居らぬ者

 T霊園には、数多の有名人と、よく知らない庶民が埋葬されている。有名人は、昨今流行の下らない『歴女』なる集団や正規の研究者が、入れ替わり立ち替わりお香を上げに来てくれるし、もしかすると年に一回くらいは、末裔の方もお参りに来るのだろう。だが庶民は、家族以外から見向きもされないし、その家族が極端に遠縁になってしまえば、それすら期待できない。結果、T霊園は過密区と過疎区の二極化が進んだ。
 何故そこに行ったのか、用事を思い出せない。『用事があった』ことは覚えている。作文の宿題か、自主勉強の補填か――。
 春先のT霊園は実に騒がしかった。
 イケメンという言葉ばかりが耳に障った。どうやら西園寺公望の墓であるらしい。
 お前達はどうせ、スマートフォンや携帯機のゲームの絵を想像しているんだろうが、社会の資料集に載っている実際の顔写真を拝んだことはあるのか? 下らない。実際の活動、実際の顔、実際の性分、そういったものを全て理解した上で歴史好きを名乗れ。二次元のイメージ、馬鹿でも分かるように作られたキャラクター如きでビービー騒ぐな。というか墓場だぞ、静かにしろ。
 私は横を過ぎゆく時、彼女らに冷ややかな視線を存分に突き刺した。彼女らはすぐに気づいて見やってきたが、嫌みたらしく笑いかけてから足音も立てない優雅な歩みで立ち去ってやった。
 用があるのは、北原白秋の墓である。とはいえ、立地や、刻まれた碑文を写真に収めるだけであった。親から借りたデジカメで、正面から、横から、撮影する。
 その内に、父の癖が遺伝したか、如何にもプロのカメラマンであるかのように私はカメラを構え始めた。雑草の花を大きく捉え、墓と対比する。枝振りの良い木を仰ぐように、石碑を凜々しく撮る。墓が臨む景色を、ホワイトバランスをそれらしくいじって何枚も収める。
 一枚に、遠くの墓が入り込んだ。
 普通なら背景の一種として見過ごすところだろうが、私はそこで、目を引くものを見つけた。
 老婆だ。非常に小柄で、髪は白髪交じりの灰色。丁度線香を上げようという動作の途中が写った。墓に対して然るべき態度を取っている彼女が、静かな美しさを放っているように思えたのだ。
 カメラを仕舞って老婆に近づく。
 挨拶をすると、老婆は驚き少し体を震わせた。墓に手を合わせていることに集中していたという。
「こっちで何をしているか、報告してたのよ」
 老婆が笑うと、顔に刻まれた皺が綺麗に寄った。全て笑い皺であるらしい。素敵だ。
「笑うと一番可愛いって、言ってくれた人がいたからね」
 だから毎日笑って暮らすことにしたの、と老婆の柔らかい言葉が紡がれる。
「貴方、おいくつ」
「今年で十四です」
「十四……」
 老婆の表情が、少し曇った。
「うちの孫と同い年だわ」
 聞けば老婆の孫は、小学生の頃から延々と引き籠もっているという。その子が通っていた小中学校を聞くと、我が市では有名な、ドのつく駄目校である。何せ周りは団地オンリー、通ってくる子のレベルなどたかが知れていて、平気でものを盗るわ、人を殴るわ、精神が人間未満の輩だらけなのだ(一応補足しておくが、団地住まいの全員が屑というわけではないことくらいは分かっている。だが当時、団地の悪いところが集約されたような状況にあったのだ、両校は)。
 その孫は、学校で唯一と言っていい、一軒家住まい。雰囲気がどうしても浮いてしまう。結果、妬まれて激しい苛めに遭ったそうだ。
「保健室登校でもいいって、行かせようとしたんだけど暴れてねえ……道が嫌なんですって。どういうことかしら」
 うわあ、待ち伏せされてるのか。私は知らぬその子を哀れんだ。そりゃ行きたくないわ、家以外に安全地帯が無いってことだもの。
 私の同情を知る由もなく、老婆は私に学校を訪ねてきた。
「第○小学校卒で、今は△△中学校に」
「まあ」
 嬉しそうな顔をしている。
「第○小学校、あそこなのね。あの学校の子はみんな礼儀正しくって、良い子よねえ。さぞ頭もいいに違いないわ」
 おやおや、流れが変わってきたぞ。
「それに△△。昔はとんでもなかったけど、今は合唱と礼節に力を入れてるんでしょう? 貴方、○卒で△△なんて、とてもきちんと育てられてるのね、凄いわ」
 何か頼まれそうな雰囲気だな。
「ねえ、すぐ近くなの。うちに寄っていって。孫も喜ぶわ、良い子と友達になれれば」
 ほうら、来た。
 知らない人の家に、いきなり遊びに行く奴がいるか。それに下衆が集うような場所になど、近づきたくもない。躾も学も無い不良共の巣窟に、何で用も無く行かなければならないんだ。
 しかし、私は悩んでいた。既に創作に手を染めていた私が、潔癖な一般常識で動こうとする私を諫めていたのだ。
 こんな面白そうな、赤の他人に呼ばれるなんてこと、そうそう無いぞ。常識で動くだけの人間は、それだから想像力もウィットも欠如しているんだ。お前はどうだ? どうせなら首突っ込んでみようぜ。それにほら、まだ日は高い、三時半過ぎだ。クズ共の暴れる時間じゃないだろう? さっと行って、ちょろっと話して、とっとと帰ってくりゃいいんだ。良いネタになるぜ……。
 話し合った結果、行くという結論が出た。
 老婆は喜び、すっくと立ち上がると、
「こっちよ、こっち」
 年齢からは考えられない程の速度で歩いて行く。私は小走りで付き従っていった。

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 さて老婆の家は、まず見た目として伝統的な和住宅であった。奥から母親らしき人が出てきた。二世帯住宅なのだろう。
「母さん、お帰り……その子は?」
 当たり前だが眉をひそめられた。だが老婆は気にしない。
「ソウタのお友達よ」
 待て。誰がお友達だ。というか今、名前を知ったぞ。ソウタというのか。きっと男子だろう。
 母親も惑わされない。苛められて引き籠もっているはずの自分の息子に友達などいるはずもないからだろう。老婆を手で制し、私に目を向けてきた。
「失礼だけど、貴方は誰?」
「香奈恵と申します。勉強の資料集めのためにT霊園に行ったところ、お婆さんとお会いしまして」
「何処にお住まい?」
「××駅近くです」
 聞いて母親は老婆を小突いた。
「何がソウタの友達よ、全然学区が違うじゃないの」
「ええ、だから良い子なのよ、この子」
「また……ごめんなさいね、香奈恵さん。うちのお婆ちゃん、すぐ思い込むのよ」
「思い込みじゃないわ、こういう子が友達なら、ソウタも喜ぶでしょ」
「ソウタが頼んだの? 香奈恵さんにとっちゃ良い迷惑よ、本当に……」
「だって、ソウタ、全然部屋から出てこないもの。だから私が連れてきてあげたの」
 平行線だ。母親は大きく溜息をつくが、私が棒立ちのままであることに気づくと慌てて、上がるように言ってきた。
「お邪魔してよろしいんですか? 急に来た知らない子ですよ」
 一般常識の私がつい口を出す。しかし母親は、
「お婆ちゃんに付き合ってくれたんだもの、少しは何か出さなきゃ」
 とのことである。創作好きの私は心中、ガッツポーズをした。
 通されたのは畳張りの、如何にも客間という部屋である。私は、とんでもないところに来てしまったかも知れないと今更緊張した。
 こんな、客間とか廊下とかが明確に分かれた大きな家に暮らしたことがない。我が家のリビングとキッチンは境が無いし(ダイニングと言うのだろうか? 家のことはよく分からない)、客が来ればリビングに座らせる。二階にある兄妹の部屋も、厳密には部屋ではなく、大きい場所に本棚を壁代わりに設営して分けたという体のもので、扉も存在しない。
 それなのに今、私という客が、客間にいる。所在なく、私は辺りを見回した。
 黒光りするテーブル……ではないな、机と言うべきだろう。それを囲む厚手の座布団。畳からはほのかに草の香が漂う。壁には、職人に頼んだのか、塗りつけの模様が並ぶ。欄間がある、和棚がある。
 ふと、違和感を覚えた。
 音が、全くしないのだ。いや、遠くで母親や老婆が何かしている音はする。だがそのことではない。それ以外の、家の中の音がしないのだ。
『ソウタとやら、引き籠もりのはずだよな?』
 耳を澄ませる。
『ゲームしたり、漫画とか本読んだり、しないのか? 一日中寝てるにしたって、寝返りの時に軋むだろうよ』
 それらしい音は無い。随分大人しい奴だ。だから苛められたのだろうが……。
 と、パタパタと足音が近づいてきた。
 母親である。お盆にお茶と木の小鉢が乗っている。
「お待たせしてごめんなさい」
 机に置いていく。お茶は、何だろう、とても透き通った緑の香りがする。絶対高いな、と値段のことをすぐ考えてしまうあたり、庶民だなあと思う。小鉢には和洋それぞれの干菓子が入っていた。和菓子オンリーだったらどうしようかと思ったが(私は和菓子が好みではない)、気配りの出来る母親と見た。
 一礼して、お茶を頂く。味で分かる、やはり高い。普通の緑茶を飲んで、甘みを感じることがあるだろうか? 米をしつこく噛んでいたり、野菜の中でも良い玉葱を食したりすると分かる、あれと同様の自然な甘み。アスパルテーム(人工甘味料の一種)を付与しただけでは表現できない滋味に富んだ甘さ。
 ……こんな高価な茶を、どこのガキとも知れぬ突如現れた女子に惜しげもなく出すとは、一体この家はどういう一族なのだろうか。それは団地住まいの馬鹿共の内においては、浮くに決まっている。
「とても美味しいです。さらりとした甘さがあって」
 私はなるべく失礼にならないようにと言葉を選ぶ。菓子もどうぞと勧められたので、それではと一つ、ミニサンドを頂いた。
 あ、六花亭(北海道のブランド菓子)だ。
「お母さん……ああ、いや、お婆ちゃんに、何か言われたの?」
 母親は盆を横に置き、顔を覗き込むように話しかけてきた。その表情が、僅かに影がかっている。印象を正直に書かせて頂く。怖い。
「お孫さんが、ええっと、ソウタさんですか、あまり学校に行きたがらないと。それで、私は第○小学校を卒業して△△中学校に通っているんですが、それなら友達になって欲しいと、お婆さんに頼まれたんです。私は、拙いですが創作をしておりまして、それには様々な人と関わるべきだと思いました。それで、支えにはなれなくとも、学校に行きたくないという心情やそこに至った経緯を知ることが、私の経験やソウタさんの強みになるのではないかと考えたのです」
 最後の方は、その場しのぎの嘘である。しかし母親は、さも感心したように目を見開いた。
「同い年ってことは十四ね。その歳で、まあ、しっかり考えているのね。素晴らしいことよ」
 ソウタも見習って欲しいわ、と言うかと思ったが、
「でも、そうね……」
 と歯切れの悪い言葉が続いた。
 遠くでお婆さんが呼んでいる。
「美代、早くソウタに会わせてあげて頂戴な」
「まあ、そのー、返事は無いだろうけど、部屋の前まで行ってあげてね、うん」
 ならば取り敢えず向かおう。はてさて、団地共に苛められた名家の息子は、どんな奴なんだろうか。

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 結論から言う。会えなかった。扉を叩いても、声をかけても、返事も無ければ動く様子も無かったのだ。
「ソウタ、お友達よ」
 階下から弾んだ声を飛ばしてくる老婆。対して二階は、静かである。いや、静かと言うより、妙に重苦しい。
 それこそ母親が返事を促すだろうか、とこっそり見てみるが、彼女は別に何をするでもなく立っているだけである。
 そういう、子供に従属する態度が引き籠もりを生むんだろうが、と少々苛ついた。不登校は結構だ、嫌な奴がいる場所になど行きたくないだろう。だがそれならば、家の中はうろついていてもいいだろうよ。部屋に鍵をかけて家族に食事を持ってこさせたり、外部の情報を得させたりする、まさに『立っている者は親でも使え』な態度は、完全に子供サイドの問題だ。叱れずにいるのは親の責任。それくらいやれよ。
 そう思っていると、母親が突如目線を合わせてきた。うお、と声が出そうになる。
「ね、返事しないでしょ?」
「そう、ですねえ」
 どうにか答える。
「全く、そりゃ戸惑うに決まってるわ、ソウタも」
 母親がこれを、やや大声で言った。苛立ちが声量に出たのだろうか。
 そうしてから母親は私をちらりと見やって、引き留めて悪かった、わざわざ付き合ってくれてありがとう、と言葉の一つ一つに力を込めるように言ってきた。
 玄関先まで出てきてくれた母親に、お茶と菓子の礼を述べ、私はその家を後にした。

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 おかしい。
 引き留めて悪かった、は分かる。だが『わざわざ付き合ってくれてありがとう』とは?
 お婆さんに付き合って家に来てくれてありがとう、ならまだ軽いが、部屋の前であの言葉、『部屋まで行って声をかけたり戸を叩いたりする、そこまでお婆さんの言葉に付き合ってくれてありがとう』とも取れる。それに、母親は言っていた。
 ――うちのお婆ちゃん、すぐ思い込むのよ。
 嫌な予感がする。私はその足で、T霊園に向かった。
 日は、既に赤くなり始めていた。

 墓にはこう刻まれていた。
『福富奏太』
 烏の鳴き声が聞こえる。赤い空を、黒く細い影が飛ぶ。
 振り返らずに、私は駆けだした。

 T霊園で撮った資料は、その日のうちに全て処分した。使いたくない、というより、思い出したくもないのだ。決して霊的な何かに触れたわけではない、ないのだが。
「もう行かない」
 私はロフトのベッドで暫く毛布にくるまっていた。
「何が友達になってくれだ、死人とどう関係しろと?」
「香奈恵、ブツブツ言ってんな」
 兄が部屋から文句を放つが、気にしていられない。
「やべ、塩浴びるの忘れた」
「うるせえよ」
「黙らっしゃい、Youtubeでも見てろ」
「お前がうるさくて心霊スペシャルが見られないんだよ」
「こちとらモノホンの周縁に触ってきたんじゃ、ほっとけ」
「何をぅ……ええ? モノホンて何?」
 その疑問には今答えられないし、答えたくない。

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 翌朝、登校したのであるが、学校名の表札を見て眉をひそめてしまった。
『△△中学校』
 ――昔はとんでもなかったけど、今は合唱と礼節に力を入れてるんでしょう?
「あの婆さんめ」
「どうしたの?」
 正門でいつまでも立ち止まったままの私に、遅れてやって来た友人が声をかけてくれた。
「サボろうか迷ってる?」
「あんたと同じにしないでくれたまえ」
 私の返答に、ケラケラ笑う友人。
「で、授業をサボらずしっかり出る真面目さんが、ここで何してるの?」
 長くなる、とだけ伝え、共に校舎に入った。

「……つーわけでね、死んだ孫の墓参りしてたのに、私を家に引き籠もってる『孫』に会わせようとしたんだよ。部屋には誰もいないんだろうさ」
「ヤバ」
 友人は心霊ものが嫌いだ。そのせいか見て分かる程に激しく鳥肌を立てていた。
 しかし嫌いな癖に、こういう提案を平気でしてくる。
「実は部屋に、ご本尊が置いてあったりして。で、それに会ってくれってことなんじゃないの」
 それは無い。異臭はしなかった。
「じゃマジで帰ってきてたりして」
「あんたね、どうしてそういうことを言うのかね」
「部屋開けたら、スッて乗り移ってくるんじゃないの」
「強制的に連れて行くぞ」
「お断り申し上げる」
 水筒のレモン水を飲む友人。何にせよ、と友人は神妙な顔で続けた。
「分からないまんまだと、延々と怖いよ? もう一度突撃して、お母さんに聞いてみたらどうよ」
「母親も、息子が引き籠もってると思ってるんだぞ。返事無いでしょ、とか言って」
 すると、
「そうは思わないなあ。苛立つにしたって、そんな大声出る? お婆さんに聞かせてるって感じがするよ、香奈恵の話だと」
 何? 友人が鋭い部分を突く。
「それに、『ソウタも見習って欲しい』って、つい言いそうだよ。それを言わなかったってことはさ、お母さんはもう分かってるんじゃないかな、息子が死んでるって」
 あとほら、と押してくる。
「香奈恵も自分で今、話したじゃん。『そこまでお婆さんの言葉に付き合ってくれてありがとう』とも取れるって。それでお墓見に行ったんでしょ?」
 それもそうだ。気づかなかったのは、そこまで混乱していたということだろうか、と私は母親の言葉を反芻する。
 友人のコメントは続く。
「てことは、おかしいのはお婆さんだけで、お母さんは合わせてあげてるだけだと思う。多分……孫が死んだって受け入れられないから、おかしくなっちゃったんだろうし」

 放課後、あの家を訪れると、母親が出てきた。老婆は、墓参りに行っているという。やはり客間に通されたが、茶も菓子も構わなくていいと告げ、母親に話した。
「昨日、お婆さんがお参りしていたお墓を訪ねてみたんです。そうしたら、『奏太』って……」
 そこまで言ったところで、母親は深々と頷いた。そうして、迷惑をかけた詫びと言って、話してくれた。

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 苛められた福富奏太が自殺をはかったのは、小学校四年生に上がったばかりの頃だった。
 団地住まいの、低所得層の親の元で育つ粗暴な生徒共にとって、二世帯住宅とはいえ庭付きの広大な和の屋敷を持ち、一人っ子で大切に育てられていた彼は羨望の的であった。どうせ金持ちなら、体操着や上履きを盗んでもすぐに替えを買ってもらえるだろう。お前は金持ちなんだから、俺達の代わりに買ってくれたっていいだろう――そんな頭の悪い理屈で、彼は執拗にものを盗られ続けたし、その度に母親の元に悲しそうな顔で帰ってきた。
 当然、学も教養もある福富家が傍観しているはずもなく、すぐさま父親が行動に出た。今まで購入した替えのもののレシート、息子の日記、奏太に録音機を持たせて記録した屑共の言葉。これらを証拠に警察に突撃したのだ。
 しかし警察は動けなかった。有力な証拠がどれにも該当しないのだ。
 レシートは、『盗られたから買ったという理由に直結する』という別の証拠が無いため不可。日記は、奏太のねつ造も可能ということで却下。録音は、そういう言葉をかけて遊んでいただけと言われれば、逃げおおせる代物だった。日本警察の能の無さがよく分かる。
 だが、父親が警察に突撃してから一ヶ月後、既に奏太は不登校になっていたが、事態が動いた。
 奏太の上履きを一度だけ盗んだ子が、教員に名乗り出たのである。
「先生、奏太はお金持ちだから、盗んでもいいだろうって……僕、思ったんだ。だけど警察に行ったって聞いて、やっぱりいけないんだ、奏太が買ってもらった大事なものなんだって、やっと分かった。ごめんなさい。奏太に返したい。返して、謝んなきゃいけない」
 これが現場の証言となり、彼に触発された他の生徒も次々に白状した。俺も盗んだ、私も盗った……。
 数十人分出たところで、ようやく警察も、窃盗犯罪として捜査に出た。結果、近所のコンビニや駄菓子屋から窃盗していた者も見つかり、しかも初犯ではないため、軒並み処分の対象となった。明らかに窃盗物と分かるのに警察に届け出なかった親も、まとめて処罰を食らった。
 だが、奏太は自殺してしまった。事態が解決したのに、何故か。
 実は、学校でこんなことが起きていた。
 奏太のものを盗むという計画を立てた主犯が、最初に証言した生徒を恫喝していたのである。
「お前がチクったせいで、全部返さなきゃならなくなったじゃねえかよ。数万円無駄になった。お前、払えよ」
 勿論これも警察にばれて、どうしようもない単細胞ということで、矯正施設に送られることと相成った。しかしその勇気ある証言者(今更良い子ぶって何様なのかと思うが)は、恐怖で家を出られなくなってしまったのだ。
 ものを返そうとしただけなのに、怖くなってしまうなんて――。
 犯罪に荷担して不登校に追いやり、今になって不登校になった奴など、同情する必要も無い。だからそのまま不登校の恐怖を味わわせておけば良かったのに。
 奏太は、悪い意味で感受性が豊かすぎた。自分が不登校者だから、同じ不登校の苦しみを推し量ってしまった。誰のせい? 自分が親に言ったから……。
 享年、僅か十歳。
 葬式は、それは豪華であった。よく遊びに来ていた、父親の会社の同僚や上司。遊んでくれた、近所のおばさん。親戚、教員――その中に、当然老婆もいた。老婆は、俯いたまま、泣くことも忘れたかのように、黙って座っていた。
 自分の子が追いやったのだ、と比較的良識を持った団地の夫も来た。だが、彼らについては父親が門前払いした。
「犯罪者が育ち上がるような環境の汚らわしい方々に、奏太の天への門出を踏み荒らされたくありません。今更善人のふりをしないで頂けますか。まさか焼香をあげる程度で、請求書の額を減らしてもらおうと考えているんじゃありませんよね。後百二十万円です。覚えていますね? 支払えない? ならば借金でもすることですね。精々奔走なさって下さい」
 凄い言葉であるが、福富家の一人息子を失った怒りを思えば当然である。
 来る度に、父親は似たような口上で団地民を侮蔑した。かなり激しいエリート意識というか選民意識というか、そういった心持ちが全面に出ている言葉である。
 何人来ただろうか。
 いよいよ足指を使っても足らない程の頭数が来て、父親が呆れたように言おうとした、その時だった。
「功二さん。貴方の言葉の方が、余程汚いわよ」
 静かだが鋭い言葉だった。父親は、俺の何が間違っている、と言わんばかりに振り向いた。
 老婆が、父親を見つめていた。
「奏太は、そんなこと言いません。自分が嫌な思いをした、それを人に感じさせたくないと、そう考えたの。とても心の優しい子。その子の前で、自分は一滴も汚れのない湧き水であるかのように振る舞い、そうでありながら口から泥を吐き出すのはおよし。それこそ人として汚らわしい。お外でやって頂戴な。奏太のお昼寝を邪魔しないで」
 何だと、こんな屑共と同じだというのか、この俺を! そう言おうとして、しかし、父親は踏みとどまった。
 ……昼寝?
「どうして奏太のお昼寝に集まっているのか知らないけど、皆静かよ。功二さん、騒がしいのは貴方だけ。口を閉じなさい」
「お義母さん、あの……?」
「口を閉じなさい」
 葬式は、それでしめやかに執り行われた。
 だが老婆は、その最中も、遺体を燃やす際も、骨を骨壺に収める時も、墓に納骨される時も全く涙しなかった。それどころか、泣いている奏太の母親・美代に向かって、
「どうしたの、泣いちゃって。何か辛いことでもあったの?」
 こんなことを言ったのだ。
 息子が死んだからに決まってるだろ、と美代は言えなかった。明らかに老婆がおかしいと分かっていたからである。
 奏太を死んだ者と考えていないのは、ボケたからではないだろう。きっと受け入れられないからに違いない。可愛がっていたのだ、自殺なんていう一番ショッキングな方法で死なれたら、こんな有様にもなってしまう。
 老婆は帰宅後、締め切られた奏太の部屋に行き、声をかけた。
「ねえ、今度お買い物に行くの、何か欲しいものある?」
 事ある毎に『奏太は死んだ』と言って不用意に傷つけるくらいなら、そして、それをすることで自分も悲しみに暮れるくらいなら、いっそ、全て理解して受け入れるまで、何も言わないでおこう……。

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「つまり、その……奏太さんがいると思っているお婆さんの、妄想、ああ、いえ、想像に付き合ってあげているということですね」
 母親は頷いた。
「もう四年経つのに、まだこんな状態で、しかも友達を連れてくる、なんて。どんどん酷くなってるの。もしかしたら、死ぬまでこのままかもね」
「四年間も、亡くなった奏太さんをいるものとして扱う。正直、疲れませんか」
「最初はそうだったの。でもね」
 続く母親の言葉は、少し明るいものだった。
「最近はね、本当に部屋に奏太がいて、家族を見ていてくれているように思うの。だから私も、お父さんも、奏太の優しさに恥じない生き方をしなきゃって」
 父親は少しずつ、エリート意識を改めたという。彼女も、ボランティア活動や地域交流を通して、団地の母親達の苦労を知り、見聞が広がりつつあるそうだ。
「道徳的に悪いこと、なんて、自分に余裕が無いと考えられないのよね。それが分かった。勿論、奏太のものを盗んだのは悪いことよ。でも、それを皆が、余裕を持って『駄目だ』って分かる社会にならなきゃいけない。私達みたいに、団地住まいだから底辺とか屋敷持ちだから上位の人間だとか、考える人が減らないといけない。それに、奏太は一言も、『団地の子に盗られた』なんて言わなかった。『クラスメイトに盗られた』としか言わなかった。あの子は、対等に接しようとしてたのね」
 綺麗事だ。私はつい口を挟んだ。
「その結果、舐められたんですよ。それで……」
「ええ。でも、『盗った』って証言してくれた子もいた。子供だもの、周りが『盗んでいい』なんて雰囲気になっていたら、一人だけやらないでいられるのは難しいでしょ? それに、団地ってことは帰り道がほぼ同じ。ターゲットにされたらそれこそ、奏太以上に逃げられないと思う。それでも、結局怖くて出られなくなってしまうことになっても、発言してくれた。その勇気は、団地だとか関係ない」
 どうだかね、と私は怪訝な表情を浮かべた。
 サツが動いたから、白状したのだ。自分の足下が危うくなったから、せめて刑罰を軽くしてもらえるようにと吐いたに違いない。立場の不安定化に伴って下げられる頭に、何の価値があるのか。謝罪の気がさらさら無い幹部共が禿げ頭を揃って下げている会見と、何も変わらない。
 だが母親は、そんな私の心情を推察したかのように、
「まだ十歳。『ここで良い子ぶれば、褒めてもらえる』なんて、そこまで考えるかな? そこまで頭が回るなら、それこそ、誰が盗ったかが奏太に分からないようにすると思うのよ」
 だから信じたいっていうのは、駄目かな?
 母親は、それだけぽつりと言った。

 馬鹿じゃないの、と私は帰る道々、感じていた。
 福富奏太が自殺したのは、単に優しすぎたからだ。しかし、その状況を作ったのは他ならぬ団地のガキ共ではないか。それを信じるだと? 学は無くても悪知恵は持てる。悪知恵を加味せずに、子供の勇気だとか純朴さだとかを考えるとは、どれだけ脳内が花畑と化しているんだろうか。そんな有様だから舐められるんだ。それこそ、父親程とまでは言わずとも、ある程度の線引きはすべきだろう。他人の領域を侵す不良共に、人間としての信用など欠片もあるはずがない。信ずる方が馬鹿を見るの典型だ。一度犯罪をした者など、人間として見てはいけないし関わってもいけない。
 そこまで感情的に考えてしまったところで、T霊園の横を過ぎようとしていた。ふと、足を止める。
 そういえば、老婆は墓参りに行っているんだったか。
 待てよ。
 孫の墓にお参りしながら、どうして孫がいるものと思っているんだ?
 母親が老婆の想像に付き合っているのは分かった。だが老婆の墓参りが理解できない。
「まさか、別人が埋まってると思ってるんじゃないだろうな」
 そこまで行くと、いよいよボケていると疑われる。様子でも見るか、と私はT霊園に入っていった。

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 老婆は、写真に写っていたのと同じ姿勢でそこにいた。
 挨拶をしようとすると、こちらを見ずに、
「美代と、話したのかい」
 と言った。何故分かった、とぎくりとする私に、老婆はしかしくすりと笑いかけてきた。
「そっちから来たんだもの。貴方の住んでいるところから来るなら、反対でしょ」
 老婆はすうと立ち上がり、私と相対すると、
「分かってるの。このお墓に、奏太が埋まってることくらい」
 衝撃の発言をした。え、と私は声を漏らした。
「じゃあ、何で」
「いるものとしたかって? ふふふ」
 老婆は、美代から何をどれくらい聞いたか、と問うてきた。何だ、この展開は。現実でまさか見抜かれる経験をするとは、と私は少々動揺した。
 奏太への苛め、自殺、葬儀、その後の老婆の態度……それらを話すと、彼女は面白そうにくすくす笑った。
「全部、美代と功二さんのためよ」
「ご両親、ですね」
「そう」
 老婆の話は、こうだった。
 母親の美代は、奏太が自殺してから延々と泣いていた。葬儀の予約をする時も、最中も、お骨を埋める時も。それどころか、彼が死ぬ前から、物を盗まれる度に、酷い酷いと泣くばかりで碌に行動しなかったと。
 父親の功二は、奏太が死んだ時、開口一番『大事な跡継ぎが、どうしてこんなことに』とほざいたそうだ。息子が死んだ、ではなく、跡継ぎという言い方に、老婆は耳を疑った。
「葬儀のことを聞いているなら、もう知っているわね。功二さんは、本当に酷い。自分はエリートで、他の奴らとは違う、なんて……。どうしてあんな父親から、奏太みたいな優しい子が生まれるのか、分からないわ。それに美代も、感情を露わにするばかりで、全然、どうにかしようとなんてしない。ああ、駄目ね、この二人と思ってねえ。奏太が死んじゃったのはもう仕方ないにしても、尚このままなんて、奏太が安心してあの世に行けないでしょ?」
 そこで老婆は二人を矯正する作戦を決行した。それが、奏太の死を受け入れられずにボケてしまったフリをすることだった。
「ボケに対して、真っ向から否定するのは良くないって言うでしょ? あの二人、学問としての頭ならあるから、それくらい分かってるだろうし、きっと乗ってくるだろうなって」
 結果、老婆の策は、効果てきめんだった。母親は行動を起こすようになり、父親も意識を改めた。
「四年間もボケたフリ。ふふふ、凄く面白かったわよ、二人の反応が」
「凄い、執念ですね……」
「孫のためだもの、これくらい、何てことないわ」
 ドラマのような話だな、と創作好きの私は感心した。
 さあて、と老婆が水桶に柄杓を入れ、ハンドバッグに小物を纏めた。帰るらしい。どうせ私は手ぶらなので、水桶を片付ける旨を申し出た。
「あらあ、悪いわねえ」
 老婆と共に、墓の間を歩く。
 烏が鳴く。日が傾く。影が長くなる。
 地面や木が赤みを帯びる。雲が染まっていく。黒い部分も僅かに見えてくる。
 水桶を置く棚も、柄杓をかける格子も、茶色い木ではない。赤みある肌と黒い影。
 ことり
 かららん
「お婆さん」
 振り向きざま、私は彼女に問う。
「なあに」
 老婆の顔を、赤い光が照らす。
「笑顔が一番可愛いと言ってくれたのは、誰なんですか」
 殊更元気に見える。
「奏太よ」
 だから毎日笑って暮らすことにしたの。
 老婆はそう言って、笑い皺を寄せた。


(おしまい)

※この実話は、同人誌『三崎文学』に掲載した作品に若干修正を加えたものです。

みんなの読んで良かった!