33歳のフリーランスライターが、ある日突然「ハードコアラップ」を始めた理由。

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 狭井悠(Sai Haruka)です。

 突然ですが、ハードコアラップ、始めました。


 今回のコラムでは「なぜ今、33歳のものかきがラップを歌い始めたのか」というお話と、3曲の楽曲をお届けしようと思います。


 わざわざこんな説明などしなくても、勝手に聴いてもらうのが音楽の自由さなのかもしれませんが、僕はこれまで長らく「ものかき」を自称してきたため、ものかきとしての僕を知る方は「そもそも音楽やってたの?」「なんで今になってラップ?」「ハードコアってどういうこと?」など、きっと疑問を持っているだろうなと。


 ちょっと自分の中での整理の意味も込めて、順を追って書いていきます。

 実は、僕の人生の中で、長く眠らせていた「音楽」の文脈があったのです。



ハードコアバンドに明け暮れ、音楽が好きだった過去


 僕は高校生の頃から大学生にかけて、ギターを弾いていました。本当にギターが好きで、当初はB'zの松本孝弘に憧れてギターを始めたのですが、イングヴェイ・マルムスティーンをYOUNG GUITARという雑誌の付録で聴いてから速弾きにはまってしまい、その後、パンテラやスリップノットに出会い、ヘヴィミュージックの沼に足を踏み入れることになります。


 そして、僕が高校生の当時(2000年〜2002年くらい)は大阪でギャングスタなハードコアバンドが全盛期を迎えていました。


 STRAIGHT SAVAGE STYLE、atmosfear、EDGE OF SPIRIT、Immortalityなど、とにかく大阪にはタフガイで怖くていかついバンドがたくさんいました。ちなみに、今では大阪ハードコアの重鎮となっているSANDも、僕が高校生だった当時はまだ新しいバンドだったと記憶しています。


 名古屋・東海ではヒップホップも含めたギャングスタ文化があり、CARUSARIのようなラッパーも在籍している異色のハードコアバンドや、DYING RACE、DEAD-REFORCE、BEYOND HATEといったマッチョなハードコアバンドまで多彩でした。


 東京にもNUMB、STATE CRAFTなどのニューヨークスタイルハードコアからニュースクールハードコアまでいろいろな種類のバンドがいて、それぞれが共存しているというよりも、どちらかといえば敵対し合いながら存在しているような、特殊な音楽シーンがあったのです。


 僕自身も当時はそのシーンの中にどっぷりとはまり、スキンヘッドにしてハードコアバンドのギターを弾いていた時期がありました。三重県の片田舎で、いかつい先輩たちの影に隠れながら、ゴリゴリとギターを弾いていました。ずいぶんと粋がっていた時代でもあります。幸いなことに喧嘩はほとんどありませんでしたが、飲酒、喫煙、その他(書けません笑)、一通り悪いことを覚えた時期でした。


 学校はいい加減に通いながら、大阪などにも遠征でライブをしに行ったり、サポートギターで参加した地元のバンドではEDGE OF SPIRITやImmortalityなどの有名なバンドと対バンさせていただいたり、とにかく毎日が楽しかったです。



高校生から大学、デスメタルにはまり、そして挫折する


 これ、初めて文面にするのですが、「デスメタルにはまり、そして挫折する」って、まるでデトロイト・メタル・シティの見出しみたいでなんか面白いですね(笑)。


 しかし、現実はそんなに面白いものではありませんでした。


 高校生で華々しいハードコアバンド活動を行い、京都の立命館大学へ進学。かなり音楽に入れ込んでいました。ただ、バンド内での音楽性の違いもその頃に激しいものになってきており、当時活動していた地元の先輩方と組んでいたバンドは解散することになります。


 そこから、立命館大学のサークル「ニューミュージック研究会」に入部して、いろいろとバンド活動をするのですが、そのあたりから自分のやりたい音楽が何なのかさっぱりわからなくなっていまいました。


 当時は完全にテクニカル思考になっており、プログレッシブデスメタル、メロディックデスメタル、ブルータルデスメタル、シンフォニックブラックメタルなど、とにかく速くて激しくて複雑で重たくて難しい音楽に憧れていました。気づけば、ジャンル名もどんどん長くなっていっていますね(笑)。


 この当時、聴いていたのは、DYING FETUS、CRYPTOPSY、emperor、Anaal Nathrakh、NILE、DEVOURMENT、DISGORGE(Mexico)など、およそ人が日常的に長時間聴くような音楽ではないものも含めて好んでいました。今思うと、その頃からちょっとマトモな状態ではなかったのかもしれません。


 そして、超絶テクニカルな技巧を持つドラマーの方とバンドを組むことになるのですが、この時に徹底的に挫折することになります。


 この方は、ドラマーの腕が半端ないだけでなく、ギターも超絶技巧の方で、到底太刀打ちできないテクニックを持っていました。猛烈に難しい曲を作曲して持ち込んでくるため、自分のバンドの曲なのに弾けないという、それまでの自分では考えられない事態が起こり、僕は精神的に完全に参って、実質的にギターを投げ出し、バンドもクビになってしまいます。まさに、デスメタルにはまり、そして挫折したのです。


 僕の人生から、音楽を演奏するという楽しみが消えた瞬間でした。



 大学留年、就職、挫折の中で「ものかき」を始める

 

 その後の詳しい流れは割愛しますが、とにかく挫折の連続でした。


 雀荘と裏ビデオ屋のバイトばかりして、好きだった彼女とも別れ、大学に通わなかったために3年留年し(こうやって書くとほんまにいいことないな笑)、なんとか東京で就職をしたものの、就職先での人間関係がうまくいかずに2年半ほどで仕事をやめ、渋谷の円山町界隈で半年ほどブラブラしていた時期があります。


 その頃に、ふと「ものかき」を始めたのです。

 小さな、本当に小さな世界の物語を書き始めました。


 自分の身の回りのことや、自分が大切に思っている人たちのことを考えながら短編小説を十数本ほど書きました。すると、何者でもない僕のことを、認めてくれる人たちが現れたのです。何人かの人は、熱心に僕の文章を読んでくれ、僕はそこに生きる意味を見出していきました。その頃、長編にも挑戦し、読者になってくれる仲間とともに、初めて本腰を入れて「ものかき」をやりました。


 僕がその頃に出入りしていたのは、渋谷にあるバーを中心としたコミュニティでした。何人かの絵描きや歌うたいや表現者が集まり、互いのものつくりについて熱心に議論していました。そうした時間を通して、僕は少しずつ、「ものかき」としてのアイデンティティーを自分の中に持っていきます。


 しかし、僕の中には葛藤がありました。

 それは、自分が本当に好きなのは音楽なんだ、という葛藤です。

 周りは僕のことを「ものかき」だと思っているけれど、僕は本当は誰よりも音楽が好きなギタリストだったんだという想いが、ずっとありました。


 そんな葛藤があり、その他にもさまざまな葛藤が重なる苦しい時期でもありました。定職にもつかず、ブラブラと渋谷の円山町を歩いている自分には、本当に何もないなと思いました。仲間からの励ましの言葉も、自分の身を切られるようで苦しかったことを覚えています。


 誰も、自分の本当の苦しみをわかってはくれない。

 胸のうちには、吐き出したい想いがどんどん溜まっていく。

 僕は結局、誰にも本当の自分を認めてもらうことはできていないのだ。


 そして、そんな様々な葛藤が爆発するように、コミュニティにいる仲間と仲違いをしてしまいます。僕は今でも、当時のことを後悔しています。この頃のことを思い出すと、未だに胸が痛いです。


 仲違いをした人は、僕の書く「ものかき」をとても大事にしてくれた友人でした。

 相手は、今も僕のことをきっと許してはいないのだろうと思います。

 あるいは、もう覚えていないのかもしれない。わかりません。

 ただひとつだけ言えることは、僕はこの時に一生ものの大切な友人を失くしたということです。


 これからも「ものかき」として生き残っていくために、その事実だけは、目をそらさずに、ここに書き残しておきたい。



 時を経て、2社の転職、そしてフリーランスの仕事へ


 そのようなことが起こった後、僕は再就職し、2社の転職を繰り返します。


 1社目はライターの仕事でしたが、死ぬほど原稿を書かなければならない環境でした。占いサイトの記事を片っ端から更新しまくる仕事で、月に300時間ほど働くような異様な状態を2年半ほど続けました。


 そして、このままでは身体がもたないと思い、不思議なご縁で出会ったいかつい方にお世話になって、僕は会社をやめることになります。

 そこからしばらく、六本木から銀座の界隈で、かばんもち生活を半年ほど経験しました。


 この頃のことは、別途エッセイにまとめなければいけないと思っています。一言で語るにはサイドストーリーが多すぎるため、ここでは割愛します。(なんだか、さらさらと書いていると、本当にわけのわからない人生だなと我ながら思います。何が起こっているのか、さっぱりわからない笑)


 その後、かばんもちを卒業して表参道にある会社に入ります。


 そこからフリーランスライターになるまでの流れは、Storys.jpに書いた記事を読んでいただいたほうがわかりやすいかと思いますので、ここも割愛します。最後の転職先では、2年ほど勤めた後に会社をやめて、フリーランスライターになります。


 この頃に起きた出来事を端的に説明すると、身内の死を目の当たりにするという青天の霹靂があり、身体を壊して自分の人生を省みたときに、会社で組織人として生きるよりも、「ものかき」としての使命感を選ぶことにしたということです。


 そして、この後に僕は「ものかき」をやりつつ、「ハードコアラップ」を始めることを決意します。



言いたいことをいい加減、言わしてもらうぞということ


 僕が「ハードコアラップ」を始めたきっかけは、「言いたいことをいい加減、言わしてもらうぞ」と思ったからです。


 僕の人生はこれまで、負けっぱなしでした。


 とにかく思うようにいかず、自分の中に消化できない想いを抱え、馬鹿にされたり、からかわれたりしながら、なんとかここまで生きてきました。


 それは、当時の自分に経験がなく、スキルがなく、腕力がなく、自信がなかったからです。


 しかし、今は違う。


 今の僕は僕なりに生きていて、それを応援してくださる方々にも恵まれ、僕個人を指名してもらって仕事をいただき、心身を鍛えながらフリーランスライターとして生活をしています。


 僕はもう、誰かにコキ使われるような人間ではないし、仕事をしたいと思える人たちと仕事をし、自分の意志で人生の道を切り開いていこうとする人間です。

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