シール

 大学一年生の時だ。
 中央線に乗って通学する途中で、外が見えない、と子供の声が聞こえた。見ると、電車のドアにある縦長の窓、その下に三歳くらいの男の子が立っていた。
 見た目は至って普通の身長だから、窓から景色は充分に見えるはずである。何か見たいものでもあったのか、と首を傾げていると、またその少年は大声を出した。
「シールじゃま! うえがみえない! だれ、はったの! じゃまじゃまじゃま!」
 母親が、電車の中では静かにしなさい、と咎める。だが少年は余程不機嫌なのだろう、母親を睨み付けるように見上げ、
「ママ、これはがして! じゃま!」
 と騒ぎ続けた。
 ドアのガラス窓には、角の丸い、正方形のシール――広告ステッカーが貼られている。ダイエットスムージーの広告だった。少年が空を見上げると目に入ってくる位置にあるのだ。
 結局少年は、誰も剥がしてくれないと分かるとふて腐れて座り込んだ。しかも降り際に、
「シールいらない!」
 と捨て台詞を吐いた。

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 奇しくもその一年後に、私も「シールいらない!」と叫びたくなった。
 そのステッカーの貼付位置が、丁度それ一枚分上に変更されたのだ。日本の平均的身長を持つ成人の視界にきっちり入り込んだのである。おのれ。
 ステッカータイプの広告は、『省スペースでありながら、同じものが同じ場所に一ヶ月貼り出されるために繰り返し目に焼き付けさせることができる。乗客の目の高さにあるから、見られる回数も多い』(※)とのこと。
 今までの位置を私の身長165cm強で言うと、肩より下にあったために見過ごされることが多かった。新宿駅における毎朝のカオス状態においては、もはや誰も見ない、というか見えなかった。だから変更されたのだろう。

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 だが得てして広告というのは、その内容に興味が無い人からすれば不要品である。
 人混み、否、人ゴミと言いたくなる程の混雑ぶりに、朝から疲弊する社会人。幸運にもドアの真ん前を陣取ることが出来た。さあ存分寄りかかって、外でも見てリフレッシュしよう――何だ、これは。外が見えないじゃないか!
 視界のど真ん中を四角く妨害する広告ステッカーに書かれているのは、興味の無い『転職』『ダイエット』などの言葉。苛立ちが加速度的に募る。辛うじて左右の隙間から外を見ようにも、広告が片目に割り込み続ける。いらん、こんなもの。引っぺがしてくれる!
 ……という精神だったのだろう。ある時、私が乗り込んだ武蔵野線始発車両のドアにあるはずの広告ステッカーが、綺麗に剥がされていたのである。だが工業用の強靱な糊までは取り去ることが出来なかったようで、四角く薄白いベタベタが残されていた。窓を、その部分だけ磨りガラスにされたような、別の不快感が募る。
 駅員に通報すると、彼女は困り果てたように可愛らしく微笑んだ。
「よくあるんですよ、こういうの」
 まだ発車まで時間があるからか、駅員室からシール剥がしスプレーを持ってきてくれた。じっとりと濡れるまで吹きかけ、雑巾で擦る。一部が取れても、まだまだ残滓はある。またスプレーを吹きかける。それを他の駅員が見つけると、今度はノミを持ってきた。先端を古布で包み、削るようにして糊を洗い落とす。それでも完璧に落とすまで五分以上掛かった。この人達が剥がしたわけではないのに、何故この人達が苦労しているんだろう。
 当たり前だが広告は企業の物であるし、それだけでなく掲載場所を提供している鉄道会社やステッカーの印刷会社も関与する。それを剥がす行為は器物損壊罪である。だがそれ以前に、
「どうやって剥がしてるんですかね」
「ジャイアント馬場でもいるんじゃないか」
「あはは、ホントですよね~」
 剥がしながら駅員が交わしていた冗談から分かるだろう。外気に一ヶ月晒しても平然としている糊なのだ。それを指だけで剥がすのは至難の業だし、工具を使えば周りにいち早く知れ渡る。
「どうして捕まらないんでしょう」
 駅員のぼやきが、端的に謎を表していた。

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 広告ステッカーが受ける被害は、剥がされてしまうことに留まらない。上から別のシールを貼られることで内容を隠されたり、反復訴求力があることから別の主張に利用されたりするのである。

 別のシールを貼られてしまった事例を、私は目撃した。

 救心の市販薬・『救心錠剤』である。 高橋光臣氏を起用し、爽やかに動くサラリーマンをイメージさせるものだ。「ただ、見た目は元気そうでも、体の中は不調かもよ?」とそっと忠告してくる。
 高橋光臣氏は御年三十五歳。男女とも、二十代の、若さで突っ走っているアホとは違い、三十代になるとそれなりに落ち着きが出てきて艶も出てくる。やっとここで大人の仲間入りだ。
 逆に言うと、子供からすれば、三十歳以上はただの「おっさん」なのである。

 水道橋駅で総武線に乗り、三鷹へ行く時だった。空いている時間で座れた。席の近くに、体は小学校中学年くらいだが明らかに落ち着きの無く、特徴的な顔貌の女子がいた。両親が教員であることを通じ、よく『そういう子供』にも会ってきたから、私は一目見てすぐに気づいた。ダウン症である。
 親か補助の人間が近くにいるはずだ、と目だけ動かして窺うと、その少女が逐一近寄っていく女性がいた。疲れているのか角の席に座り、柱にもたれかかって眠っている。
 少女は女性のバッグを漁り、やがてラメが傍目にもよく分かる程にギラギラした、シールシートを取り出した。笑顔でまた私の席近くのドアに向かうと、そこでゴソゴソ手を動かし始めた。
 何か嫌な予感がする。こっそり覗き込むと、少女はギラギラシールを勝手に『救心錠剤』の広告ステッカーへ貼り付けている!
 私はそっと女性の元へ行き、もしもし、お疲れのところすみません、と起こした。困惑する女性にどう説明したものかとふと思ったが、すぐに女性は少女の行いに目を留めて駆け寄った。
「ユミ、いけないよ、何してるの」
 少女はしかし可愛らしい表情のまま、
「おじさん、きれいにしてあげた」
 と答えた。
 なるほど、確かに高橋光臣氏の顔の周りを、ハートや星の様々なシールが縁取っている。彼女は続けて、おじさんは疲れているものだから、キラキラにしてあげれば元気が出るという独特の理論を展開した。
 女性は――恐らく母親であろう彼女は、元気にしてあげたかったのかと一定の理解を示した上で、
「でもこのおじさんはとても元気で、シールを貼らないで欲しいみたいだよ」
 と諭した。
「他の人に使ってあげてって言ってるよ」
「そっか」
 少女は納得し、母親と共にシールを剥がし始めた。だが全て剥がし終わる前に、どうやら降りる駅に着いてしまったようだった。母親は私に、起こしてくれてありがとう、申し訳ないと会釈して降車した。それからドア閉めの予告ブザーを鳴らそうとしていた車掌に、
「すみません。娘がそこの広告にシールを貼ってしまいまして、全部剥がし切れなかったんです。申し訳ありませんけど、後で剥がしておいて下さい。ごめんなさい」
 と告げていた。
 高橋氏を見てみると、顔の向かって左上、丁度目線と重なる位置に、銀の音符が残っていた。何だかウキウキを表す漫符のようで、これはこれで残しておいても面白そうだなと私は一人笑っていた。
 終点の三鷹駅に着くと、早速車掌が乗り込み、端から広告を眺めた。折り返しで千葉行きとなる電車だ、停車時間に余裕がある。そのうち高橋氏の音符に気づくと、車掌はそっと爪でシールを剥がし、糊が残っていないかを確認した。シールをそのまま丸めてしまおうとして――自分の名札に貼り付ける。そして何事も無かったかのように降りていく。
 交代の車掌が近づいてきて、彼と挨拶を交わす。早速気づいたようだ。
「お、どうしたんですか、それ」
「ちょっとね。もらった」
「はは、良いっスね」
 何とも気の良い職場である。
 中央線に乗り換えなければならない。私もゆるりと人の波に入っていった。

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 気の抜けた事例はもう一つある。

 メタボリック(本当にそういう名前の株式会社)の『en Natural』スムージーシリーズである。 この広告に対しては、あまり腹が立たない。ダイエットそのものはどうでもいいが、スムージーが美味しそうなのだ。何せ果物どっさり、野菜たっぷりである。まずくなるはずがない。
 そのスムージーを実際に購入して試したのだろう。このステッカーの真下に、メモ帳を千切って走り書きしたような紙がセロテープで貼り付けられていた。
『↑イマんとこヤセるかわかんないけど チョーおいしいよ(^□^)』
 突っ込みどころがあり過ぎる。色ペンで書かれた丸文字で、顔文字つき。ご丁寧に波線まで引いて強調している。ギャルが書いたのか? だがこのご時世で自分の感想を述べるならSNSで拡散した方が余程早いし手軽だ。わざわざ紙に書いて、わざわざセロテープを切って貼り付けているのだ。株式会社メタボリックが一般人を装って、自作自演のステルスマーケティングをしていると取られても仕方ないやり方である。
 そしてこの貼り付け方が少々よろしくない。上だけをテープで押さえ、後はペラペラとめくれるのだ。ドアが開閉する度に少しずつ擦れてもみくちゃになっていく。見ている内に哀れみすら抱き始める。
 その目の前に、酒の臭い漂う年配の男性が立った。メモに目が留まる。眉間に皺が寄る。剥がすかな、と私は様子を窺った。
 男性は黙ってバッグを探ると、修正テープらしきものを取り出した。メモをめくり、ペラペラする三辺にテープを走らせ、ガラスにぐいと押しつける。しっかりと窓に密着するメモ。
 心の中でずっこけた。あれは両面テープで、まさかのメモを助ける向きに解決したのだ。広告スペース外とはいえ、勝手に貼り付けている以上はよろしくないことだ。でも助ける。酔っているから奇天烈な解決をしたのか、それともメモに同調したのかは分からない。
 結局メモは、私の見ている内は剥がされること無く広告の下に居座り続けていた。

 なお、このメモに触発され、私は帰りに西国分寺のマツモトキヨシに立ち寄って購入した。アサイーベリースムージーである。
 帰宅後に早速飲んでみると、なるほどデザートとして楽しめるほどにしっかりと甘味を感じ、満足感が強い。ドロリとしていて飲み応えがあり腹に溜まる。これを食事に置き換えるというと私にはやや物足りないが、後は温野菜でも囓れば充分にダイエット向きと言える。
 『チョーおいしいよ(^□^)』の記述は伊達じゃない。故に怪しい。やはりあれは社員によるステマだったのだろうか。そんなことを思いつつ、美味しく頂いた。

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 全く、本当に嫌な位置に貼ってあるものだ。お陰で目に入り込んで、良くも悪くも印象に残る。
 因みに今まで広告ステッカーと書いてきたが、料金表には更に細かく書かれていて、そこでは『ドアガラスステッカー』と呼ばれている。一万二百枚のセットを一ヶ月掲出すると、盆と正月を抜いたA期という時期においては九百万円である。 一枚当たり八百八十円強だ。たった一枚のシールなのに。企業にとっては安いが、チラシで特売を探す我々庶民にとっては高い。しかもシールに書ける情報量は決して多くない。
 これを害する行いを、器物損壊罪などという軽犯罪に収めて良いのだろうか。ふとそんなことを考えるが、恐らく一ヶ月もしたらまた「邪魔くさいな、これ」と思い始めるのである。


(おしまい)

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【脚注】
※:オリコム『車両広告メディア』ステッカー 

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