はだしのゲンを読み解く

8月になると新聞マスコミが先の太平洋戦争について報道をするようになる。特に86日の広島への原子爆弾投下については様々な視点から報じられる。

広島への原子爆弾投下のエピソードを漫画化した作品に「はだしのゲン」という作品がある。小学校の図書館にも必ずといっていいほど置いてあったので目にしたことが多いはずである。

さて、昨今「はだしのゲン」を小学生に見せるべきでないといった活動を目にするようになった。

 

彼らの主な趣旨はこのようなものである

 

『はだしのゲン』の閲覧不可または撤去の措置を求める要請


(1)『はだしのゲン』の問題点

現在、多くの公共図書館や、多くの小中学校の図書館、さらには各教室にまで置かれていると言われる漫画『はだしのゲン』は、以下のような重大な問題があります。

第1に、その描写の問題です。ゲンが「日本軍の蛮行」を非難する場面に描かれたものは、非常に生々しく、また残虐性を極めており、健全育成の観点から子供たちに見せることには明らかに不適切です。
補足すると、描写されている「日本軍が行った」とされる行為は事実無根であり、これらの行為は、昭和12年(1937年)7月29日に起こった通州事件で、中国人が日本人に対して行ったものなのです。当時、その残虐さは日本の新聞で大きく報道されています。

第2に、天皇に対する侮辱と罵詈雑言が書き連ねられています。小学校学習指導要領では「天皇についての理解と敬愛の念を育てる」と規定しています。こうした漫画を子供の閲覧に供することは明瞭な学習指導要領違反であり、このような図書を学校現場で放置することは、教育委員会としては許されません。

第3に、国歌・君が代の否定です。平成11年8月13日に成立した「国旗及び国歌に関する法律」は「国歌は、君が代とする」と定め、学習指導要領は、君が代を国歌として、児童・生徒が歌えるように指導するように規定しています。この漫画を子供の閲覧に供することは、教育基本法、学校教育法に定める教育目的を否定する行為であり、具体的に教育内容を定めた学習指導要領に明らかに違反する行為です。

第4に、根拠のない、誤った歴史が事実かのように多数、描かれています。いくつか例を見てみます。

① 日本軍は中国、朝鮮、アジアの各国で約三千万人以上の人を残酷に殺したと、数字の上で何ら根拠のないことが書いてあります。

② 日本軍が、殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす、という三光作戦を実行したと書いてありますが、三光作戦は中国軍における作戦であって、日本軍にはそうした作戦を行った事実はありません。

③ 原爆の破壊力と惨状がなかったら戦争は終わらず、日本人は広島、長崎の犠牲に感謝すべきだというようにも書いてあります。このような、終戦をもたらした原爆に感謝すべきだというようなとらえ方は、歪んだ歴史のとらえ方です。

 

 



 

これに対する反論は一言ですむ。「はだしのゲンは漫画だよ」と。

漫画なんだから漫画として面白いか否か、小学生が「はだしのゲン」を読んで感動を覚えるかが争点であるべきなのである。漫画として面白ければ「はだしのゲン」を図書館に置いておけばいいし、面白くなければ誰も読まなくなる。ただ、それだけのことである。無理やり閲覧不可にする必要などない。

 



例えばこの描写に対してどのように感じるか。これは勿論偏見に満ちている。「ピカの毒」が他人にうつるという事例は聞いたことがない。しかしながら、生き残った被爆者は病原菌のような扱いを受け差別偏見にさらされていたという描写である。

 


 

「ピカの毒」を取り除こうと実験を開始するおっさん。現在の視点から見ると単なる頭のおかしいおっさんであり、滑稽そのものである。だが当時においては真剣そのものに「ピカの毒」を取り除く民間療法が跋扈していたという描写である。

 

 

 


 

 

 

げんが旧日本軍の蛮行を語っているシーンはよくやり玉に挙げられる。これは「この当時の広島の人達は旧日本軍とはこんなひどい軍隊であったと話していた、考えていた、噂話をしていた、信じていた」という事実が記載されているに過ぎない

 

当時の広島では「旧日本軍はひどい軍隊であった」ということに対して「そんなことない」という意見よりも「やっぱり、そういう軍隊であったんだな」と考えている人が多かったということである。

 

要するに「当時の広島ではこのような噂話がされていたという事実」が描写されているに過ぎない。その噂話が事実かどうかは関係がないのである。

 


 

 

 

君が代を否定するゲン。多くの小学校中学校では「日の丸・君が代」を卒業式で歌うことをボイコットしていたという事実が描写されているのである。昭和の時代の小学校中学校では卒業式で「日の丸・君が代」に対する反対運動が盛んであり、多くの人たちがそれを受け入れていたという事実の描写である。

 

繰り返し述べる。「はだしのゲン」は漫画である。作者は被爆当時小学生であった。その体験談を「ゲン」という主人公に重ねている漫画である。ともすれば、被爆当時小学生である作者に、その当時の世界情勢も政治的な問題もわかるはずがない。

 

作者自身が被爆者から聞いたエピソードや当時の広島ではこのような政治的な主張をされていたといった民衆の記録を漫画にしている作品である。これは当時の広島における民衆の記録なのである。

 

 

ともすれば、「天皇に対する侮辱と罵詈雑言が書き連ねられています」だから閲覧禁止というのはそれこそ可笑しな話であるといえよう。昭和の時代、広島では天皇なんてのは「敬意」の対象などではなく、戦争を止められなかった極めて無能な存在であるとの評価であったのだ。昭和天皇こそが最もたる戦争犯罪者であるという主張があったという事実をひた隠しにしたいという意思が見えてくるのだ。

 

「ピカの毒がうつるー」と差別する女性。「ピカの毒を取り除く実験をするおっさん」これらの描写には「原爆投下の当時はこんな人たちがいたのだな」と思うはずである。

「日本軍の蛮行を語る人」「卒業式で日の丸君が代をボイコットする教師」これらの描写にも「終戦後の広島ではこんな人たちがいたのだな」で終わるはずである。

にもかかわらず民衆の記録に対して「根拠のない誤った歴史の描写」などと非難するのは筋違いであると言えるのだ。

 

評論家の呉智英(くれともふさ)氏は「はだしのゲン」をこう語る。

不条理な運命に抗して

呉 智英

読者の皆さんにちょっと聞いてみたい。この「はだしのゲン」はどんなマンガだと思いましたか、と。おそらくほとんどの読者が、反戦反核を訴えたすばらしいマンガと思った、と答えるだろう。

読者がはだしのゲンを手に取るきっかけとなった先生や両親や友人の言葉も、これとほとんど違わなかったはずだ。反戦反核を訴えた素晴らしいマンガだからぜひ読んでほしい、と薦められたことだろう。中には少しへそ曲がりな人もいて反戦反核を訴えたお説教臭いマンガだから、読みたくなかった、と答えるひともいるかもしれない。

こうした答えは、ある定説に支配されている。その定説とは、「はだしのゲン」反戦反核を訴えたマンガであり、反戦反核を訴えたマンガはそれ故に良いマンガであり、反戦反核という思想は正しい思想である、というものだ。しかし、この定説は本当に正しいのだろうか。なんの知的検証も無い一種の迷信にすぎないのではないだろうか。
ひょっとしたら「はだしのゲン」は反戦反核を訴えたマンガではないのかもしれない。反戦反核を訴えたマンガの故に良いマンガだという評価の仕方も間違っているかもしれない。

第一、反戦反核という思想そのものに正しいという保証は無いかもしれない。

長年、はだしのゲンを愛読し、その素晴らしさをあちこちに書き、大学でマンガ論の講義のテキストとしても使っている私は、この定説に対して大きな疑問を持っている。そしてはだしのゲンという傑作マンガが、こんな定説に従ってしか読まれていない現状をきわめて残念に思う。

この「定説」が何の知的検証にも耐ええないことを、少し詳しく述べてみる。まず、反戦反核という思想が正しいとは限らない、ということについて考えてみよう。人類は、第二次世界大戦後の半世紀、大国間戦争を経験していない。小国間の局地的戦争や内戦・民族紛争は、不幸なことにいくつもあったし、今もなおある。しかし今世紀前半二度にわたって人類が体験したような世界規模の大戦争は、この半世紀の間なかった。それに代ってこの半世紀の間あったのは「冷戦」という名の偽りの平和であった。米ソ両大国を中心にした東西両陣営核兵器で脅しあいながら維持してきた奇妙な平和であった。しかし偽りの平和であっても、平和は平和である。真実の戦争と偽りの平和のどちらを選ぶかと問われたら、ほとんどの人がとりあえず偽りの平和を選ぶはずだ。

では、冷戦というこの平和はどのようにして保たれたのか。今も書いた核兵器による脅しあい、いわゆる「核均衡理論」によってである。核兵器は一度使用されれば、たちまち起きる報復攻撃の繰り返しによって、全地球規模での破壊をもたらす。それが怖くて核兵器は実際に使用できず、平和が保たれる。そのためには、観念的な平和主義や核アレルギーとはちがったリアルな軍事観・政治観が必要である。ざっとこんな理論である。私はこの核均衡理論はおおむね正しかったと思う。現に50年間の長きにわたって、人類は悲惨な大戦争を経験せずにすんだのだから。

ではそれならば、リアルな軍事観・政治観を欠く観念的な平和主義や核アレルギーは間違っていたのか。まちがってなどいない。本来、核均衡理論は、観念的な平和主義や核アレルギーの広汎な存在がなければ成立しない理論である。核兵器が通常兵器とは比較にならないほど恐ろしい兵器であるからこそ、双方ともに攻撃に踏み切れない、というのが核均衡理論だ。もし核兵器がさほど恐ろしくはないという誤解が広まったら、いつ戦争が始まったかわからない。

核は嫌だ、理屈抜きに原爆は嫌だ、という観念的な平和主義や核アレルギーが実は核均衡理論を支えているのである。こう考えてくると、反戦反核という思想が正しいとは言えず、かといって間違っているとも言えない、ということがわかってくるだろう。

そうだとすれば「はだしのゲン」は反戦反核を訴えたから良いマンガであるという理屈も成り立たなくなるし、これとは逆の、反戦反核を訴えたイデオロギー色の強いけしからんマンガだという理屈も成り立たなくなる。そもそも何かを訴えたマンガが、何かを訴えているが故に良いマンガだという評価の仕方だと、そのマンガの訴えが誤っていたら、マンガ自体も否定しなければならなくなる。

もっとも、マンガ自体が否定されても仕方がないような作品もある。それは訴えを除いてしまったら、何も残らないようなマンガだ。政党や宗教団体の宣伝マンガが、その好例である。

マンガにしろ、美術にしろ、文学にしろ、何かを訴えるということは評価の基準にならない。まして、その訴えた何かが正しかったかまちがっていたかなど、本質的な問題ではない。反戦を訴えようが、逆に好戦を訴えようが、また反戦も好戦もその他の何も訴えてなかろうが、良いマンガは良いのだし、良い美術は良い美術なのだし、良い文学は良い文学なのである。

それよりも、人間を描けているか、人を感動させるかが、作品を評価する基準になるのだ。

「はだしのゲン」は、この意味においてこそまさしく傑作マンガである。

はだしのゲンは、1973年から74年にかけて前半部分が「週刊少年ジャンンプ」に連載され、後半部分は1975年から76年まで「市民」、1977年から80年まで「文化評論」、1982年から87年まで「教育評論」に連載された。私はこの前半部分は雑誌連載中に愛読し、後半部分は単行本になってから読んだ。連載中に読んだこともあり、前半部分の印象は特に鮮烈である。
とりわけ、その土俗的な表現には、しばしば心を揺さぶられた。

ゲンが浪曲を演じて米をもらうシーン、政ニが怨霊となって蘇るシーン、そして、亡き友子を浜辺で荼毘に付すシーンは全編中の白眉である。これに近い事実を作者の中沢啓治が自ら体験したか間近で見聞きしたのだろうが、巨大な災厄に民衆がどのように立ち向かい、不条理な運命ををどう受容するか、見事に描き出している。

今、私は「巨大な災厄」と言い、「不条理な運命」と言った。あるいは反論が返って来るかもしれない。原爆は自然災害ではない。単なる運命ではない「落ちた」のではなく「落とされた」のだと。当然である。広島とその三日後の長崎への原爆投下は、自然災害ではなく、アメリカ軍による無差別殺戮なのだ。しかし、それは政治の言葉である。反戦運動をも含む政治運動の言葉である。私は政治運動を否定しない。政治運動の重要性を認める。したがって政治の言葉を否定しないし、政治の言葉の重要性を認める。原爆投下は天災ではない。その政治的責任を、道義的責任を問うことは必要である。だが、人間は政治のみによって生きているのではない。人間は政治の言葉のみによって語られはしない。政治には還元できない感情の葛藤も、あまりに苛烈な政治現象である戦争も、人は災厄と受け取り不条理な運命だと考える。そこに民話が生まれ、伝説が生まれ、叙情詩が生まれ、文学が作られ、美術が作られ、マンガが作られる。

「はだしのゲン」の中には、しばしば政治的な言葉が、しかも稚拙な政治的言葉が出てくる。これを作者の訴えと単純に解釈してはならない。そのように読めば、「はだしのゲン」は稚拙な政治的マンガだということになってしまう。
そうではなく、この作品は不条理な運命に抗う民衆の記録なのだ。

稚拙な政治的言葉しか持ち得なくても、それでも巨大な災厄に立ち向かおうとする人々の軌跡なのだ。私は他の場所で書いたことがある。「はだしのゲン」2種類の政治屋たちによって誤読されてきた不幸な傑作だと。二種類の政治屋とは、「はだしのゲン」は反戦反核を訴えた良いマンガだと主張する政治屋と、反戦反核を訴えた悪いマンガだと主張する政治屋である。

この不幸な読まれ方以外に、「はだしのゲン」の読み方はないのか。
もちろん、ある。
素直に読むことだ。そして、素直に感動することだ。

とってつけたような政治の言葉でそれを説明しないことだ。

その時、作中人物に稚拙な政治的言葉しか語らせられない中沢啓治のもどかしさも感じられるだろう。歴史的災厄を体験した人の悲しみは、そんなにも深い。その深みを埋めるために、人間は作品を作る。

中沢啓治もまた「はだしのゲン」描いたのである。


中公愛蔵版「はだしのゲン」
のあとがきである。「はだしのゲン」という作品は「はだしのゲン」を読み、呉 智英氏の「あとがき」を読んでようやく理解できる作品なのだ。

 

メッゼージを感じる必要などない。「はだしのゲン」は「反戦・反核」を訴えた素晴らしい漫画であり、ぜひともメッセージを受け取ろうとする連中が多すぎるのである。そしてまた、メッセージを受け取ったら駄目だと反対する連中も多すぎるのである。

あたかも「神作品」と捉え、「神からのメッセージ」を受け取りたがる人たち、解釈したがる人たちが多すぎるのである。漫画からメッセージを受け取ること自体が、ある日突然「私は天空より神からのメッセージを受け取った」と主張するのと同様なのである。

要するに「漫画」として読めばいい。ただそれだけのことなのである。

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