おとうさんの寝言が教えてくれたこと


十四歳の夏。
 
夜が白々と明け始めた頃、庭にニワトリが迷い込んだと家族が大騒ぎしたことがありました。家のどこからか鳴き声が聞こえてくると、幼稚園に通っていた弟が祖母を呼び、父母を手招き、家族があちこちを捜しましたがニワトリはどこにも見あたりません。

そして、家の中から声が聞こえると母が私を起こしにきてわかったこと、それは中学生だった私の寝言でした。 
「コケッコー、クックックックッ、コッコ、コケコッコー。」
私は大声で鳴きまねを繰り返していたのです。

今思えばこのときが寝言の始まりです。
  
学生時代には、クラブの合宿中、寝言で号令をかけることがありました。
明け方、
「イチッ、ニィ、サン!」
薄暗い中、私が大号令をかけるので、早朝練習が始まったと皆が寝ぼけ眼のまま慌ててトレーニングウェアに着替え始めます。しかし、まだ夜は明けていません。眠っている私が号令をかけているのでした。

それ以来、雑魚寝する合宿生活においては、安眠を得たい先輩の圧力から、私の周囲には寝言癖を知らない新入生の床が自然と配置されることとなりました。
 
号令だけではなくかなり長い時間延々と何かに怒っていることもあれば、幼児教育について講演することもあります。歌うことは日常茶飯事であり、そのとき歌詞がわからなければ眠りながらハミングをします。

これらは当の本人にはまったく身に覚えがありません。絶叫する場合には何事が起こったのかと時折は目を覚ますことがあるものの、寝言を発した記憶も自覚も本人にはないのです。
 
三十歳を過ぎてからは、昼間、不快な出来事が起こった夜に寝言を言う傾向があることに気がつきました。ついていない一日には、胸の中にモヤモヤが残り、今夜はきっと何かを言うに違いないと自分でも寝言の予感を感じるのです。
 
極端に寝起きが悪いことにも気がつきました。

一人暮らしをしていた頃には目覚ましを四つセットしていました。ひとつは乾電池式のデジタル時計。もうひとつはゼンマイ式のアナログ時計。ゼンマイ式のアナログ時計を欠かさずに置くのは、デジタル時計の乾電池が消耗して鳴らず、会社に遅刻したことがあったからです。さらに携帯電話のアラームをセット。最後にテレビのタイマーをセットし最大音で鳴らす。
 
これでようやく目を開きます。それでも、しばらくはぼうっとした状態が続き、ひどいときには、これら四つが三十分から一時間鳴り続けた後にようやく目を覚まします。
 
その当時、赤ん坊が生まれたばかりの隣の家から、「近所迷惑です。朝から大音量でテレビを見ないでください。赤ちゃんびっくりして起きます」という投書がポストに投げ込まれましたこともありました。私はテレビを見ていたのではありません。隣の家の赤ん坊を驚かす大音量でも目覚めないほど寝起きが悪かったのです。
 
結婚してからは妻が寝言の目撃者となりました。
 
明らかに眠っている私が不意にあまりにも思いがけないことを言うので、最初のうちは面白がって妻はよく寝言の話をしました。親戚がテレビ局に勤めているので、いつか何かのネタになるのではないかとメモ用紙と筆記用具を枕元に置いて私の寝言を記録するようにもなりました。

真夜中のことです。寝ぼけている最中の妻のメモは読みとれないことが多く、朝起きたときには私が何か面白いことを言っていたとか、ずっと怒っていたとかいうことを覚えてはいても、それが具体的にどのような言葉であったかを思い出せないことが数多くあります。そして、妻にとってみれば、私の寝言は安眠を妨げ翌日の仕事にも影響を与える大きな原因でもありました。
 
ある年の暮れ、事態は急速に悪化しました。
 
それまでは主に明け方に発症することが多かった寝言ですが、その夜には寝付くなり一時間もしないうちに話し始め、一晩中しゃべっているという状態でした。しかも、それが年末年始の数日間に渡って続きました。
 
ある朝、五歳になったばかりの長女がずいぶんと古い歌を口ずさんでいるので、なぜそんな歌を知っているのかと聞いてみると、
「おとうさんが寝ているときに歌っとったんやよ。」

妻はさすがに面白がってばかりもいられなくなりました。
 「寝ながら話をしているのは見ていて気持ち悪い。」
とか、
「これは放っておけない病気だ。」
などと言い始め、私は睡眠外来治療に通って治療を始めることになりました。

特殊な設備の病室で一晩眠る「終夜ポリソムノグラフィー検査」という検査入院をしました。脈、血圧、呼吸状態、イビキなどを測定する長いコードの測定機器をいくつも体に取り付け、声を録音し、寝姿を天井から撮影して記録します。

担当医と共にこのときの動画を見た私は、はっきりとした口調で話をしている自分を知り、見ていて気持ちが悪いと妻が言っていたことをようやく理解しました。その夜の寝言が次々と克明に再現されたからです。たとえば、
 
就寝一時間後、「アイスクリームを売ってください。」
真夜中、「ファクスを送りましたので。」
明け方、「いえいえ、どうぞお構いなく。」(身振り手振りをまじえ)
 
検査入院をしたのは二月のことであり寒中真っ盛りでした。私自身、アイスクリームを売ってくださいという要因は推定できません。人一倍寒がりの私には思いがけない寝言です。その夜には無意識のうちに壁を叩いたり、歌に合わせて踊っていたり、怒ってコブシを握り締めたりもしていました。
 
それ以来、睡眠外来の専門医の治療を実直に続けました。その特徴は夢に連動した寝言ではないということ。夢を見て寝言を言っているのではないというのです。 
 
私は、満四十八歳。会社員。
三重県在住。
 
痩せもせず、太りもせず、紳士服屋の吊るしのスーツがぴたりと合うという典型的な吊るしの体型です。おしゃれに興味がなく、相当な下戸。どちらかというと無頓着な性分。一見、きわめて健康。眠っているときに黙ってさえいれば、ごくありふれた普通の会社員です。
 
書いてある寝言はすべて事実です。
 
時には絶叫したり、歌ったり、怒ったり、笑ったりしながら、家族をはじめとするまわりの人たちに少なからず影響を与えつつ、眠っている私が語った夜毎の言葉を書き綴っています。

    ■  □

「俺は、道の駅になる。」

結婚し、ひとまわり年下の妻が初めて聞いた寝言は、「俺は、道の駅になる」だった。
 
道の駅になると不意に切り出された妻はこの宣言に困惑した。三十歳を過ぎた夫がようやく人生の目標を見出したらしいのだが、その本人はぐっすりと眠っている。掛け布団をあごの下にがっちりとキープして身動ぎもしない。
 
心持ち歯を食いしばるようにして眉間をそばだててはいるものの、それまでに何度も見た寝顔であり起きているとはとても思えない。揺さぶってみても反応がない。瞼を開いてみてもどんよりとしている。確かに眠っている。
 
それでも「道の駅になる」と間近に聞こえた。
 妻は僕に強烈な寝言癖があることを知った。
「あんなにしっかりした寝言、初めて聞いたわ。それに、すごい大声。」

僕は基本的にはっきりと寝言をいう。
そして、眠りながら叫ぶ。歌うこともある。
思春期に始まり今もなお続いている。
 
たいていは覚醒している昼間に不快な出来事が起こったときに発症する。不快であればあるほど絶叫する。本人には自覚症状がなく記憶もない。一人寝では決して気づかないこの状況を、僕は妻との出会いによって再認識することとなった。
 
妻とっては衝撃的な出来事だったらしく、この日から枕元にノートを置き、夜中に聞きとることができた寝言をこつこつと書き綴るようになった。
 
十六年間に及ぶ寝言の記録が始まった。

    ■  □

六人部屋、人生はわからんでなあ。

深夜、僕は救急病院に運びこまれた。盲腸炎だった。

手術前、
「個室にしますか?六人部屋にしますか?」
看護師に尋ねられので、激痛に襲われながらも、寝言が他の患者へ及ぼす影響を配慮し、僕は個室を希望した。

だが、妻はその手術中に、
「盲腸くらいでもったいない」
と、六人部屋に決めていた。

翌朝、麻酔から覚めた僕は、中年の男五人に囲まれる六人部屋の壁際にいた。そのことへの小さな反抗心をひきずっていたためか、退院後、思わず寝言に出たらしい。

ちなみに、
「人生はわからんでなあ。」
とは、入院直前、保険に特約を加えていたおかげで、予想以上に保険金が手に入ったことを言っている。

    ■  □

「奥さん、幼児教育はね、三歳までですよ。三歳まで。」

幼児教育に関する講演をしていた。

覚醒した状態ではまず考えられない。将来の能力や性格の基礎を形成する幼児期はとても重要な時期だとは思うが、僕にはその知識も教養もない。結婚して間もない頃だったので、将来の二世誕生や子育てを想定して、眠りながらも何かを考え、言おうとしていたのかもしれない。

「あんたはな、寝てるとき、ぼんやりした普段の生活からは考えられへんことを、想像もできんくらい情熱的に言うんやよ。」
妻は呆れ顔で、
「寝言で熱弁するくらい起きているときに仕事したら、もっと何かできると思う。」

その頃から妻は子供の食事は大切だとか、子供が通う幼稚園はどこがよいかとか、新居は市立小学校の学区を考慮するほうがよいなどと語るようになった。
そして、
「生まれてくる子供のことも考えてくれよ。頼むで、おとうさん。」

僕は妻が二世を身籠ったことを知った。

    ■  □

「親孝行も三歳まで。」

ぼんやりと目を覚ますと夜はまだ明けていなかった。
目覚まし時計を見ると午前五時だった。

妻がどこからか弱々しく僕を呼んでいる。
「破水したみたい。病院へ連れてって。」
予定日より十日早い。

病院へ急いだ。
女医が緊張している僕を緩めるように、
「七時に帝王切開をします。それまでは休んでいてください。」

結婚して五年間、子宝には恵まれなかった。夫婦共に馬車馬のように忙しく働いていた頃、一度、流産もした。事前の診断では女児。
ようやくこの日がきた。

手術室に見送ってから、どのくらいの時間が過ぎたのかわからない。劇的な産声は聞こえなかった。
うたた寝をしかけていた僕の前を担架が風を巻いて通り過ぎた。大きくむくんだ妻の顔が目に入った。妻を横たえた担架が病室へ帰っていく。僕は慌ててその後を追った。

麻酔から覚めない妻を枕元で見ていると、
「赤ちゃんは産湯の真最中ですよ」
看護師の声が聞こえ、振り向くと一枚のポラロイド写真を手渡された。

頭がとがった赤い顔の新生児が映っている。
「すごく元気な女の子ですよ。」
看護婦は写真立てに入れ妻の枕元に置いた。

二週間、妻は入院した。
僕は週末毎に病院に泊まった。
「親孝行は三歳まで」
そのとき、僕が寝言で言ったらしい。

我が子に過剰な期待しないようにしようと僕は思っていた。背伸びする生き方を強制しないようにしたい。小さい頃に充分に可愛さをふりまいて、子供は充分に親孝行をしてくれるのだから。

退院前には妻と共に新生児の入浴の仕方の講習を受けた。
ようやく我が子を抱いた。
とても小さかった。

    ■  □

「微糖とノンシュガーは何が違うんや?」

僕は大の缶コーヒー好き。一日に五、六本飲む。

適度に血糖値をあげるときにも缶コーヒーを飲む。糖分を控えるために微糖。車を運転するときには眠気を予防するためにブラック。この飲み分けを妻はよく知っていて、冷蔵庫や戸棚にはディスカウント店でまとめ買いした三十本の缶コーヒーが適度な割合でストックされている。

妻は、朝食のパンを頬張りながら、
「微糖とノンシュガーは何が違うかって、そんなこと、寝言で聞かれても困るんやけど。」

僕は、もとより味覚が弱く、微糖とブラックの味の違いがわからなくなることがある。甘ったるい缶コーヒーを自販機で買って飲むこともあり、自分が決めた飲み分けはあまり意味がなくなって、結局、どの缶コーヒーでもよくなる。

妻は半ば目線を落として、
「あなたはほんとうに何もかも中途半端すぎ。そんなことでは出世せんな。あんたに出世してもらって、わたしはお気楽なパート仕事をして、もっと自由な時間をつくりたいと思っていたけど無理かも。」

僕が黙りこんでも、
「大体、わたしはあんたに何かを買って欲しいって言ったことはないけど、普通、嫁や子供に何か買ってあげようとか思わんか?そのために何かこうしようとか思うことはないのか?そういうこと考えたら、自ずと道は開けてくると思う。」

妻の言葉が耳に痛くこびりつく。
確かに僕は妻に指輪すらプレゼントしていない。

    ■  □

「飛ぶ鳥、羽を伸ばせず。」

飛ぶ鳥には、羽を伸ばせる時間がない。

会社員の僕は、飛ぶ鳥となって異動するとき、あとを濁さないようにするためにとても忙しい。書類をダンボールにつめこみ遠慮がちに席を移る。多いときには春と秋とに荷物を運ぶ。社歴を重ねるにつれ異動する機会が増え、僕にはますます羽を伸ばせる時間がなくなってきている。

「飛ぶ鳥はあとを濁さずって言うけど、あとを濁さずに飛び立てるものかと思う。」
僕が言えば、
「だから何って思うよ。わざわざ寝言で言うことでもないし。」
妻が答える。

休日の朝陽が眩しい。
妻が長女を抱く。
長女が母乳を口にする。

長女が丸い目を見開いて妻を見つめている。
妻が長女の背中を軽くとんとんと叩く。
「この子は夜泣きせえへんな。親思いのええ子なんやよ。」

新しい家族と向き合う時間がゆっくりと流れる。
長女は小さなゲップをして、満足げにまどろんだ。

    ■  □

「白い机になる。」

幼少時、白い机にあこがれていた妻は、小学校に入学する際、両親にせがんで真っ白い机を買ってもらった。決して裕福ではない家庭事情を幼くして認識していながらも、衝動を抑えきれず、生まれて初めて強烈なおねだりをした。

願いはかなった。
赤いランドセルも買ってもらった。時々、背負ってみたり机に置いてみたりした。
夢心地で眩しく光る机を眺めた。

しかし、実際に使い始めると、白い机は汚れがつきやすく、埃が浮き立つ。傷があちこちにできて目立つ上に、油性のサインペンを使っているときに、ノートからはみだして机上に線を書いてしまい消えなくなるというありさまだった。

妻は想定とはずいぶん違うと思いつつも不満を口に出せず、高校を卒業するまで我慢して使いきり、白い机をせがんだことを長く後悔した。

「白い机を買ったらあかん。必ず後悔するから。」

妻と付き合い始めた頃にこの話を聞いた。
それ以来、想定外のことが重なりうまくいかなかったときには、
「白い机のようだ。」
と、言うことが夫婦の慣習となった。

嫁の衝動買いを制するときに、
「白い机になるよ。」
常套句として僕はよく使う。

白い机は今では屋外に出されている。
二十五年を経て、今もなお園芸用品の物置として大切に使われている。

    ■  □

そんなにようけ買わんでもええの。

長女誕生後、毎週末の日課となった買い物、紙おむつ。肌触りと吸収力、価格、それに月齢にこだわった紙おむつを妻は買い求める。肌が弱い低月齢には、かぶれないことを重視。動きまわるようになるとフィット感を想定する。

幼少時にアトピー性皮膚炎に苦しんだ妻は、我が子にアレルギー体質がないことを祈りつつ、口に入れたり肌に触れたりするものには母性を発揮する。特に紙おむつは絶対にムレさせることのないように国産品を厳選し、
「今日のテーマは、ムレない、もれない、かぶれない。そして、かわいい、やよ。」

基本的に割引がされているものしか買わず、半額商品には目がない。値札が重ねて貼られていると、静かに隅から剥ぎ取って元の値段を確認する。店員が割引シールを貼りにくる時刻とタイミングを熟知していて、そのときをじっと待っていたりする。

この現実主義な妻の血筋は、間違いなく長女に引き継がれている。

数年後…。

長女が満四歳になったときのこと、
「おかあさんがいっぱいお休みとれたら、ディズニーランドに行きたいか?」
妻が長女に聞くと、
「行かなくてもいいよ。」
長女は答えた。

「それならどこ行きたいの?」
妻は誘いかけるようにほくそ笑む。
「旅館やなあ。温泉入れたらなおいいわ。でも、おかあさんが行きたいとこなら、どこでもいいよ。」
長女は屈託がない。

そして、
「一番好きなところはどこ?」
妻が尋ねると、
「イオン。食料品売り場。試食もできるから。」

現実主義的な会話を成立させている三歳の長女を僕は寂しく思うのだが、妻は大人びていて将来が楽しみだと思わずしたり顔になる。

    ■  □

「果てしない、あの雲の彼方へ。」

 ある朝、長女がずいぶんと古い歌を口ずさんでいる。
なぜそんな歌を知っているのかと聞いてみると、
「おとうさんが寝ているときに歌っとったんやよ。おとうさんの寝言が教えてくれたこと。」
と、さりげなく言う。
 
その頃、紅白歌合戦への出場が決まった女性グループSPEEDの歌だった。
長女は自分が生まれる前の歌を父の寝言で覚えたのだった。

「♪果てしない あの雲の彼方へ。」

妻によれば、身振りをまじえて熱唱。
歌詞を覚えていない後半はハミングしていたようだ。

    ■  □

おとうさん、また来てね!

長女の初めての運動会。この日のことを僕は忘れない。

定番の場所取りは、幼稚園児と父母、それに祖父母の席の争奪戦となる。早くから陣取る父親たちは最前列にビデオカメラをセットして待ち構える。百台近いビデオカメラが園庭を取り囲む。それほどまで観戦意欲がない僕は、来賓席のテントの片隅に小さなビニールシートを敷いた。
 
長女が「アララの呪文」を歌い踊る。
かけっこをする。仲間を応援する。
 
弁当を広げる時間には、
「お昼からは、おとうさんも出るんやよ」
窮屈なビニールシートからはみ出した僕の脚に長女が座り、うきうきして言う。
「写真とってあげよ。おとうさんとのツーショットやよ。」

おにぎりを頬張る長女の写真を妻が撮る。 
妻もまた写真にはそれほどのこだわりはない。もとより我が家にはビデオカメラもない。午前中に撮った写真は、かけっこをする遠目の二枚だけだった。
 
それでも長女は楽しそうに笑う。
 
幼稚園は父親が参加するプログラムを用意していた。二人三脚でテニスラケットにボールを載せて運ぶ競技だった。集合のアナウンスが流れると、ジャージ姿の父親たちが駆け出していく。けれども、僕はしゃかりきになっている父親たちとなじめない上に、親子のふれあいを演出するプログラムに乗り気ではなかった。
 
その頃、僕はいつになく忙しく、長女が起きる前に出勤し、眠った後に帰宅していた。日曜日の夜に出張先へ移動することも多かった。週末を返上し、馬車馬のように働いた。長女とは会う間もなく毎日が過ぎていった。
 
僕にとっては睡魔が充満する運動会だった。
だから、いやいや列に並びに行った。
 
ほかの親子は手をつないで整列していた。長女を探すが、同じ体操服を着ている園児が何十人もいて、どこにいるのかがわからない。右往左往していると、列の中程に唇をぐっと噛み締めて泣き顔をこらえている長女がいた。

僕がその肩をたたくと、長女はそれまで我慢していたものが一気に噴出しかのように、わっと声を上げて泣いた。
 
先生が何事かと駆け寄った。
「おとうさんですね。遅れないで来てくださいね。」
先生は僕の手をぐっとつかんで長女の手を強く握らせた。
「おとうさん、ちゃんときてくれたからね。」
長女を励まして最後尾に並ばせた。
 
長女は無言のまま競技開始直前まですすり泣いていた。
二人三脚で走っているときも涙を拭っていた。
「ごめんな。悪かったな。」
僕は悪いことをしたように感じ一言だけ言った。
 
その日の夜も、夕食後、早々に着替えを出張カバンに詰め込んだ。

玄関から出ようとすると、
「おとうさん、言いたいことがあるんやけど。」
長女が駆け寄ってきた。
「どんなこと?言いたいことって何?」
 
長女は屈託なく笑っている。
黄色い花柄のパジャマが眩しく見える。
じっとこちらを見ている。
何かを考えているようだ。
 
「あのな、おとうさん。今日は運動会に来てくれてありがとう」
そして、
「おとうさん、また来てね!」
と、言った。 
 
無邪気な笑顔だった。
僕は違和感を覚えたが、そのまま家を出た。
 
車中、急に寂しくなった。長女は僕が家にいるものとは思っていない。楽しみにしていた運動会でも、一番いてほしいと思うときにはいなかった。待ちわびてようやくやって来る、よその家とは違う父親だった。
 
何かとんでもないことをしてしまったように思った。しばらくすると泣けてきた。不思議な感覚だった。それまで家族のことを意にもかけなかった僕が、生まれて初めて経験する思いだった。泣けて、泣けて、どうしようもなく涙がとまらなくなった。

このときから、僕は、家族を生涯のテーマとすることに決めた。

    ■  □

一年半、睡眠外来に通いました。

さまざまな原因が想定されるために血液検査をしました。むずむず脚症候群の対処療法として鉄分補給を行い、噛み合わせの悪さが原因となっていた軽度の無呼吸症候群を軽減するため専用のマウスピースをつくりました。処方されたリボトール錠という薬を指示された通りに眠る二時間前に服用もしました。
 
睡眠外来での七ヶ月余の治療による最大の効果は、鉄分補給により寝起きの悪さが改善されたことでした。もがき苦しむことなく起床するようになり、寝過ごしたかと思いハッとして起きるという、かつてのように生活からは想像もつかない劇的な効果です。

しかし、不可解な睡眠中の言動そのものは完治にはいたりませんでした。
 
たとえば、
「長門館を予約しました。」
と、急に語りかけたり、
「さあ、考えて。三十秒!」
激しく叱咤激励をしたりします。

演歌からアニメソングなどジャンルを超えて歌ったり、時には一晩中、同じ歌を断続的に繰り返すこともあります。担当医によれば、その特徴は夢に連動した寝言ではないということ。そのためか脈絡がまったくなく突発的です。
 
睡眠外来の処方によって、夫の寝言から解放されるようになると期待していた妻は、いっそうストレスを募らせました。

自宅を改築してからは、私一人が二階に寝ることになりましたが、それでも、一階にいる妻や四歳になった長女、同居することになった義母に、出産に備えて実家に戻っていた義理の妹までが、
「寝言がうるさい。なんでそんな大声で叫ぶの?」
口々に不満を言い立てました。
 
そんなある日のこと、
「わかった。録音すればいい。」
妻が言い出し、
「今は何時間も録音ができるICレコーダーがあるから、録音して、あんた、自分で聞いてみ。そうやわ、録音すればいい
 
レコーダーは、音に反応して録音を開始し、音がなければ録音を停止します。
寝る前に枕元に置きます。

そして、録音された寝言の第一声は、 
「掘っても掘っても出てくるものは何でしょうか?」
 
この一夜から、寝言の録音が始まりました。

    ■  □

掘っても掘っても出てくるものは何でしょうか?」

その年の最初の寝言は「なぞなぞ」だった。

年末年始にかけて昼間は親戚の子供たちが連日やってきて騒がしい家になっていた。子供たちは長女を中心とした「なぞなぞ合戦」を連日繰り広げ、僕はひそかにインターネットで素材を検索しつつ四苦八苦して応戦した。

僕は、覚醒している間には考えつかなかったなぞなぞを思いついたらしい。
寝ついて間もないときだった。
「掘っても掘っても出てくるものは何でしょうか?」

階下で寝ていた義母は、思わず目を開いて、
「温泉。」
洗い物をしていた妻は、
「土。」
と、反射的に答えたという。

さらに翌朝には、
「掘っても掘っても出てくるものはな~んだ?」
長女が言う。

「おとうさん、答えは何?ばあばはな、温泉って言うし、おかあさんはな、土やって言うんやよ。」
昨夜の寝言を妻から聞いたらしい。
「さて、答えは何でしょうか?」
僕が問いかけると、
「このなぞなどはちょっと難しいけど。」

長女は小首をかしげてしばらく考えていたが、
「正解は、砂やと思う。砂場遊びをしてるとき、スコップで掘っても掘っても砂が出てくるからな。」
「スコップで掘っても出てくるか?」
「そうやよ。掘っても掘っても出てくるから、だから正解は砂。」

僕は迷わず、
「その通り。正解は砂。」
「やっぱり、そうやよな。そうやと思っとった。」

長女が満足げコロコロと笑う。
僕は初めて寝言が報われたようにも思った。

    ■  □

痛い、痛い。眠い、眠い。」

薄暮が迫る五時、一緒に公園で遊んでいた長女が雲梯から落下し鉄柱に顔面を直撃した。
「痛い、痛い。」
悲痛な叫びを聞き駆け寄ると、僕の目の前で長女の眉間がみるみるうちに膨れ上がる。数秒の間に眉間は紫色に変色し、さらに大きく腫れ上がっていく。
 
長女が泣きじゃくる。
 
これは大変なことになったと思いながら、
「大丈夫やよ。絶対、大丈夫。」。
両頬を掌に包み込む。
長女をおぶって家へと走った。
 
雲梯の上段から僕が背を向けた瞬間に落下した。
鉄柱で顔面を強打している。一瞬、目を離したのがいけなかったのだと思う。いつもなら上によじ登るときにはそばについていた。今日に限って背を向けた。ぼんやりと考え事をしてしまった。
 
長女が泣く。
転んでも歯を食いしばる勝気な長女が背中で泣きわめく。
 
家に駆け込むと、何も言えないくらい僕は息があがっていた。
別人のように腫れ上がった長女の顔を一目みるなり、
「何これ!何があったの!」
妻は一瞬絶句し、口を歪めて長女を抱きしめた。

「医者へ連れて行く。日曜日でもやってる医者は?」
「中嶋医院に行こ。五時までやけど、どうしても診てくれって頼むから。」 
妻が保険証をバッグに押し込む。
「すぐに車出して。高速から行けば十分で行けるよ」
 
長女は泣き疲れたのか、後部座席に乗せるとぐったりとした。
「眠い、眠い。」
と、力なく繰り返し言う。
 
時計を見るとすでに五時半を過ぎている。
バックミラーに映る妻が、長女の頭を膝枕に乗せ濡れタオルで眉間を冷やす。お辞儀をしながら携帯電話で医者に頼んでいる。
 
僕は黙って強引にアクセルを踏み込む。

十キロ先の医者が遠く感じる。
急がなければならない。自分の責任だ。そう思いながら走る。
「無理して飛ばさんといてよ。こんなとき、熱くなるのが悪い癖なんやから」
妻が僕を諭す。
 
冷静に言われれば言われるほど反抗的に熱くなる。百二十キロで走る前方の車が遅い。追い越し車線と走行車線をジグザグに走り抜け次々と追い越す。スピードメーターは百六十キロを指している。路面のわずかな段差に大きく車がバウンドする。長女の頭が揺すぶられる。さすがに危うい。
 
「先生は診てくれるって言ってくれたから。焦ることないよ。聞いてる?ここで事故したら、もうどうにもならんからね。洒落にならんよ。」
妻が繰り返し諭すように叫んだ。
「ちゃんと聞いてよ。うちの子は強いし、根性があるから絶対に大丈夫。」
 
それからずいぶん長い時間が経ったように感じた。
 
しかし、僕が待合室で二人を待っていた時間は実際にはそれほどでもなかったらしい。
「もう一センチ下やったら鼻の骨が折れとったって。一番硬いところやったから、運がよかったなって。絆創膏は腫れがひくまで一日二日そのまま貼っといてって。」
一仕事終えた妻がそばに腰掛けて吐息をつく。
 
長女が僕の膝に無邪気によじ登る。
鼻の上に大きな黄色い絆創膏を貼った顔が目の前に迫る。

 「痛いか?」
思わず問いかけると、
「ううん。もう大丈夫やよ。それよりもな、おとうさん。おとうさんに聞きたいことがあるんやけど」
「どんなこと?」
「イチダイジって何のこと?」
「イチダイジ?」
「さっき先生がな、子供のケガは家族のイチダイジやでなあって、おかあさんに言うとった。」
「一大事か?それはな、おとうさんやおかあさんが、いっぱい心配すること、かな。」
「いっぱい心配することなんか?」
「とっても大変なことという意味やよ。」
「そう。とっても大変なことなんやな。

「そしたらな、おとうさんに言いたいことがあるんやけど。言ってもいい?」
「何?」
「あのな、おとうさん。心配かけてごめんな。」

 以前、妻は、長女はなかなか大人びていて将来がとても楽しみであると言っていた。確かにその通りだと思い、僕はわっと声を上げて泣き出したい自分を感じながら長女を抱き締めた。

    ■  □

「帰ってこない家族。

数年後、長女が幼稚園で描いた家族の絵には僕がいなかった。
長女を中央に妻と義母。
その三人をハート模様やチューリップの花が飾っていた。


「これは誰?」
僕が問いかけると、
「わたしやよ。」
長女は答える。

「これは?」
「おかあさん。」
「この人は?」
「ばあば。」
「おとうさんは?」
「おらん。」
「なんでおらへんの?」
「言わん。」

あっけなく会話が途絶える。
その頃の僕は、休日出勤、深夜残業、さらに出張につぐ出張。
家にはほとんどいなかった。

「あのな、おとうさん。聞いてもいい?
「どんなこと」
「帰ってこない家族って、何?」
「何それ?」
「きのうの夜、おとうさんが言っとった。おかあさんはな、おとうさんのことやろうって言うけど。」

ドキリとした。
切実に、僕は父親としての刷り込みが足りないことを自戒した。

この日から、僕は長女と一緒に入浴することを心がけた。お風呂でレッスンという日本地図や世界地図を風呂場の壁に貼った。どの県にどんな温泉があるとか、おかあさんと一緒に香港に行ったことがあるというような話をした。

いつになくキラキラした目で長女は僕を見ているような気がした。
長女と一緒に風呂に入るのは、早熟であれば、あと一、二年が限界だと思う。

    ■  □

息ができんのや。」

日曜日の午後、透き通った春の光が眩しく、温かい風がやわらかくそよいでいた。近所の寺に群生するつくしを僕は長女と戯れながら摘んでいたが、そのとき、
「来て!あの子が」
義母の叫び声がゆるやかに流れる時間を一瞬に止めた。

急いで家に駆け戻り、見ると、妻が小さく丸まるように台所の床に倒れている。
「どうした?何があった?」
問いかけても返事がない。
何かを訴えようとしているが、声を出せない。苦しそうな顔で下からじっと僕を見ている。

「胸が痛いような気がする、息がしにくいんやわ言い出して。」
義母が息をきらしながら言う。
「後で病院へ行くわ言うてる間に、急に息ができんようになってな。」

丸まっている妻をそのままの形で抱き上げた。
体が硬い。

僕につかまることもできず、硬直した体を伸ばすこともできず、なぜこんなに苦しいのかがわからないと言いたげに脂汗をにじませて僕を見ている。風邪をひいても寝込むことすらなく、つらいときほど気丈に立ち振る舞う妻がまったく自分をコントロールできない。

僕は緊張を感じた。

「おかあさん、どうなるの?」
長女が僕の背を追うように言う。
その声を振り切るように病院へ急いだ。

「息ができないのです。突然、息ができなくなって、ずっと苦しんでいます。体も固まっています。すぐに診てください。お願いします」
病院へ着くなり、看護士をつかまえて僕は一気呵成に言った。

「順番にお呼びしますから、お待ちください」
「急患です。急いでください」
「承知していますが、順番ですから、お待ちください」
このままでは手立てが遅いと感じ、僕はぐっと語気を強めて言った。
「息ができんのや。早く診てやってくれ」

看護士がじろりと僕を睨んだ。
「早く診てほしいという患者さんはほかにもいます。ソファに横になってお待ちください。」

妻が小さくうなずいて遠慮がちにソファに横たわった。
仰向けになることも、うつ伏せになることもできずに、体を折り曲げてうずくまり刻むように呼吸をする。一息ごとに顔を歪める。
僕には油汗を拭ってやること以外にすべがなくなった。

長い間待った。

熱っぽい乳児を抱く母親がいた。ゴホゴホと咳き込んでいる老人がいた。廊下の向こう側で迷子になった子供が泣いている。何人かがちらちらと看護士に対して気色ばんだ僕を伺っていた。意外に多くの急患がいる。

首筋に手をおいて妻の体温を確認する。
すぐに楽になると小声で励ます。

「乗せますので、手伝ってください」
看護士が車椅子を運んできたとき、妻は眠るように目を閉じていた。両腕を胸の前で交差させて口で息をしている。僕はその腕を静かにとってゆっくりと立たせた。

車椅子に座らせ、押しかけると、
「ご主人はこちらでお待ちください。」
看護士が僕を制して持ち手を奪った。

一時間が過ぎた。

もどかしい中途半端な気持ちになって、廊下の壁をぎろぎろと見つめながら待った。ようやく看護士に呼ばれて診察室に入ると、仕切られた奥の診察台に妻が眠っていた。

「急性の肋間神経痛です」
医師の言葉は明快だった。
「疲労と心身のストレスによるものです。女性の場合には生理のときに症状が出ることもあります。二時間くらいここで安静にしていてください。特に薬も処方していませんので、目覚めたら帰宅して構いません」

僕はふうっと大きく息を吐いた。
「大丈夫か?何ともないらしいけど」
思わず声をかけるが応答はない。

矢継ぎ早に話しかけようとすると、医師が即座に制し、
「安静にすることが大切です。自然に目が覚めるまでは、声をかけて起こさないでください」
その強い言葉に僕は従順に黙りこんだ。
そして、目覚めるときを待った。

さらに一時間が過ぎた。

これほど長い時間、黙って妻を見ていたことはなかった。
いろいろな思いが錯綜し、さまざまな光景が目に浮かんだ。
黙って妻の手を握った。

長女が生まれたばかりの頃、
「ごめんな。おかあさんは何にもまだできんでな」
たそがれ泣きする長女を抱いて、妻はよく言っていた。

生活のリズムを長女に合わせつつ、健全な母乳を生み出すために食事のバランスに気をつかって体調を維持した。
紫外線に弱いアレルギー体質を意識して克服した。

七五三の家族写真を撮ったときには、
「家族の行事は生まれて三ヶ月目の百日参りと七五三。ここまではプロが撮った写真を残してあげようと思う。卒園式はデジカメでしっかりと写真を撮りたい。ディズニーランドに何回もよう連れていかんけど、これくらいはきちんとしてやりたいな。」

長女の成長を夢見るように語る。
我が子を思い、家族を考え、ささやかな人生設計を描きながら、かろうじて仕事と家庭を両立させている。

「大丈夫やよ。もうひとりで歩けるから。」

診察台から起きて、妻がそう言っても、僕は妻の腕を放さなかった。なくしてはならない大切な家族をつかまえていたかった。医師も看護士もいない診察室を出て、誰もいなくなった待合室の長い廊下を歩いた。

「腕を組んだ歩くの、何年ぶりかな。」
妻が何気なく言った。

思いがけない長い一日になった。

鮮烈な夕映えが一面に広がっていた。
これほどまでに赤い空を、僕は生まれて初めて見たように思った。





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