【絶対値の大きい人生を】

安全な道を歩き続けてきた高校3年生当時の自分には、衝撃的な言葉だった。そのおかげで、

・全国模試総合2位

・志望大学への合格

・学生起業家として…

・20代前半での年収1000万円到達

・ベンチャー史上初、未開の地へのトライ

など、自分の根本が瞬間的に変化した一言だった。

 

 2006年3月1日、卒業式にも向かわず自宅に残った僕は、大学受験の第一志望、早稲田大学の合否確認の時間だった。当時の早稲田大学は、受験番号に応じて時間の区割りがあり、所定の時間枠内で所定の番号に電話をかけることで、合否の判定がわかる仕組みになっていた。

 

 携帯電話をテーブルにおき、目の前で待つ。午前10時になるまでに一体何度呼吸を整えただろう。受験本番ですら襲ってこなかった緊張感があたりに張り詰めているように思える。良くも悪くも、この状況を作ったのは自分だ。緊張することすらおこがましい。

 模擬試験は芳しくなかったが、学校の定期試験は一定以上をキープ。その甲斐あって、指定校推薦の枠を確保していた。学年の教師たちにも可愛がられていたものの、「東京の大学へ行く」と高校1年時に所信表明したところから風向きは変わった。指定校推薦も早々に辞退し、「何があっても自分の力一本で行く」と曲げなかった。苦労もしたし、今も変わらず後悔などは無い。もちろん、浪人してしまうようなら、両親にも迷惑をかけてしまうが、「自分の力一本で行く」と言い切っている。選択に悔いはなかった。志望校は早稲田大学一本、滑り止めもなし。その分手厚く割いた時間だったが残念ながらこの日までに吉報は届いていなかった。


 なんとなく窓の外ののどかな風景を見ながら回想していると、流していたラジオから10時の音楽が鳴った。焦ることも、かけ間違えることもなく、番号をプッシュした直後から記憶は一旦途切れている。

 気がつくと夕方で、いつの間に通いつめた予備校の前にいた。契約していた自習室の座席を掃除する可能性はあったし、なんなら左手にお世話になったチューターの方々へ手土産の一つでも持っておくべきだ。ただ、自分が描いてきた構想が崩れた瞬間というのはあまりに残酷で、初めての挫折はどうやら心を砕いていたようだった。

 普段なら建物の一階にいる受付のお姉さんがカウンターにいない。普段ならエレベーターで自習室に上る前に談笑しているものの、若干の掛け違いが不安を増幅させる。仕方なく乗ったエレベーターで自習室へ向かい、席に座ると、心なしか落ち着いてしまった。約1年ともに戦い続けた『戦友』とも言える座席である。本当は労ってやりたかったが、「また1年な」と独り言のようにつぶやいた。

 階下では、チューター陣が待っていた。発表から時間経過していたこともあり、察していたようだ。

「追加で1年、お世話になります」

苦笑いを浮かべながら報告したその先で、ホッとした表情でこちらを見守っていてくれた。最も心配していたのは、部活経験や先輩後輩の経験値もない、友人もろくに作っていたわけでもない僕の『挫折』に打ちひしがれてしまう可能性を考えていたようだった。

 「まあさ、いいじゃんいいじゃん、心配すんなって!」と、浪人経験済な諸先輩方からの言葉を皮切りに、クロストークが展開された。そこで発されたセンテンスに心が奪われた。

 「これまでさ、普通というか大した苦労もなくきたわけだし、いい経験でしょ。試練や困難って、超えられる人間にしかやってこないから。『今』じゃなくて『死ぬとき』を意識したら【絶対値の大きい人生を】送っといたほうが後悔しないって!』」


 ただの会話から生まれた一つのセンテンスでしかない。ただ、その言葉は、今でも忘れない人生の指針になった。

 2007年入学を目指した一年間の浪人期間では、春先に総合偏差値70を突破し、夏には全国模試のランキングで科目別一位、総合ランク全国2桁入りを達成。志望校別模試では全国2位を記録するなど、圧倒的快進撃のまま大学受験を終えた。幅を広げるために、早稲田に加えて東京大学も志望校として据えたが、本番当日に花粉症を発症し、消しゴムのカスどころか、ティッシュの山でリスニングがまともに聞こえないなど、ハプニングの末に夢破れたが、早稲田の花は咲いていた。東大に関してもエピソードトークとして考えれば優秀だ。マインドセット自体が変化した1年を経験し、そのまま今にまで至ってしまうが、今も教壇や部下、コンサル先の会社で発している。

【絶対値の大きい人生を】、疑問符を浮かべる方も少なくないが、それはそれでいい。僕はこれで生きていく。

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。