アメリカ企業から中国に派遣された日本人が地獄を見て学んだこと(2)

前話: アメリカ企業から中国に派遣された日本人が地獄を見て学んだこと(1)

中国人について知る

プロジェクトがうまくいかないのは、中国や中国人についてよく分かっていないからだ、と思いついた私。

ただ、中国人についてもっと知りたい、と思っても、一体どうすればいいのかよく分かりません。とりあえず考えた方法は、

(1)本を読む

(2)よく知っている人に話を聞く

(3)プロジェクトチームやクライエントを個人的に知る

ということでした。


まず、英語や日本語で書かれた中国人や中国ビジネスの本を読みあさりました。それから、一緒にアメリカから行っていた人の母親が中国で成功していた香港人だったので、その人に教えを請うことにしました。


また、言葉は話せなくても中国人の中に入っていけるよう、中国で人気のある歌手の歌をひたすら聞いて音を覚え、カラオケで歌えるようにしました。


もしかすると、この最後の方法が一番投資効果があったかも知れません。


というのも、中国人はカラオケが好き。しかも歌がうまい。皆が盛り上がっている中で、日本人がはやっている中国の歌を下手くそに歌うと、誇りとか同情心とかよく分からない色々な感情が入り交じるらしく、いきなり距離が縮まります。


その流れで、会議でも通訳なしで言っている事がある程度分かるよう、専門分野に関する中国語の資料を読みあさりました。


日本人にとって、これはたいして難しいことではないと思います。というのも、少なくとも私の専門分野では、使われている単語はほぼ日本語と同じで、高校時代の漢文と基本的な文法の知識を駆使すれば、読む事自体はそれほど労力を要しませんでした。


こういう地道な努力を続けていると、気づいてくれる人はいるもので、そのうちにローカルのプロジェクトチームが心を開いてくれるようになりました。彼らとの会話で、日本人の私がいきなり来て、中国人マネージャーの面子をつぶしたことが感情的に受け入れられなかったことも理解できました。


あるとき、食事をしながら南京大虐殺の話をされました。戦争博物館に行ったら分かるからと言われ、南京大虐殺をテーマにしたBBCのドキュメンタリーのビデオも渡されました。この話は私にとっては非常に抵抗がありましたが、試されているんだろうと思い、早速次の週末には戦争博物館に行き、ドキュメンタリーを見ました。


次にその話が出たとき、私は実際に見て感じたことを話しました。

「日本で学んだ事と違うし、本当にあった話だとは信じられない」

と正直に言いました。でも、それ以降、この話をした人は、何があっても矢面に立ってくれて、昼夜問わず一生懸命働いてくれました。


もちろん、こんな短期間の勉強や経験で、一つの国や国民について知る事ができるのは、一部分だと思います。


ただ、相手を知ろうとすることによって敬意を表し、それが相手に受け入れられる経験をしたのは、一生の財産だと思っています。


アメリカ本社との板挟み

ローカルのチームを通して、クライエントのチームとも個人的に距離を縮め、ようやく一緒に食事をするまでこぎつけました。中国で一緒に食事をするというのは、重要な意味を持ちます。


人に会ったときに「もう食べた?」って挨拶するくらい、中国人にとって食事は大事だそうです。


クライエントの汚い社屋にある食堂で、体を押されながら列に並び、恐ろしいほど食材の原型をとどめていないほぼ液体状の何かを、給食を彷彿とさせるアルミ製の皿にのせたご飯の上にてんこもりにされました。クライエントのチームメンバーと向かい合って座り、彼らが口から骨のようなものをぺっぺとテーブルの上に吐き出すのを見ながら、仕事とは関係のない話をすることができました。


そんな感じでチームが何につまずいていて、クライエントが何を欲しているのか分かってくると、今度は新たな問題が出てきました。


自分があまりにも現地目線になりすぎて、アメリカ本社との板挟みになってしまったのです。


以前は当たり前だと思っていた本社の要求が、今度はあまりにも不本意だと思われて仕方がないのです。ここは中国なのに、なぜそのようなやり方が通じると思うのか?と、怒りさえおぼえるほどです。


そんなときに、ボスがアメリカから北京にやってきました。

そして、

Boss
そんなやり方だと、今度は君自身が問題になってしまうよ


と言われたのです。


そう言われて、私はまたはっとしました。


自分は、こじれた問題を解決するためにここにいる。


でも、問題にフォーカスしすぎて、なんのためにその問題を解決しなければいけないのかを忘れていた。


またまた、基本的なことを忘れていたのです。


最初に中国人の面子をつぶしたときも、今回も、私は自分は正しい事をしているのに、周りが何故分かってくれないのか?と空回りしていました。


でも、問題は解決する事自体が大事なのではなく、そのプロセスも大事なのです。そして、そのプロセスには、必ず人を巻き込んでいかなければならず、人を巻き込んで動かすには、「自分が正しい」と思っているだけではダメなのだと。


ただ、そこにたどり着くまでには結構時間がかかり、クライエントと本社の板挟みになりながらチームをまとめなければなかった私は焦燥しきっていました。


時には、大まじめで上の人に、

「責任者に賄賂を払うのはどうか」

などと提案してみたりしました。


今考えればおかしな話ですが、当時は相当追いつめられていました。


汚くて臭い社屋で、一日中誰かに文句を言われる日々。


本社は何も助けてくれないどころか、コストを抑えるように言われ続け、営業とクライエントにはもっとただで色々やってくれとプレッシャーをかけられ、挙げ句の果てにはチームの中で仕事のできる人が男性だからえこひいきしているとまで言われ。


反動で夜は飲みまくり、オールで遊ぶことも増え、髪はぱさぱさ、肌はガサガサ、頬はこけて、女としても終わったな・・・という状態でした。


セクハラ

なのに、何故かその時期に生まれて初めてのセクハラ体験までしてしまいました。女一人で出張していると、色々と誘惑はあるのですが、普通はそれほど害のないレベルで終わります。


でもそのときは、仕事関係の人が、ホテルの部屋まで上がってこようとするという事態にまで発展しました。


今考えてみると、自分があまりにも精神的に追いつめられていたため、隙がいっぱいあったのだと思います。でも、30過ぎた既婚者に対してそういう考えを持つ男性がいること自体が想定外で、実際にそういうことが起こったときには「怖い」を通りこして、ぽかんとしてしまいました。


そのうち一人は社内の人で、映画俳優ばりのイケメンでした。つい関西人のくせで「男前やわ〜」みたいにおだてていたので、相手はセクハラのつもりはなかったのかも知れません。


この人とは、会議室で二人きりになったとき、いきなりいすを引っ張られ、私の体を相手の股の間に入れられたりという、訳の分からない状況に陥ったりもしました。


もう一人はクライエントだったので複雑で、この人の心証を悪くしたらプロジェクトが終わらないかも知れないという恐怖心があったため、長期にわたって綱渡りをしていたような状況でした。


冷静に考えると、こういうのは、アメリカ本社の人事にちゃんと報告をすべきだったのかも知れません。でも、ボスも「害がないならあおっとけ」みたいな人だったので、結局私に丸投げでした。


ちなみに、私の泊まっていたホテルは、ジムから各階のドアが丸見えでした。そして、深夜に運動をしている時に、あちこちの部屋から商売だと思われる女の人が出てくるのを何回も目撃しました。出張先でそういうことがあるのは、もしかすると案外普通のことなのかも知れません。


セクハラとは関係ないですが、なぜかクライエントと一緒に一泊旅行で山に連れていかれ、夜にはカラオケでチークダンスがはじまり、よく知らないお客さんと踊らされたこともあります。お客さんと一緒に旅行したり、カラオケで人が歌っているときにチークを踊るのが中国では普通なのか、いまだに謎です。


内と外

そんな、仕事面でも個人的にも最悪な状況での北京生活も、はっと気がつけば数ヶ月たっていました。当初は1〜2ヶ月で終わると思われていた出張だったのですが、プロジェクトプランも大幅に書き換えなければいけなくなり、帰るに帰れなくなったのです。なんとか11月のアメリカ感謝祭までには終わらせたい、というのが、チーム全員の悲願でした。


その頃には、ローカルチームとアメリカチームが一丸となって目標に向かう体制が出来上がっていて、非常に能力の高いチームになっていました。このときに気がついたのは、中国人にとって内と外は日本人よりも強い区別があるのかも知れないということです。


というのも、いったん信頼されると、とことんまでやってくれる、そのとことん度合いが、明らかに日本人より高いのです。


でも、他人だと認識されているうちは、何もしてくれない・・・どころか、どうやったらこの相手から自分が利益を得られるか、という目で見られている気がします。


当時は、中国人はマナーが悪いとかよく言われていたのですが、それはマナーというより、こういう内と外の使い分けが原因の一端なのでは?と思いました。


これは立場を超えておこることのようで、クライエントも、最初はまるで敵のように扱ってきたのに、この頃にはどうすればこの案件を一緒に成功させられるかという方向にシフトしていました。


この、180度の態度の変換にはとにかく戸惑ったのを覚えています。でも、中国社会がコネ社会だと言われるゆえんは、こういうところから来ているのかも知れないと妙に納得しました。中国ビジネスの基本は、このストーリーの(1)で述べた「面子」と、「関係(コネ)」であると言われます。


でもこのコネは日本でいうコネよりももっと深くて、中国人の「内と外」の考え方と密接にリンクしているのではないかと思います。


私が中国で仕事をしたのは2年足らずなので、観察できたのも表面だけです。なので、この考えがどこまで正しいのかは分かりません。


ただ、クライエントが言ってくれたことが今でも印象に残っています。


「私は、あなたの会社は嫌いだ。あなたの上司も嫌いだ。でもあなたは好きだ。なぜならあなたは覚悟を持ったリーダーだからだ。あなたは初めて私たちが何を欲しているのか理解しようとしてくれた。だから私はあなたを助ける」


こんなこと言われたのは、後にも先にも一度きりです。でも、最初あれほど敵視されて軽蔑されていた相手にここまで言われたら、感動しかありません。たとえそれが、私の面子を保つためだけのお世辞だったとしても、私はこの言葉を棺桶に入れて死にたい思うほどでした。


そして帰国

結局、プロジェクトが終わったのは北京オリンピックが終わった翌年の2月でした。長い長いマラソンを走り抜いた気持ちでした。


長期に渡る出張のおかげで、夫婦関係が悪化したことは否めません。


それもあり、帰国後しばらくして、私は会社を辞めることにしました。出張の少ない、間違っても一日16時間労働などありえないようなちゃんとした仕事に転職しました。


でも・・・


あれから10年。

それなりに面白い仕事をして、給料も上がったけど、あの究極にきつかった北京での仕事以上に面白い仕事には、いまだに巡りあえていません。


短期間で、あれほど失敗して、あれほど学ぶことができるほど、自由度が高い仕事には、そうそう巡り会えるものではないようです。


仕事の面白さとキツさって、正比例するものなのでしょうか。


今、仕事で悩んでいる人がいたら、トンネルの向こうには必ず光がある、ということを伝えたいです。そして、大変な経験にも、自分で考えれば、何かしら将来につながる意味を見つけることができることも。


長くなりましたが、読んでくださってどうもありがとうございます。

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