海外おひとりさま駐在食べ物記 その1

1 / 3 ページ

後編: 海外おひとりさま駐在食べ物記 その2

60年近い人生の中で2回ほど海外に駐在したことがある。1回目は未だ新卒で入社した会社で5年過ぎた頃。もう一回は、もう40歳に手が届こうと言う時。どちらにも共通すること、それは"単身赴任"。

新卒で入った会社は海運会社。

日本には殆ど資源が無いので外国から輸入してくる必要がある。

そして国内で製造した製品を海外で売りさばいて、輸入する原料の代金や国内で暮らす人々の生活費を得ている。

入社した船会社は主に石炭や鉄鉱石、材木や穀物などの原料の輸送と、鋼材の輸出をしていた。

今は新日鉄住金となってしまった住金、住友金属工業の原料の半分を運んでいた。

但し、住金の荷物だけでは日本向きの物しかなかったり、あっても日本から鋼材を輸出した帰りの荷物がなかったりで、結局、住金以外の荷主の荷物も引き受けて世界中で船を動かしていた。

そんな中、北米のアラスカ州やワシントン州からの材木が効率の良い貨物として位置付けを増していった。燃料向けに木を燃やして不足気味になっていた中国向けもかなりの量を輸入するようになっていた。

そのような船の船長や積み地や揚げ地の代理店に指示を出して、効率的かつ安全な航海をするのが「運航」という仕事。航空機の管制官に似通ったところもある仕事だ。


この運航のついたのは入社して5年目。

それまで「管理」という経営企画をする部署にいて中期経営計画や予算の作成をしていて、営業を始めとする各部の部長相手に数字をグリグリと押し付けて、役員に報告するような仕事をして来た。

流石に新入社員の時からこれをやっていたわけだから、自分でも「このままでは現場を知らない頭でっかちになってしまう。」との危機感が芽生えて来て、自ら手を上げての異動だった。

運航に配属された社員は直ぐに担当船を数隻任せられる。

先輩に指導してもらうのだが、当時あったテレックス、今で言えばEメールであろうが、の文面は、課長に添削してもらった後でないと配信できない決まりだった。

恐る恐る、文面を見せると真っ赤に直されて帰ってくる日々。

時には、「これでXX大学出てんのか?」と罵声も。

因みに、この課長もXX大学卒業と後で知ったが。

そんな課長がある日の夕方、ボソッと尋ねてきた。

「今、お前がいなくなって困る奴はいないよな?」

(なんて失礼な事を言うのだろう?)

更に、「自分の飯くらい作れるんだよな?」

ここまで来ると流石に唯の皮肉ではない事が分かる。

そう、アメリカはワシントン州、と言っても東岸のワシントンDCではなく、西岸のかつてイチローがプレーしていたシアトル・マリナーズの本拠地、への長期出張の打診だった。

収益性の観点から重要度が増している北米からの材木輸送。

ところがこれが荷主のクレームの山。

荷主が用意する材木の品質で積むことのできる材木の量が変わるので運賃は一隻幾ら。

例えば沈木と言って水に沈むような材木は重量制限に引っ掛かり、嵩ばかり大きい材木はスペースを取ってしまう。

ところが荷主にしてみれば沢山積めなかったは船の責任との主張。

荷主も総合商社から街の大きな材木商まで様々。

滞船料で揉めていた荷主は現金数百万円を風呂敷に包んで持って来て、

「領収書切ってくれ」と雄叫び。その名もタイガーXX。嘘のようだが名刺にそう書いてあった。

この様な荷主のクレームの対応をするもの大きな目的の一つ。


困ったことに任期は3ヶ月から1年くらい。

当時は国際宅急便もなかったので急遽購入した人間一人入れる様なスーツケースに当座の着替えなどを詰め込んで旅立った。


ニューヨーク経由でシアトルへ乗り入れ。

空港には寄港する船を訪問して荷物の積み揚げを監督する船長資格のある社員が迎えに来てくれていた。空港近くにある代理店の一角を間借りして駐在員事務所としており、自分もそこに机を置かせてもらった。

住居は最初の数日間はホテルともモーテルとも判断が付かない宿に宿泊し、その後はキャプテン(船長の意味)が契約してくれていた丘の上に位置する大きなアパート群の一室に移った。

1ベットルームでキッチンとリビングルームがあり、バスタブ付きのシャワーも有る。

冷蔵庫、電子レンジはあるが、TV、洗濯機は無い。

長期出張でいつ帰るか分からないからとキャプテンは言う。

みんなの読んで良かった!