インドに引っ越した17歳

生まれてから高校1年生までずっと何処にでもいる普通の女の子だった。だからこの先も死ぬまでずっと平凡で普通の人生を歩むと信じていた。しかしこの頃を境に私の人生はまるで漫画か映画の様に展開していくことになる。


高校1年生の夏、初めて飛行機に乗った。行き先はインド。初めての海外にも関わらず、その行き先はあまりにも自分の日常からかけ離れていた。

飛行機に乗って母と姉と、インドに単身赴任の父に会いに行った。父に会うのがもちろん第1の理由だったが、私達には他にも目的があった。


ーーー新居探し。


父の出張期間が1年から2年になるという話だったので、いっそ家族でインドに引っ越してしまおうという事になった。高校生だった私は親の仕事の都合でそんなよく分からない国に引っ越すなんて到底想像が出来なかった。当時の私のインドの印象はこうだ。


ーーーカレーと、乾燥した地域。


私は英語も話せなかったし、家族も話せなかった。ゆとり世代最終学年の私は中学生からしか英語は習ってないし、英会話の習い事をした事も無ければ外国人と話したこともない。インドや英語に関して何の知識もない私は不安でしかなかった。家族と一緒とは言え、どうやって生活すれば良いのか分からなかった。そんな不安を抱えながらも、私は初めての飛行機に、初めての海外に無意識に胸を躍らせ、母と姉に何度も「嬉しそうだね」とか、「少しは落ち着きなさい」と言われた。


そんなこんなで(1人で)はしゃいでいたらインドに着いた。現地時間の夜だった。到着口に着くと父がいた。


「よう、よく来たな。」


数ヶ月ぶりに会った父はいつもより少し浅黒く日焼けし、その肌の色が現地と馴染んで頼り甲斐のある人に見えた。その時点で私達女3人にとって父は、異国の地でのただ1人の日本人であり、頼らなければならない存在になった。父が金魚で、私達はその金魚のフンにならなければいけなかった。

父の隣には専属のタクシードライバーがいた。背が高く、真っ黒な肌に真っ黒な短髪と髭。決して新しくはないが、だからこそ現地に馴染んだTシャツ。たどたどしい中学英語で挨拶を軽く交わし、私達4人家族は車に乗り込み、父の滞在しているアパートに向かった。


日本と違い、インドは乾燥していて暑かった。気温は日本の夏より高い筈なのに、乾燥しているせいかそこまで鬱陶しくはなかった。まだ空港を出て車に乗り込んだだけだったが、初めて体験した異国の地の、初めて体験する気候、それだけでもう自分が日本にいない事を実感出来た。


その夏、私達家族はインドで1週間過ごした。父にあてがわれたアパートは、1人暮らしには勿体ない3LDKで、寝室3部屋のベッドは全てダブルベッドだった。しかもリビングと2つの寝室にはシャワーとトイレがあった。それだけではない。父にはお掃除さんが居た。毎日決まった時間に来て掃除をして帰るお兄さんだった。

時差ボケと旅の疲れと、夜だったのでその日は適当に使い慣れないシャワーを浴びて初めてのダブルベッドで寝た。


翌朝目がさめ、私達4人は早速物件探しを兼ねた市内散策に出た。家を出る時は車とドライバーが居ないと何処にも出られなかった。それは数ヶ月住んでいた父もそうだったが、初めての海外2日目を経験している私には、未知の世界に自分の足で踏むのはあまりにも恐ろしすぎた。


車から見る初めての国。黄色っぽい砂が、アスファルトの全体を薄く覆っていて、その上を何台もの車が埋め尽くしていた。車線という概念はこの国には存在するのだろうか。あったとしてもきっと先程の黄色い砂に覆われて見えなかっただろう。


初めての異国には沢山の人がいた。そのほとんどば男性に思えた。女性が少ないのだ。そして女性はカラフルなサリーを着たり、真っ黒な目だけを出す服を着ていた。後から父が教えてくれた。この国では女の子を育てるのが大変だという事を。女の子は5歳までに死んでしまう確率が男の子より高く、家事に追われて勉強する時間もない。それ故、就職も厳しい。だから女の子は生まれる事も許されないのだという。女の子がいる家はそれなりにお金持ちなのだと。うちは姉と私の2姉妹なので、家族4人で歩いている私達はインド人の目にどんな風に映るのだろうか。なんだか申し訳ない気がした。


道路には砂や車や人以外にも居た。


ーーー牛が。


信じられないかもしれない。でも確かに居たのだ。牛が。それも1頭や2頭ではない。中には車道のど真ん中で昼寝をして、それを厄介に思うドライバーに「お前が退け」とでも言うように太々しく「モ~!」と鳴く牛も居た。

他にも目が潰れたり脚のない犬も100m毎くらいに居た。ここに来る前、日本で狂犬病の予防接種をしたのを思い出す。

傷ついた犬と並んで歩道に座り込み、小さな入れ物を横に置き、隣の犬の様な傷付き方をした人が居た。物乞いだ。

その時生まれて初めて物乞いをする人を見た。お金をもらおうと差し出す手には指が無かった。


インドは人が多かった。車も車線がぐちゃぐちゃで、片側だけで4~5列くらいになっていた。その状況だけでも混乱しそうなのに、車はビュンビュン飛ばし、クラクションが絶えず反響していた。辺りに横断歩道や歩道橋らしきものは1つも無かった。代わりに歩行者はみんな、自分の渡りたい場所で器用に車を避けながら道を渡った。次の車を待っていたら、次いつ渡れるか分からない。そんな状況だった。

途中、赤信号で私達の車が止まった。外から窓をコンコンと叩く音が聞こえた。物乞いだ。外国人は自分達よりお金持ちなのでターゲットにされやすいらしい。

「お金やったらダメだからな。」

前の助手席に座っていた父が言った。

父の残酷な発言に戸惑いを隠せなかった。

お金をあげたらそれが習慣化して物乞いが増えたり、あげた後に物乞いに囲まれたりする。最悪の場合、”物乞いを装っている人”にお金をあげてしまったら犯罪にお金が使われてしまうから、可哀想だけどお金をあげてはいけないらしい。

意外と物乞いはしつこくて、車が出発し出しても窓にへばりついていた。段々車のスピードが上がって、やがてその人は見えなくなった。

残酷な世界が、早くも自分の目の前に広がっていた。


早くも私は3日でホームシックになってしまい、最終日まではずっと帰りたい、こんな辺鄙な場所に住める訳がないなどと散々文句を垂らしていたと思う。


同じ年の冬休みにもう一度新居探しにインドを訪れ、高校2年生が始まる寸前の3月30日、私達はついにインドの新居にやって来た。その家は外国人居住区の一角にあり、門番がいて、クラブハウスがある敷地内の一軒家だった。家の前には芝生の公園と夕方6時に水が湧く噴水。少し歩くとスクールバスのバス停があった。(このバス停も敷地内だ。)

隣は金髪の白人の家族。家の外装もアメリカの映画に出てくるような可愛い家で、家の中は住んだ事ないくらい広く、家具もあまり無かったのでよく響いた。本当にインドなのだろうか。敷地内はまるで(行ったこと無いけど)アメリカだった。敷地内の道路の両端にはヤシの木がズラッと並んで植えられていて、クラクションが煩い敷地外と比べたら晴れてる日はとても穏やかでのどかだった。


街自体はなかなか都会で、直ぐに私はやっとインドがただの「カレーの国」や「乾燥地帯」でない事を学んだ。ちゃんとビルもあるし、大型ショッピングモールも、マクドナルドやケンタッキーもあった。ショッピングモールは私が好きだった日本のショッピングモールよりも大きくて派手で、私はインドの方が気に入った。マクドナルドにはアイスが売っていた。日本にもあるソフトクリーム(日本での商品名はソフトツイスト)だ。だけど値段は3分の1で、30円程だった。

日本にはバニラ味しかないと思っていたのにインドにはバニラに加えてディップチョコバージョンもあったりで、日本より進んでいるところもあった。(ディップチョコバージョンは帰国後原宿で見つける。)

人々はソフトクリームのことをソフティと呼んでいたので、慣れた頃には私もソフティと言ってオーダーしていた。因みにソフティはインド英語で、英語ではフローズンヨーグルトと言う。このように正しい英語を覚える前にインド英語を覚えることもあった。


残酷な現実を突きつけながらも、インドは私に優しかった。何より楽しかった。小さい個人経営のコンビニみたいな店(日本の田舎の駄菓子屋の様な店)ではお札を出すとお釣りがないと怒られたし、店にお釣りが本当にない時は1ルピー(当時のレートで1ルピー=約1.5円)をのお釣りに対し、飴玉1粒が返って来た。10ルピーのお釣りが無くて飴玉20個を手に帰ってきた母を見た時は家族みんなでお腹を抱えて笑ってしまった。


母と私は行動派で、父が出勤で車とドライバーを使っている間に留守番せずに私と徒歩で近くまで出かけた。姉は誘っても付いてこなかった。

そんな母とのインド散策はなかなか刺激的で、ある時は何屋だろうと気になり入った酒屋では昼間から呑んでいた酔っ払い達に(恐らく)お前も呑んで行けと言われ、少し怖い思いもした。またある時はスタバ風のカフェでバニラフラペチーノ風のものを頼んだら不味すぎて殆ど飲めなかったりもした。


私も父も好き嫌いが殆ど無かったが、インド飯に慣れるのには時間を要した。というか、慣れる努力を怠った。日本から大量に買い込んでスーツケースに入るだけ入れて来た日本食をほぼ毎日食べていた。父はパクチーの様な独特のスパイスが苦手だったし、私はそもそもキムチすら食べた事無いくらい辛いのが苦手だった。母が努力して日本食を作るも、インドの野菜は硬くて甘みが無かった。プラスチックみたいたった。だから昼はマックやケンタッキーで済ませたりしていた。ジャンクフードが最高のご馳走だった。それくらい慣れ親しんだ食べられる物が少なかった。

宗教的理由から肉は鶏肉か羊肉しか売ってないし、外国人スーパーでやっと豚を見つけてもハムやベーコン以外は手に入らなかった。牛肉は探しに探して一回だけ食べる事ができたが、その晩に家族全員が得体の知れない菌に感染し腹痛・吐き気・熱に見舞われたので探すのをやめた。さすが神の使いである。バチが当たったのだろうか。

調味料もキッコーマンと書いてあるのに日本の醤油と味が全く違って、とてもじゃないけど食べられなかったし、マヨネーズも瓶に入った不味いのしか手に入らなかった。塩とケチャップが神様に見えたほどだった。


生活面での苦労は他にも絶えなかった。

水もわざわざミネラルウォーターを買わなければいけなかったし、スコールが降ればシャワーから泥水が出た。シャワーからお湯を出すにはタンクの水温めてから入らなきゃいけなかったし、浴びている途中にタンクのお湯が尽きたらいくら水を流しっぱなしにしても日本みたいにお湯が出てくることは無かった。だからタンクのお湯分でシャワーを済まさなければならはかった。


そんなこんなで大変でも楽しいインドの生活になんとか慣れ始め、私と姉は私立のインターナショナルスクールに通うことになった。

インターナショナルスクールは8月から新学期で、小学校1年生から高校3年生までが学んでいた。

インターナショナルといっても生徒の70%くらいはインド人で、お金持ちの子で英語のアクセントも現地の人に比べたらかなり良い方で、小さい頃からきちんとした教育を受けているのが分かった。あとの10%くらいは白人、残りはアジアの韓国人やタイ人などだった。外国人以外はみんな親の仕事で来た子ばかりだったが、英語が話せないのは私達くらいだった。

とにかく校内は広くて大学みたいに毎回授業の度に教室が違えば校舎も違った。遠すぎて迷ってしまい、授業に遅れる事もしばしばあった。(遅れた理由を先生に説明する英語力もなかったので軽く問題児扱いされていたかもしれない。)

敷地内には授業が行われる校舎以外に体育館、食堂、図書館、画材の購買が付属した美術棟、グラウンドも3つだか4つだかあり、寮棟も男女別で1棟ずつあった。外の世界とは違い、とても綺麗で、選ばれたお金持ちだけが通うことを許される学校といった印象だった。


姉は日本の高校を卒業してすぐにインドに来た。つまり19歳になる年だった。2人とも英語が話せないからと父が姉を私と同じ学年(高校2年生)に入れた。習う教科は全て選択制で、高校ではどちらかというと姉は文系、私は理系だったので姉は嫌いな数学をやらなければならなかったし、私は習った事もない世界史をやらなければならなかった。私達姉妹は見事に同じクラスで、Aクラスだった。校内ではずっと一緒に行動していたし、ずっと日本語を話して生活していた。

校内に日本人は別の学年に2~3人いるのは知っていたが、同学年にはいなかったので先生の間では日本人の姉妹と言えば私達の事だった。


英語も話せなかったので到底授業を理解することなんて不可能だった。

先生はみんなインド人で、もちろん英語での授業だったが、訛りが強い(インド英語はかなり巻き舌)先生も多かった。

ノートを一応取りながら聞いてるふり、分かってるふりをひたすらし、帰ったら姉と授業内容の確認・宿題をこなした。

宿題をする前に授業内容を確認しないと宿題の意味がわからなかったので宿題をやる前に2~3時間も時間を要したことまあった。そこからさらに宿題をやるので、かなり英語漬けだったが、私達は一向に喋れるようにはならなかった。英語を理解することがやっとだったからだ。相手の言っていることを理解して初めて頭の中で文法を組み立て、口が動く。

たとえ一往復会話のラリーが続いても、次に相手に言われたことが分からなくて会話が終了してしまうこともあった。

それでも毎回コツコツ宿題はサボらなかったし、授業を理解しようとした。

数学の授業は公式の使い方さえ雰囲気で分かってしまえば意外と簡単だった。問題なのは生物だった。

グループで話し合う、所謂ディスカッションの時間も多かったし、細かい説明がみっちり書かれたプリントが大量に配られた。英語が分からなさすぎて先生に授業変えたら?とも言われてしまった。兎に角私達は先生の目の上のたんこぶだった。ある時から助手のお姉さん先生が私達の所に来てつきっきり教えてくれる様になったが、もともと2人とも生物に興味がなかったので世界史に変えた。

世界史の授業は意外にも大人気で、毎回机が足りなかった。だからみんなで机をシェアしていた。ここまでして皆んな学びたがっていた。こんなに人数が多いのに、日本の高校のように寝ている生徒なんて1人もいなかった。

(この事が、帰国後の私をやけに苦しめ、逆カルチャーショックを経験した。)


幸い2人とも美術が好きだったので美術のクラスでは先生も生徒も私達が絵を描くたびに褒めてくれた。

他の先生が私達が英語を理解出来なくて授業について来れなくても気にしなかったが、美術の先生は違った。全体的な説明が終わったら私達にゆっくりとジェスチャーを交えたりしながら、今何をすべきか教えてくれた。

それに彼女はインドで初めて見た洋服の女性だった。宗教が周りと違うのか知らないが、いつも黒いポロシャツを着ていた。

昼休みには授業とは関係無しに英語を教えてあげるから美術棟に遊びにいらっしゃいと言ってくれた。

それからというもの、私達は(インターナショナルフードとうたっているくせにウチらからしたら100%インド飯の辛い)学食を食べた後に美術棟に通うようになっていった。チョコレートをくれたりして先生は兎に角優しかったし、何でも受け入れてくれた。先生のお陰で他の授業では友達という友達が出来なかったが美術の授業ではタイ人・インド人・フランス人・韓国人の友達が出来た。(それでも相変わらず私達は2人で行動していたのだが。)


そんな学校に通いだして1ヶ月半が経ったある日の午後の授業での事。

学年主任らしき女の先生が私達のESL(英語を母国語としない生徒の為の英語の授業で、私達の担当はイギリスの女の先生だった。)の授業に来た。このクラスには私達の他に韓国人2人と美術で一緒のフランス人の女の子がいた。

学年主任らしき先生は

「日本人の姉妹いる?」

と言った。


呼ばれて「Yes?」と返事をし、私達は廊下に出た。

すると先生の後ろにウチのタクシードライバーがいた。

学校へはいつもスクールバスが家の前に来て、それで毎日登校していた。

先程述べたようにウチの学校はお金持ちお金持ちした学校だったから、薄汚れたTシャツのタクシードライバーがいるこの風景はあまりに異様だった。ゲートまであるのにどうやって一般の人が入れてもらったのか謎だった。

謎が深まる反面、姉妹でいるとは言えまだ英語にも慣れて居なくて心細い思いをしながら綺麗過ぎるお金持ちの学校にウチのタクシードライバーが居ることは何となく私を安心させた。


「あなた達のお父さんが病院に運ばれた。今から病院に向かうから早退しなさい。」


そう先生は言った。言った気がしただけなら良かった。まだまだ英語が覚束ない私のことだから、聞き間違えたかもしれない。

でも私達は先生とタクシードライバーに促され、そのまま早退して病院に向かった。

病院までの道は相当長かった。本当に長かったのかもしれないが、急にこんなことになって何も考えられなくなったのか、兎に角長かった。

車内は静かで、私達姉妹もあまり話さなかった。お父さんは健康そのもので、風邪やら病気やらしたことがなかった。体格も良く、世界一最強な人だと思っていたので私達は

「お父さん、また変なものでも食べてお腹壊したんじゃないの?」

と思っていた。

だがその予想は病院に着いた瞬間に粉々に砕かれた。


病院の駐車場に着くと母の姿が見えた。

タオルを口元に当てて、目を真っ赤にさせながら涙を浮かべていた。

母の涙なんてほとんど見た事がなかったので私は頭が真っ白になった。

そんな母の口から次の瞬間、1番聞きたくなかった事を聞いた。


「お父さん、意識がないんだって…」

著者のAya Tagawaさんに人生相談を申込む

著者のAya Tagawaさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。