最愛のビッチな妻が死んだ 第2章 初夜

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「了解」

「高田馬場です。凄い混んでますね。体調悪かったら過換気症候群で倒れてました」

僕は会社から帰宅したままなので、いつでも出られる準備は完了していた。するとあげはからメッセージが来る。

「着きますよ」

「了解です。駅向かってます」

「出口はどちらでしょう」

僕たちは駅で落ち合い、僕はつけていたヘッドフォンをなくすぐらい変な緊張していた。

駅からの途中、コンビニで酒とつまみを買った。

この頃のあげはは「アタシ、ウィスキーしか飲まないんで」など、変なカッコ付けをしていたので、バーボンと自分用の梅酒を買った。結局、話すのに夢中になりバーボンは全然減ることはなかったのだが。

部屋に着き、緊張の中、また話し始める。

自分のこと、お互いのこと、前日会ったときのことや、LINEでやり取りしたことの反芻をした。

あっという間に12時を過ぎ、僕たちはキスをした。

シンデレラは魔法が解ける時刻だが、僕たちは夢中になる魔法にかかった。

「こんなアタシでも愛してくれますか」

あげはは、自身が抱えている病気――双極性障害について、無知な僕に教えてくれた。

生まれてすぐに両親に捨てられて、祖父母に育てられた。結局、祖母も自殺して、25歳で離婚して、その年に養子縁組をした太一さん以外に家族はいない。

小さいころから双極性障害と診断され、何度も自殺未遂をして、精神病院にも入った。

夜の世界で働いていて、その場限りの男と寝るのを含めると何千人以上の男と寝た。今は落ち着いているが、愛すれば愛するほど、あなたを殺すかもしれない。

自分の病気は治らない。

僕に迷惑をかけるかもしれない、いや絶対にかける。

僕は答えた。

「こんな僕でも愛してくれますか」

 ♢ ♢ ♢

僕は一般的な家庭に育ってはいるが、幼いころから4歳上の兄貴に暴力を振るわれていた。

プロレス技のパワーボムやパイルドライバー、関節技の実験台にされるのはもちろん、小1のときには突き飛ばされて車に轢かれた。

単身赴任の父と、兄のやることは何でも許して甘やかす母。母親は、殴られ泣いている僕に「がまん」と赤いペンで書いたティッシュを渡してきた。なぜ僕ががまんしなければならないのか? 当時の僕はそう思っていた。

小学校3年のとき、住んでいた大阪から名古屋に引っ越した。初めてマンションだった。僕の口から最初に出た言葉は、

「4階か~。これでいつ死にたくなっても飛び降りれるから、いつでも自殺できるね」

だった。母は「そんなこと言うんじゃありません」と怒った。

兄貴が中学に入ると暴力は機嫌とともに激しくなった。機嫌がよければ軽いものの、そうでないときは長時間続いた。

この時期、自分が虐待されているサインを送りたかったのか、僕は自分の髪の毛を抜くことにハマっていた。毛根がどうなっているのか見たかったという理由もある。

僕が髪の毛をむしっていることに気付いた母は「アンタ、ハゲできてるよ」と笑いまじりに注意し、そして次のように言った。

「転校でストレスが溜まっているのかしら」

(かしらじゃねえよ。もっと別の理由でストレスの限界来てるんだよ! 気付けよ)

このときから、親を頼るのは金以外でやめよう、無駄だ、と悟った。

兄貴はバイセクシャルで女装癖があり、僕を性的対象と見なしていた。そうして、キスやハグはもちろん、レイプまがいのことまでしてきた。

ケツに男性器を当てられたことも一度や二度ではない。ローションを塗られて本気で挿入されそうにもなったこともある。

親には、実の兄から性的虐待を受けていることは伝えていなかった。

いや、一度伝えたことはある。

ただし状況が変わることはなく、甘えん坊のチクリ野郎と、兄からの暴力がヒドくなっただけに終わった。

そして中学生になった僕は筋トレにハマった。言うまでもなく、兄からの暴力から身を守るため。

兄を殺すためである。

中学3年のとき、兄貴は通学途中に原付で事故った。ノーヘルでバスとぶつかったのだ。死ねばよかったのに。

集中治療室で身動きが取れない兄貴を見て、しかし不思議となぜか涙が出た。

「死ねばいいのに」

僕は兄貴を延命措置しているチューブをわざと踏んだりもした。だが、長時間踏む勇気はなかった。

結局、リハビリに2年かかったが、兄貴は頭がよりおかしくなって戻ってきた。事故したんだからと、母親の兄貴への甘やかしにより一層拍車がかかった。

「亡くなった人のことを悪くは言わない」というが、僕は絶対に兄貴が死んでもありのまま悪く言うし、このときに「死んだ方がよかった」と兄貴が生きている今でも思っている。

18歳で僕が大学に入るとともに、両親は生まれ故郷である熊本に家を建て、僕と兄貴は一緒にアパートを借りろと両親に命じられた。

親に嫌われたくない、困らせたくない、そんな一心で了承したが、この時期は自分の暗黒時代と言える。

兄貴は当時の彼女を家に連れ込み、僕のいるそばでセックスをした。ピロートークも丸聞こえの1Kで。

「弟さんに聞こえるよ」

「いいんだよアイツは。お前もむしろ興奮してるじゃん」

僕はこのときほど、殺意を長期間抱いていたことはない。

いつ寝ている兄貴の頭に鉄アレイを落としてやろうかと何度も何度もシュミュレーションして過ごした。

この暗く救いのない同棲時代は、25歳で出版社に入るまで続いた。

 ♢ ♢ ♢

「こんな僕を愛してくれますか」

何度も何度も僕たちはキスをして、お互いの目を見つめたままセックスをした。

行為の最中の一挙手一投足を見逃さないよう、まばたきもうざったく感じて見つめていた僕に、あげはは照れながらこう言った。

「もっと変態的なセックスする人かと思っていた」

僕は、相手から変態的なことを求められれば応じてきた。眼球を舐めたり、カッターでお互いを切り合い、血を舐め合ったり、縛ったり。

だが、見かけと裏腹にMではない僕は、痛いの大嫌いだ。噛みつかれてケンカして、女を置き去りに帰ったこともある。

あげはとのセックスに関しては、目を見ながらの正常位が好きだった。あげはは何千・何万人、僕は何百人、二人に経験人数の差はあれど、お互いがお互いに、今までで一番気持ちいいと言い合った。

あげはは前戯をしなくても見つめ合うだけで濡れ、僕は勃起できた。

挿入して見つめ合っているだけで、お互いは絶頂に達するほどに、二人の相性は最高だった。

そして僕たちは、交際はもちろん、結婚の意思を確認し合った。

「キョウスケがしてる中指の指輪ちょうだい。ネックレスにつけるから」

「いいけど、なんで」

「アタシがネックレスに指輪してれば、コイツ、男できたなって分かるから」

「分かったよ」

2月20日、そのまま同棲と交際がスタートした。この後、幾度となくセックスをするが、この日が2人にとって初夜であり、記念日となった。

(こんな自分でも愛してくれる)

僕たちは2ショット写真を撮りまくった。

キスをしながら、頬を寄せながら。写真に取られることが大嫌いな僕にとっては大きな変化だった。

何か大切なことの始まりを、何振り構わない大切なものを記念に収めたかったから。

何度も体を合わせ、朝方にはきしむシングルベットの上で、2人は大事なものを守るように安心とまどろみの中、抱き合って、手を繋いで眠りについた。

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最愛のビッチな妻が死んだ 第3章

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