バッドエンドな恋と人生

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・周りに薦められた介護福祉士の専門学校へ行く
・自分が少し興味のあるゲームクリエイターの専門学校へ行く

の2つに選択肢は絞られていた。
大学への進学は俺の学力では無理だと判断し、鼻っからその考えは放棄していた。
就職も少し考えたが、やはり手に職をしっかりつけたかった。そのためには専門学校へ行くのが一番効率が良いとその時の俺は考え至ったのだ。専門学校を卒業した人の就職率は高い、というのもネットで調査済だった。

と、ここまでは良かった。
問題はこの後だった……。

俺は周りに薦められるがまま、言われるがまま前者の「介護福祉士の専門学校」へと進路を決めた。
この時の俺は自分の意見を周りに言えるような奴ではなかったのだ。まぁ今でもそれはあんまり変わっていないかもしれないが……。

正直この時、介護福祉士という仕事に興味は微塵もなかった。ただ周りに
「ゆうちゃんは優しいから向いてるよ」
などといったことを言われるうちに、調子に乗ってその気になっただけの話である。今考えればもっとよく考え、調べ、その現場で自分が働いている姿を想像した上で結論を出せばよかった。それからでも遅くはなかったんじゃないか、と少し後悔している。

後者のゲームクリエイターに興味があったのは、単に自分が大のテレビゲーム好きだったから、という実に短絡的で、稚拙な理由に他ならない。
でも、向き不向き関係なく、その時点で介護福祉士より興味があったのはたしかだった。
しかし、それを周りに
「どうしてもこれがやりたいんだ!!」
と強く言えるだけのものはなかった。言ったところで反対されるような気がした。ただそれだけのことだ。

福祉専門学校の入学試験も無事合格し、こうして俺は引かれたレールを何も考えず、ただひたすら走っていた。行き着く終点がどこかも知らずに……。
だが、選択肢は今更変えられない。もう後戻りはできないのだ。テレビゲームのように人生はリセットできない。
それが自分が選んだ道なのだから。




遅すぎた青春。四度目の恋は後ろの席の子

高校を無事卒業した年の4月。県内の福祉専門学校へ入学した。福祉専門学校までは電車で約50分、最寄駅から更に徒歩で約20分の距離だった。クラスのみんなは介護を目指しているだけあり、優しい人が多かった。まぁ中には例外もいたが。

最初に1人ずつ前へ出て、2分間の自己紹介をしていくこととなった。みんなはそれぞれ介護福祉士への想いを語った。なぜ入学したのか、その経緯等。みんなが輝いて見えた。同時に、周りに言われるがまま、なんの信念もなく入学した自分が酷く矮小で愚かな存在に思えた。

元々勉強すること自体は嫌いではなかった俺は授業にはついていけた。それどころか学科では割りと成績は良かった方だった。レポートでも先生に褒められた。
唯一苦手だった授業が"レクリエーション"の時間だった。
みんなと一緒にグループを組んだりして、ちょっとしたゲームのようなものをするのだが、吃音がコンプレックスでコミュニケーションが極度に苦手だった俺にとって、このレクリエーションの時間は苦痛以外の何物でもなかった。
それでもなんとか頑張ってこなしていた。



数えれる程度だが、専門学校でも友達ができた。
お昼休みになれば一緒に昼飯を食べに行き、放課後には一緒にボーリングへ行ったり、マックへ行ったりもした。もちろん、一緒に勉強したり、実技の練習なんかもしていた。
カラオケにも何度か誘われたが、その時の俺は自分の歌声にもコンプレックスがあり、誘われても絶対に行くことはなかった。その姿勢はその後もしばらくは変わらず、初めてカラオケに行ったのは22歳の頃だったと記憶している。

ともあれ、この時俺は初めて友とのまともな青春という奴を味わうことができた。
ここまでは俺の専門学校生活は順風満帆にいっているかに思えた。



時を同じくしてこの頃、俺は四度目の恋をしていた。
相手は同じクラスで後ろの席のDさん。明るくて、サバサバしている、ちょっと今時のギャルっぽい感じの可愛い子だった。
帰りの電車でたまに一緒になることがあり、何度か話しかけられたことがある。今から思えば、からかわれていただけかもしれない。
それでも、俺はその子と話してる時が本当に楽しくて、かけがえのないものに感じていた。

――このまま時間が止まればいいのに

とさえ思った。

ある日の帰りの電車内でまたDさんを見かけた。Dさんと目が合った俺は思わず視線を逸らした。
車窓から夕陽が射し込み、車内を微かにオレンジ色に染めていた。

俺に気づいたDさんは俺の隣の席に座り、話しかけてきた。
他愛もない話がしばらく続いた後、Dさんがこんなことを訊いてきた。
「木下くんはクラスに好きな子とかおるん?」
心臓が跳ね上がる音がした。まさかの質問に俺の視線は魚のように泳ぎ、心臓の鼓動は一気に早くなった。
この時、俺は
「お前のことが好きだ!!」
と言うべきだったのだろう。しかし、ヘタレな俺はそのたった一言が言えずにいた。喉元まで出かかっては、また呑み込むの繰り返し。自分で自分がじれったく感じた。

そんな俺の様子を見てDさんは"恥ずかしくて言えないのか"と思ったらしく、順番にクラスの女子の名前を言っていった。しかし、俺はどの名前が出ても決して首を縦には振らなかった。そりゃそうだ。本人は今まさに目の前にいる君なのだから。
「えぇー!?誰よぉー!!教えてぇー!?気になるじゃん!」
俺はただ黙っていることしかできなかった。本当にヘタレだったと自覚している。

ここにきてようやく俺の様子がおかしいことに気づいたDさんは決定的な一言を放った。
「もしかして……私?」
俺は黙って頷いた。俺とDさんとの間に重く、長い沈黙が流れた。電車が線路の上を走る、心地良い音だけがやけに大きく聞こえた。
「ごめんね……。気持ちは本当に嬉しいけど、木下くんは友達としか思えないの。ごめん……」
砕け散った。粉々に。跡形もなく。木端微塵に。
目的の駅に着いたDさんは電車を降り、ドアが閉まるとこっちを見ながら手を振ってくれた。
夕陽の逆光のせいか、はたまた涙のせいか、Dさんの表情までは捉えることができなかった。
その後、なんとなく気まずくなった俺はDさんと話すことはなかった。



ある日、俺たちは初めての現場実習へ行くこととなった。場所は県内の施設。そこで俺は現場の厳しさ、介護の難しさを痛感させられた。そして、改めて自分の考えが甘かったことを気づかされた。
たとえどんなに頭で理解していたとしても、それを実行できなければ意味がない。学科で成績が良い=現場でも使える人材。とは限らないのだ。
この実習後、早くも数人のクラスメイトが学校を去った。その中には学科において優秀な成績をおさめていた生徒もいた。
俺はまだ少し耐えていたが、介護福祉士としてやっていく自信は大幅に削がれていた。

夏休みに入る少し前。期末試験があった。合格点はたしか80点以上だったと記憶している。
俺は家で1時間。学校へ行くまでの電車の中で50分程勉強した。
先生によっては漢字の書き方1つ間違えただけでダメっていう先生もおり、問題自体も専門的なものばかりで難問ばかりだった。
だが、勉強の甲斐あってか、俺はなんとか全科目で合格点は取れ、追試は免れた。



しかし、夏休みが明けたその年の9月。俺は福祉専門学校を中退した。色んな人の話を聞き、そして、自分なりに考え抜いた末の結論だった。
親にも先生方にも全力で止められた。説得もされたが俺の考えは変わらなかった。もう決めたことだ。
決定打としては、やはり現場での経験が一番大きかった。

以下はあくまで個人的な見解だ。

介護福祉士という仕事は、ただ性格が優しいだけではダメなんだ、ということを感じた。もちろん、優しさや思いやりも介護福祉士をする上で重要な要素だとは思う。だが、それだけでは足りない。
クラスの中には中学・高校時代にヤンチャしてただろうなっていう感じの、いわゆる"不良"っぽい雰囲気の人もいたが、案外ああいう人の方が向いてたりする、と思う。見た目はちょっとアレだが、話してみると気さくで頼りがいのある、いい奴が多かった。
逆に真面目すぎる人は途中で潰れやすい傾向がある。今回の俺がまさにこれに該当する。
後は、"コミュニケーション能力"。これも大事だと思う。利用者さんと仲良くなる上で会話は必須条件。仲良くならなければ当然心も開いてくれない。この時の俺にはこれも少し欠けていたんだろう。

とにもかくにも、俺は福祉専門学校を去った。まだまだ残暑が厳しい夏の終わりのことだった。

その後、専門学校時代の友達は、無事介護福祉士になったということを風の噂で耳にした。
今でも友達は介護福祉士として日々活躍し、忙しい毎日を送っている。

その友達とはその後どうなったかというと、2年程前にFacebookを通じて偶然再会し、今では1ヶ月に1回は呑みに行く仲となっている。間違いなく俺にとってかけがえのない友達といえる。
そんな人生の友と知り合えた、というだけでも専門学校へ入学した価値はあったと、今にして思う。



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