祖父の言葉「昔のことは思い出されるのに、昨日のことが思い出せん」のお話

「昔のことは思い出せるのに、昨日のことが思い出せん」のお話

記憶とは日々うとくなるものである。 「日々うとく」と言っても、昨日のことでさえあやういものだ。 昨夜の晩御飯のメニューさえ覚えていないことがある。 家に帰った時から妻と交わした会話、洋服を着替えて食卓についたことまでの記憶をたどってみる。 でも全く残念なことに、その後何を食したのかどうしてみても記憶に無い。こんなときは私のために精魂込めて料理を作ってくれた妻に申し訳がたたない気持ちで一杯になるものだ。 94歳で亡くなった祖父が生前よく僕に語っていたフレーズがある。 「昔のことは良く覚えているのに、昨日のことが思いだせん。」 この言葉をいう祖父はいつもはにかんで笑っていた。 ただ、「記憶」ではなく、「思い出」となると話は変わってくる。 特に素敵な思い出であればあるほど、その映像は鮮明で、お気に入りの色のクレヨンや絵の具で描いたくらい色鮮やかに、脳裏に浮かんでくるものだ。 時にはその時の香りまで思い出されることもある。 ある匂いりを香る好きだった場所を思い出すかも知れない。 ある匂いを香ると好きだった人を思い出すこともあるかもしれない。 そのようにして様々な出来事を思い起こすと自分は「幸せな存在」であったこと自体を思い出すかも知れない。 結局、人生とは「思い出」を積み重ねるだけの道のりなのだろう。 いま楽しんでいたり、いま苦しんでいたり、人それぞれ悲喜こもごも「今」という瞬間を過ごしている。でも、結局は次の瞬間にそれらすべては「思い出」に変わっている。 たった今あじわった喜びや悲しみまでもが、ふと我に返った時にはすでに「思い出」に変わっている。 「今を生きよう」とか「今を大切にしなければ」と言ってみても、いずれそれは「思い出」という棚の中にそっとしまわれてしまう。 それは人間の生にとっての虚しさ(むなしさ)や儚さ(はかなさ)を象徴するものであるかもしれないが、確かに言えるのは、引き出しの多い人生ほど濃厚で味わい深いものであるということだ。 この引き出しが多い人ほど人生は楽しくなるのだろう。 今日はこんな洋服を着てみようと違う引き出しから気分にあった洋服を出してみるように、いろんな思い出を収納している人は、それだけで人生を楽しめるのではないだろうか。 若い人が生き急いで死を選択するのは、この引き出しが少ないために起こる悲劇かもしれない。 もし彼や彼女に違った色の思い出の引き出しがあったなら、この先味わうであろう人生の行く末に希望や光が見えたのかもしれない。 でも引き出しの中がからっぽであったから、空虚感にさいなまれ生き進んでゆく価値を見出すことができなかったのかもしれない。   だから僕はここに思う。 何かを恐れて何もしない人生よりも進むことを選ぼう。 失敗して心を支配する敗北感や挫折感などすぐに思い出に変わってしまうことを知っているのだから。 様々な感情は時間の経過と共に「思い出」という棚にそっとしまわれて、たくさんの引き出しを持った人が人生を楽しんでいるように思う。 華々しい思い出も、砂をかむような思い出も等しく人生の味わいを深める要素に違いない。 人生とは「思い出」を積み重ねるだけの道のり。 でもその途方もなく虚しい人生の意味を知った時、一方では屈辱感や敗北感などの負の感情からも開放されることとなる。 すべてが「思い出」に変わっていくのだ。   おしまい

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