いいかい、今からパパは先生のところにいってくるからね。」
「何してくるの?」娘さんがたずねます。
「パパはねえ、先生と「にらめっこ」の勝負をしてくるんだよ。
前回は先生に負けち ゃったから、今度は負けられないんだ。一つお願いがあるん だけど聞いてくれる?」
「うん、いいよ。」
「今から先生に呼ばれて行って来るから、パパがあのドアから診察室に入った時から 何分で帰ってこれるか数えていてほしいんだ。」
「うん、分かった。」
父親は名前を呼ばれて診察室に入っていきました。
その瞬間から父親との約束どおり娘さんは指を折りながらカウントをし始めました。
周りの同年代の子供たちがワイワイ騒いでいるのに対し、彼女は父親に正確な時間を告げるために、それはそれは真剣に秒数を数えていました。
その姿がいじらしく可愛らしい。
やがて父親は笑顔で帰ってきました。
そして娘さんの隣に座るやいなや「何分だった?」とたずねました。
すると娘さんが答えます。
「1分55秒だったよ。それで「にらめっこ」は?」
「パパが勝ったよ。先生ね、始めはスゴク恐い顔してたけど笑ったらスゴク優しい顔 になったよ。本当は優しい先生だったよ。」
「な~んだ、私も行きたかったなあ。」
これらの会話を隣で「盗み聞き」していた僕はスゴイ父親が世の中にはいたものだと感動していました。
父親は叱ることも怒鳴ることもなく、娘さんを静かに待たせる知恵(知性)で見事にコントロールしていたのです。
周りでは「静かにしなさい」「座りなさい」ああしなさい、こうしなさいという「壮絶」なバトルが繰り広げられているにも関わらず、この父娘だけは別世界のように穏やかでしかも楽しく時間が進んでいます。
子供が嫌がる(恐がる)病院やドクターを楽しいキャラとして娘さんにインプットしている。
そして娘さんが言った、
「な~んだ、私も行きたかったなあ。」
という言葉を聞いて僕はハタと膝を打ったのです。
「そうか!子供を育てるということはこういうことか!」と。
こういう言葉が教育だと勘違いしている人たちがいる。
「人生って厳しいものなんだよ」
「世の中ってそんなに甘くないんだよ」
「パパだって会社で怒られてツライ思いをしてるんだよ」
子供たちに「人生の厳しさ」を最初に植えつけておくことでどんな難関がきても頑張れる子供に育ってほしい。
君だけがツライんじゃなくて、みんなツライ思いをしてるんだ、と。
こうしたスタイルを教育だと勘違いしてしまっていないだろうか?
これでは子供たちは萎縮してしまうし、「世の中」は恐いところだから大人なんかにならずに子供のままでいたい。
いつまでも親に守ってもらいたい。
こんな風にして自らの成長を自らの意思で止めてしまっているのではないか。
だって成長して大人になったらそんなヒドイ世の中に入っていかなくてはならないのですから。
こうした誤った「オドシ言葉」がいつまでも未熟な子供たちをつくってしまっている可能性がある。
ここに気がつく必要があるのです。
つまり精神的に未熟な子供が増えたのは彼ら自身のせいではない。
大人たちが彼らに対して使っている「オドシ言葉」にあるのかもしれません。
だから僕はこんな言葉を娘に投げかけていきたい。
「人生って「にらめっこ」みたいに面白いんだよ。」
「世の中ってハチミツくらい甘~いんだよ。」
「パパにお金をくれる会社にお礼を言ってみようよ。」
こんな言葉をシャワーのように毎日浴びせられたら、キット子供たちは目を輝かせながら成長していくことでしょうね。
だから僕は子供たちに伝えたい!
「人生は「にらめっこ」くらい笑えるんだよ。」
おしまい
こんなスゴイ父親に出会ったのです。
とある病院の待合室での出来事。
僕は子供の頃からアトピーで隔週で病院に通っています。
皮膚科の待合室っていうのは「ここは小児科か?」と思うくらい子供たちであふれ帰っているんです。
毎回それはそれはワイワイ、ギャーギャーで大~変。
この子供たちを観察していて面白いのは、子供って親が嫌がることばかりやるんですね。
親が「お願いだからそれだけはやらないで」って言うことを全部やります。
ママさんが「そんなところに寝転ばないで」って言えば、必ずそんなところで寝転びます。
パパさんが「静かに座ってて」って言えば、必ず立ち上がって騒ぎ出します。
なぜかって子供って親の気を引くために必死なんですね。
親が自分から気をそらすと必ず、親の嫌がることをして親の目を自分にむけようとする。
子供は親を困らせようという意識は無く、ただ親の目を自分にむけてほしいという一種の愛情表現だということが傍目にはよく分かるんです。
そうと分かっていても親にとってはそれは本当に大変。だって自分が嫌がることを全てやってくる小(子)悪魔たちを相手にしなきゃいけないんですから。
気持ちが病むこともあるでしょう。
でもそんな「壮絶」な場面の中で、一人スゴイ父親がいたんです。
4~5才くらいの娘さんを連れた僕と同じ年齢くらいのパパさん。
僕の隣に座ったその父親は娘さんにこんな風に話しかけていました。
「いいかい、今からパパは先生のところにいってくるからね。」
「何してくるの?」娘さんがたずねます。
「パパはねえ、先生と「にらめっこ」の勝負をしてくるんだよ。
前回は先生に負けち ゃったから、今度は負けられないんだ。一つお願いがあるん だけど聞いてくれる?」
「うん、いいよ。」
「今から先生に呼ばれて行って来るから、パパがあのドアから診察室に入った時から 何分で帰ってこれるか数えていてほしいんだ。」
「うん、分かった。」
父親は名前を呼ばれて診察室に入っていきました。
その瞬間から父親との約束どおり娘さんは指を折りながらカウントをし始めました。
周りの同年代の子供たちがワイワイ騒いでいるのに対し、彼女は父親に正確な時間を告げるために、それはそれは真剣に秒数を数えていました。
その姿がいじらしく可愛らしい。
やがて父親は笑顔で帰ってきました。
そして娘さんの隣に座るやいなや「何分だった?」とたずねました。
すると娘さんが答えます。
「1分55秒だったよ。それで「にらめっこ」は?」
「パパが勝ったよ。先生ね、始めはスゴク恐い顔してたけど笑ったらスゴク優しい顔 になったよ。本当は優しい先生だったよ。」
「な~んだ、私も行きたかったなあ。」
これらの会話を隣で「盗み聞き」していた僕はスゴイ父親が世の中にはいたものだと感動していました。
父親は叱ることも怒鳴ることもなく、娘さんを静かに待たせる知恵(知性)で見事にコントロールしていたのです。
周りでは「静かにしなさい」「座りなさい」ああしなさい、こうしなさいという「壮絶」なバトルが繰り広げられているにも関わらず、この父娘だけは別世界のように穏やかでしかも楽しく時間が進んでいます。
子供が嫌がる(恐がる)病院やドクターを楽しいキャラとして娘さんにインプットしている。
そして娘さんが言った、
「な~んだ、私も行きたかったなあ。」
という言葉を聞いて僕はハタと膝を打ったのです。
「そうか!子供を育てるということはこういうことか!」と。
こういう言葉が教育だと勘違いしている人たちがいる。
「人生って厳しいものなんだよ」
「世の中ってそんなに甘くないんだよ」
「パパだって会社で怒られてツライ思いをしてるんだよ」
子供たちに「人生の厳しさ」を最初に植えつけておくことでどんな難関がきても頑張れる子供に育ってほしい。
君だけがツライんじゃなくて、みんなツライ思いをしてるんだ、と。
こうしたスタイルを教育だと勘違いしてしまっていないだろうか?
これでは子供たちは萎縮してしまうし、「世の中」は恐いところだから大人なんかにならずに子供のままでいたい。
いつまでも親に守ってもらいたい。
こんな風にして自らの成長を自らの意思で止めてしまっているのではないか。
だって成長して大人になったらそんなヒドイ世の中に入っていかなくてはならないのですから。
こうした誤った「オドシ言葉」がいつまでも未熟な子供たちをつくってしまっている可能性がある。
ここに気がつく必要があるのです。
つまり精神的に未熟な子供が増えたのは彼ら自身のせいではない。
大人たちが彼らに対して使っている「オドシ言葉」にあるのかもしれません。
だから僕はこんな言葉を娘に投げかけていきたい。
「人生って「にらめっこ」みたいに面白いんだよ。」
「世の中ってハチミツくらい甘~いんだよ。」
「パパにお金をくれる会社にお礼を言ってみようよ。」
こんな言葉をシャワーのように毎日浴びせられたら、キット子供たちは目を輝かせながら成長していくことでしょうね。
だから僕は子供たちに伝えたい!
「人生は「にらめっこ」くらい笑えるんだよ。」
おしまい
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