HAYATO NY物語18

HAYATO NY物語18

そのお店は赤坂の一ツ木通りにあるビルの2階で約30坪セット面12面シャンプー台4台のお店で先生の名は阿原先生

萩原宗美容室で総店長を務め名実ともに日本美容師のTOPスタイリストの一人で有った。

その阿原先生が萩原宗から独立し開業したお店がプレビ―赤坂と言う名のお店だ。

その当時、美容業界の事は詳しくは知らなかったが阿原先生の名は有名で

萩原宗美容室で日本一の売り上げと客数を保持していた美容師の大天才の先生だった。

今であればカリスマ美容師で有ろう。

お店に入店してからは毎日、あふれる先生のお客様とその神業的な技術を毎日見て来た。

毎日の総来客は50人を先生だけでも超えていた。

その当時はパーマの全盛時代で2名に一人はパーマをかけていた。

ヘアカラーは現代の様にポピュラーではなく、髪を染めているのは白髪の人かヤンキー系の人と社会的にパーマは受け入れられていたが,へアカラーはまだまだ不良なイメージ強く日本全体が保守的であった。

今現在日本ではカラーをしてない人の方が少ないくらいだ。

話を戻すが

他店の技術レベルの事を何一つ知らないので僕にとっての技術やサービスはこの阿原先生の技術や接客がすべて基本になって行った。

阿原先生の技術レベルが僕の技術の基本になった事が今現在の僕やサロンを成長させる原動力であることは間違いない。

他のサロンとは圧倒的な技術力の差があった。

僕は今だから思うが美容師を目指すならカリスマ美容師の下で学ぶべきです。

その基礎力がその後の美容師人生を大きく左右する。

車に例えるならフォーミラーワンの車と軽自動車ぐらいの違いぐらいにスタイリストの技術レベルが違う事が技術者になった時に理解出来た。

僕はついている。

サロンに日中勤めるかたわら日本美容専門学校の夜間生として毎晩6時PMから9時PMまで学校に通っていた。

僕は秋生徒として10月から入学して昼はサロン、夜は学校と言う二足の草鞋を履いて学んでいた。

学校は楽しかった。入学すると僕は他の生徒より年長者(20才)だったのでクラスみんなの推薦で委員長に任命された。

副院長は加奈ちゃん笑顔がとても素敵な少女だった。

お店は上下関係が厳しく嫌な先輩が一人いた。

その当時のお店はどこでも先輩と後輩の上下関係が厳しい時代で有った。

美容室での初めての仕事は掃除や洗濯が主な仕事だ。

次にシャンプーの技術を毎日教わり練習し約2週間程度でシャンプー技術の基本的な事をマスターする。

シャンプーをマスターして初めてシャンプーボーイとして美容師の第一歩が始まる

しかしシャンプー合格後、僕に地獄が待っている事は知る由もなかった。

美容師はたいてい春卒業して新入社員としてお店に入社する。

春入社の人達はたいてい同期と呼ばれる人間が複数いる。

でも僕は秋、入社の為に同期がいなかった。

先輩たちにはシャンプーに入れてはいけないと言う立て縛りがある時代であった。

その為にほぼすべてのお客様のシャンプーを半年遅れの入社の僕一人が担当すると言う事になった。

たった半年先に入社した先輩達はよほどお客様が重ならない限りシャンプーやお流しには入ってくれないのであった。

僕が営業で働いている間、全て僕がシャンプーや流しを担当する事になった。

休憩時間は基本ゼロに近く、どうしてもつらい時はトイレに駆け込み少し休んでいた。

先生のお客様だけで平均50人は来店される。そのほとんどのシャンンプーを僕が一人で回していたのである。

唯一の救いは5時PM過ぎで僕の仕事は終わりその後は学校に行くことでシャンプー地獄から抜け出せたことである。

土日は学校もないので毎日10時間はシャンプーとヘアカットのお流しである。

一日中シャンプー台から離れられない。一気に体重は53キロまで痩せた。

先輩たちは容赦なく僕が空いている限り僕にシャンンプーをさせ誰一人助けてくれる人はいなかった。

その中でも一番嫌な苦手な先輩がいた。

人は不思議なもので一番いい人と一番嫌な奴の名前は忘れない物である。

今でも鮮明に覚えている。下には厳しく上には媚を売る。

しかしその先輩は二枚舌で僕らの前では媚を売っている上司達の悪口や愚痴を僕らには吐くこのような先輩はどこにでもいる。

いつも僕に上司の愚痴を吐きいつ辞めようか相談をしてきていた。

心の中では「一日も早く辞めてくれないかな」と思っていたがその嫌いな先輩はなかなか辞めないのである。

嫌な先輩もいつまでも辞めないし、もう誰も先輩たちが助けてくれないなら一人で全部引き受けようと決めた。

そう考えて腹をくくったら今まで毎日のように胃がきりきりし下痢だった体調が良くなった。

半年も過ぎ春を迎えた。やっと嫌な先輩も辞めて行った。。。

新卒の新人が4人も入ってくる事になった。

僕もやっとこのシャンプー地獄から抜け出せると考えていた。

僕は半年でちょっと先輩になった。

がしかしまたも僕に試練が訪れた。

仕事が忙しい毎日の心のよりどころは夜間に通う学校とその後にみんなで集うシェーキーズのピザ屋での語らいであった。

毎晩週末以外は練習と言う練習もせず夜は毎日みんなと遊んでいた。

学校の仲間は僕を兄貴の様に慕ってくれ嬉しかった。

女子生徒にもそれなりに人気があり委員長としてみんなから信頼を集めていた。

しかし後輩が入社したことで実はかなり仕事では焦りが出てきた。

後輩たちがシャンプー試験に受かると次は次の技術習得科目カラーに入る

後輩たちは新卒生だから学校には行かないので毎晩のように営業終了後、練習を行っていた。

僕の心にやばいこのままでは後輩たちに技術で追い越されると考え焦った。

その日から僕は心を入れ替え、毎日学校が終わったらお店にお戻り終電近くまで練習をするようになった。

後輩に追い抜かれる事は僕のプライドが許さなかった。

僕が抱いたような嫌な先輩にみたいにはなりたくないとも思った。

そうやって毎日練習を始めるようになると毎日の練習が最高に楽しくなった。

シャンプーが出来ると次はワインディングと言うパーマをロッドと言われる円形のパーマ器具で

髪の毛をまく練習をする。

お店での試験はオールパーパスの全頭巻を一本当たり巻くタイムが15秒を切ることが試験だった。

始めは一本巻くにも全く上手く巻けない。時間にして一分以上かかっただろうか。

一本15秒以内なんて神様の領域に思えた。

お店で毎日練習するようになったら、そのおかげで学校でのパーマ技術のクラスも一番早くワインディングできるようになっていた。

なんでも一番は気持ちがいい物である。もっと上手くなりたい。もっと誰よりもいつも一番になりたいと思うと練習がさらに楽しくなっていった。

終電を忘れて朝まで練習したこともある。

若い僕は週に2,3日は仲間と夜遊びのことも忘れなかった。

終電が終わってからクラブに遊びにモデルハントと言う大義名分をもって女性に声をかけモデルハントしていた。

電車は始発までないのでお店で仮眠し、朝一の電車でアパートに戻り

着替えてまた出勤すると言う事が日常だった。

美容師を目指してから本当にお金はなかったが今考えると毎日がた楽しく充実していた。

#HAYATONY物語

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