バンノさん

ハンセン病回復者のばんのさんに出会ったのは今年の一月。市と実行委員の主催で、ハンセン病回復者による「架け橋美術展」があった時のことだ。

 わたしは「架け橋展」で副実行委員をすることになった。地域の子どもたちや高齢者施設などで読み聞かせのボランティアをしている関係で、声がかかったのだった。

 正直に言うと、面倒な役割が回ってきたと、尻込みしながら受けた委員だった。ハンセン病のことも学校の授業で聞きかじっただけの知識、ほとんど知らない。日々のボランティアで精一杯だった。でも、せっかくの市のイベント、何かお役に立てればと参加することにした。

 「架け橋展」初日、岡山県「愛生園」のハンセン病回復者が二十名程バスでやってきた。オープニングセレモニーの昼食交流会の時、わたしの正面に座った男性が「ばんのさん」だった。

 昼食交流会は、わたしたち実行委員とハンセン病回復者が向かい合う形で座った。先に指定された席に座っていたわたしは、不安でいっぱい。どんな方が来られるのか、何を話せばいいのか、普通に食事できるのだろうか、そしてわたしは笑顔で向き合えるだろうか、そんな心配が頭を駆け巡った。

 ばんのさんは、やや疲れた様子で席に着いた。「ふう」と声を出し、ペットボトルに手を伸ばす。隣の席にはお世話を担当する愛生園の職員が座っている。ハンセン病回復者といっても、手先に障がいが残っている。おぼつかない指先でペットボトルの蓋を開けようとして、係の方が手を添え、それを手伝った。ばんのさんは、ペットボトルのお茶をそのまま飲もうとして、一瞬ためらい、テーブルに置かれたコップにつぐ。手先が震え、お茶の半分がコップからこぼれた。「あー」と言いながら係の方が、テーブルのこぼれたお茶を拭く。ばんのさんはペコリと頭を下げ、コップのお茶を一気飲みした。そしてようやく、わたしの顔をみて、にっこりと微笑んだ。

 父かと思った。笑顔がそっくりで、そしてよく見ると、体型も髪型も来ているジャケットの色もクリンとした大きい目も、父にそっくりだった。

 「ばんのと言います。板野と書いてばんのです」

 声も父に似ていた。ぶっきらぼうで人前では口数の少ない父の、その話し方までが似ていた。怖くなるくらいに。

 それから、ばんのさんとたくさんの話をした。まるで父と話しているみたいだった。息子のこと、今の生活のこと、最近あった小さな出来事まで、何でも話した。昼食を終えたほかの方々は、席を立ち展示会場に向かっていたが、わたしはばんのさんと最後まで席で話をした。楽しかった。ばんのさんの笑顔を見るたびにほっとした。

 食事に出された「柿の葉寿司」の柿の葉をうまくはがせない。またお茶を少しこぼした。食後のおまんじゅうは、お腹がいっぱいだからと、わたしに差し出した。動きがひとつずつゆっくりで、モタモタしていて、頼りないのだが、わたしはじっとその様子を見ていた。生きていることの大切さを感じた。ばんのさんは、差別されながら、病気と闘いながら、一生懸命に生きてきたのだ、そして今も一生懸命生きている。

 ばんのさんの生まれた年を聞くと、父と同じ年だった。ばんのさんには、家族がいない。もしかすると、わたしを娘くらいの気持ちで接してくれたのかもしれない。

 「ばんのさんって、わたしのおとうさんに似ています。年も同じ」「ほう、いまどうしてらっしゃる?」「十年前に病気で死にました」「そうか、さみしいねえ」

 その時だけは、本当に心からさみしそうな顔をしてくれた。うつむいた顔も父に似ていて泣けてきた。

 「愛生園」のバスが玄関前に到着したことを告げるアナウンスがあった。お別れの時だ。

ばんのさんは、車いすの方々と違い比較的お元気なので、最初にバスに乗り込み、後部座席に座った。座るとわたしを見つめ、頼りない手をずっと振ってくれた。主催者のわたしたちは全員深々と頭を下げて見送っていたが、わたしはばんのさんを見つめたまま、手を振り続けた。大きい目が、わたしに何度も微笑みかけてくれた。

 ばんのさんはこの美術展で自作の「陶芸」を展示している。ばんのさんが帰った後、ばんのさんの陶芸作品を見た。それは中にぼんやり光が灯る、灯篭のような作品だった。ばんのさんがゆっくり丁寧に、失敗を繰り返しながら、この灯篭を作っている姿が想像できて、涙があふれた。父も陶芸が好きだった。何度も父の笑顔と重なった。また会えるかな・・・とつぶやいたわたしに、灯りは優しく、ゆらゆら揺れ続けていた。

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