バンドというものに動かされてきた人生(1)

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ずっと居場所がないことに悩んでいた

中学、高校と私立の女子校に通っていた私は、世の中のことを何も知らないまま高校を卒業した。
友達はいるけれど、どこにも必要とされていない感じをずっと持っていた。枠からはみ出さない真面目な友達につまらなさを感じつつ、それ以外何もわからないので家と学校の往復をただ真面目にして皆勤賞。高3の夏休みも、授業のない三学期も、どこも行くところもなく遊んでくれる人もいなかったので家にただずっと籠っていた。
周りは、受験に向かってひたすら勉強をしていた。
私は、本を読んだり、ビデオを見たりして、この世界から誰か連れ出してくれないかなとずっと思っていた。

進学校だったので周りは全員大学進学を希望している中、その必要もわからず、親も放任だったため受験もせず就職もせずただ高校生活が終わってしまった。
卒業して、どうしようか、と考えたが大学に行かなかった人たちはみんな予備校に入っていた。大学に行きたいわけでもなかったが、働くということもよくわからなかったのでとりあえず予備校に入るという選択肢しか見えず、予備校に入学した。
やりたいことはわからないが、ただ人に必要とされる自分になりたかった。
表現がしたいとは、どこかでずっと思っていた。
でもそんなことは誰にも相談できなかった。
予備校はとてもつまらなくて、理系クラスに入った私は突然の男子ばかりの教室に驚き、本当に誰とも話さなかった。数人いた女子と少し話す程度で、勉強もつまらなくて夏が来たらもう行くことをやめてしまったのだった。

そんな18歳の夏。今までのお年玉で貯めた貯金でオーストラリアに行くことにした。2週間の個人留学。35万円くらいだった。
何もない生活が、変わることを期待していた。
知らない世界に行けば、このつまらない日常も変わると思っていた。
結果、臆病な私はホームステイ先の人とも打ち解けられず、帰って来たのだが。
ただ覚えているのは、日本に帰ったら私にしか出来ないことをしよう。誰も代わりのいないことがしたい。って思ったことだ。

大学に行くことを決めた私は9月から、自宅勉強を開始した。
家で文系の勉強を独学で始めたのだ。
決めるとストイックな私は、一日のほとんどを苦もなくずっと勉強に費やしていた。
最初から、先の就職のことは考えていなかった。受験するなら、変わったことを学べる方がいいような気がした。色々な人に出会いたかった。新しい学部を調べたりしてとことん今までの世界を変えてくれるような学校に入りたかった。世界を変えたかった。

結果的にまだできて1年の学部を持つ大学に入った。親とは何も話をしていなかった。
大学に過度の期待を持ちすぎていた私は、5月病にすぐなった。
思っていたような世界ではなかったこと。学部が独立していたので人も少なくて、出会える人もそんなにいなくて、行きたくないとその当時飼っていた犬に向かってよく泣いていた。私の生きたい世界はこんなものじゃない、どこに行ったらあるのだろうと悩んでいた。

音楽はそれまでは、そこまで興味もなく、ジャニーズくらいしか知らなかった。
その時、GLAYの誘惑とSOUL LOVEがちょうど二枚同時に出た時で、ものすごく話題になっていたので興味のない私も流れるPVを見る機会があり、JIROがかわいいという気持ちがきっかけで興味を持つようになった。GLAYが、「バンド」だということを初めて認識して、JIROが弾いているのがベースだということを学んだ。
ベースが弾いてみたくなった私は、高校で軽音学部だったという唯一のクラスの友達と軽音学部を見学に行った。でも、ほとんど人もいないみたいで、入部するという話にもならなかった。バンドと言うものが組めそうにもなかったからだ。
その後楽器のことはしばらく忘れてただのGLAYのファンとして過ごした。

大学は、2年生の前期で行くことを辞めてしまった。それまで疑問を持ちながら毎日通っていたが、急に人生に必要ないと感じたら足が向かなくなった。それでも、辞めるか迷っていた私は、ノートを借りたりして、テストを受けていたらなんとなく単位も評価をもらえてしまって、大学って意味がないんだなと実感してしまった。

大学を辞めたら専門学校に入る、と言って専門学校に通った。
マルチタレントを育てるみたいなところだったと思う。
どうしてこのとき音楽科に行かなかったのか、今考えると歌がとても苦手で、人前で歌うと言うことは出来なかった。カラオケに行っても、歌うことが本当に恥ずかしくて歌う人ではなかった。
楽器のこともわからなかった。
その時は、映画が好きだったので、映画を作る人の中に入りたいと思っていた。スタッフではなく、やるなら映画監督になりたいと思った、その勉強をするためにも、女優になればいいのかなと思っていた。
その当時自主製作映画を作っている人たちに、何かしたいとメールを送るとたいていこの役をやってください、と言われることが多かったからだ。それで作品ができるのはすごく楽しかった。
自主制作映画を作っている人たちは、刺激的だった。

しかし専門学校も、続かなかった。大学の時よりは個性的な人もいて、面白かったが学校に行くことに将来を見いだせなくなっていた。
ずっと抱えていた鬱が表面化してご飯も食べれなくなり担任の先生に気づかれ、とうとう病院に通うことになる。
そこは心療内科という場所だった。



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