シンプルな考えが、結局良い
「今日も依頼のメールは無し…か」
macOS標準搭載の"Mail"は、メーリングリストへの自動送信以外、何も受信しなかった。フリーランスの端くれ作編曲家は、今日も仕事をしなかった。
ぽつぽつと依頼を貰い始め、映像や演劇向けの楽曲制作にも慣れ始めた頃、今だと開業届を去年の10月に出したものの、現在までの依頼件数は数える程。結局のところ、レコーディングスタジオとライティングのアルバイトの方が儲けがあった。
しかし実際、国民健康保険や年金、その他税金に加え、無理して買った機材たちの借金の返済に明け暮れ、一人暮らしなんて出来もしない。その程度の、儲けだ。
『次は、末広町。末広町。』
地下鉄の無機質なアナウンスが、次の到着駅を知らせる。窓の外には、延々と暗闇が広がっていた。
きっとこの暗闇に降り立ったら、そのままスッと、消えてしまうだろう。闇に抵抗する力も持たない私は、溶けてしまうだろう。そんな錯覚さえ、覚える。そして消えたことなんて、ここの乗客は誰一人として気にも止めないだろう。私だって、今誰かが消えても、気にしないのだから。
そんな事を考えているうちに、暗闇の中で煌々と明かりの灯る、駅へと列車は到着する。
ーー末広町駅前、蔵前通り。
上野で乗り換える私は、しかし今日は、なんとなく降りていた。
道端でチラシを配るメイドを見たくなったのかもしれない。彼女らの何割かは、アイドル業の傍らメイド喫茶で働いている、いわば同じ境遇の同業者だ。そんな彼女らに同情してもらいたかったのだろうか。酷く醜い同情心だ、きっと煙たがられるだろう。
でも、私の足が向かった先は、違った。
「博多風龍 末広町駅前店」
気がつけば私は、580円(2017年6月現在)の、ラーメンと書かれた食券を購入していた。
やや黄色味がかった白濁の豚骨スープに、ネギ、キクラゲ、円状に薄くカットしたチャーシューの乗った、とんこつラーメン。麺は固めに注文した。
私はこの、シンプルなラーメンが大好きだった。
レンゲを沈め、一口目にスープを啜る。ああ、美味い。それ以外の言葉は、要らない。
そして半端に割れた箸で麺を摘み上げ、口へと運ぶ。
適度な細麺がスープを絡み上げる。
目を瞑り、よく噛む。
間違いない。
麺は固めで頼んだ。そうすれば後半、よりスープを麺が吸うからだ。
レンゲでスープを掬い上げ、啜りきれなかった麺と、暇そうに浮かぶネギ、その相手をするキクラゲを盛る。私はこれを、レンゲ上のミニラーメンと呼んでいる。
その小宇宙を口へ運ぶ。
そのハーモニーたるや、かのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトにすら、勝るとも劣らないであろう。軽やかな旋律に絡み合う第三、第五音、対旋律。しかしそれは決してくどくない、シンプルな和音。
宇宙と化した私の口に、チャーシューという惑星が潜り込む。この惑星は、薄いが為に食べやすく、しかし噛めば確かな味がある。グスターヴ・ホルストならきっと、分かるに違いない。チャーシューが惑星であることを。
気がつけば追加した替え玉の1皿、食べ終えていた。
「仕事は無いけど、明日も食べたい」
今は月一の楽しみの、このラーメン。毎週でも、いや下手したら毎日でも食べられるあっさりさ、しかしラーメンならではのコク・深さが、私を虜にしている。
チェーン店であるため都内各所にあるが、各地、少しずつ味が異なっている。今のところは末広町駅前店がお気に入りだ。
フリーランスは常にお金に悩まされる。そんな時は、このとんこつラーメンを食べると良い。シンプルに考える事が大切だと、改めて教えてくれる。
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