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16歳夏の忘れられない悲しい出来事

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著者:
大柴 貴紀

これまでの人生で最も勉強をした時期である中学3年の冬。僕の勉強机は家族の寝室の一角にあった。夜遅く勉強する時は部屋の電気を消し、机の蛍光灯だけで勉強した。傍らには家族が寝ていた。机の蛍光灯が寝ている母親の顔に当たらないように工夫したりした。この頃、母親の体調が急激に悪くなっていた。


母親の様子が少しおかしいなと気づいたのは秋くらいだった。これまで就寝時以外に横になっているのを見た事がなかったが、この頃から時折横になって休んでいる姿を目にするようになった。疲れているのかな?くらいにしか思わなかったが、次第になんだか調子悪そうになっていった。


受験が終わり、無事に希望の高校に合格した3月。母親の入院が決まった。病室の関係上、4月1日に入院することになった。4月1日と言えば、高校生活がスタートする日でもある。入学式はまだだけど、事実上の区切りの日であった。「入学式は来れないんだなぁ」とぼんやり思った。


家から自転車で30分くらいの大学病院に母親は入院した。そこは、僕が生まれた病院でもあった。母親としては約16年ぶりにその病院への入院となったわけです。高校入学後のバタバタの合間をぬって、週に数回お見舞いに行ったけど、やがて部活も忙しくなり、友達もできてきて、楽しいことを優先するようになり、お見舞いの回数は徐々に減っていった。「どうせすぐに退院するだろう」と思ってたし。


当初は検査入院という感じで入院した母親だが、検査をすれど原因はわからず、検査手術を繰り返した。少し太めだった体型は見る見るうちに痩せていった。入院期間が長くなっていることよりも、ビジュアルの変化に僕は動揺した。これはひょっとしてマズいのかもしれないと思ってきた。


夏休みに入り、部活で合宿に行く事になった。合宿に持っていく物を買いに行った帰りに病院に立ち寄った。「今度部活で合宿に行くんだ」「これを持っていく」「最近はカラオケにはまっている」などと他愛もない会話をした。ひとしきり話を終えたので帰ることにした。いつもはベッドで見送ってくれる母親がこの日は病院の外のエントランスまでやってきた。「ひょっとしたらもう会えないかもしれないからさ」と母親は笑って言った。大きな手術が控えていた。合宿の最終日、東京に帰ってくる日に予定されていた。


合宿は予想を超えてハードで、ヘトヘトで帰宅した。家には誰もいない。みんな病院で手術に立ち会っている。僕も荷物をおいて自転車を走らせた。予定通りならば手術は終わってるはず。当時は携帯が無い時代。状況がわからないので、とにかく病院に向かうしかすべは無かった。


病院につくと家族と親戚がいた。どうやら手術は続いているようだ。結局十時間を超える大手術となった。結果論だが、この手術では何も解決できなかったようだ。


その数週間後、再度大きな手術が行われた。度重なる検査と二度の大きな手術で、母親は骨と皮だけのようになってしまった。そして、水を飲んでいけないという事なので、喉が枯れ、声も出ない状況となった。


8月のある日、親戚とともにお見舞いに行った。「退院したら何が食べたい?」と聞いてみた。母親は擦れる声で「スイカが食べたいな」と言った。スイカならば喉の乾きも潤してくれるだろう。「夏だし、スイカいいね。今度食べよう。」と言って病院を後にした。その夜、病院から「至急来てくれと」電話があった。


病院に駆けつけると、明らかに危篤な状態の母親が苦しそうにしていた。緊急の手術が行われ、そして再び病室に戻ってきた。母親は苦しそうにしていたが、やがて、先生、そして僕達に目線を向け、目を閉じた。


数時間後、心電図の「ピー」という音が病室に鳴り響いた。




もう30時間以上起きていたが、家に戻ると近くのスーパーに走った。そしてスイカを買い、母親に持っていった。食べることはできなかったけど、きっと天国で食べたいはずだから、と。



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48歳で亡くなった母親。それ以来、心のどこかで「僕も48歳で死ぬかもしれないな」と感じながら過ごしている。48歳というを一つの区切りと考えていて、それ以上生きたらラッキーだなって。生かされているんだなって。日頃、毎日をダラダラと過ごしてしまっているけど、時折この事を思い出して「ちゃんと生きなきゃ」って意識するようにしている。でもやっぱりダラダラしちゃうんだけどねw


あと、たまに書いたり話したりしないと、この事をどんどん忘れていってしまう。記憶ってのは残酷というかよくできてるというか。